四日目
その日は見慣れぬ格好の女性が居間に倒れていた。
黒髪は高い位置で団子に纏められて鳥の羽に模した髪飾りが差されている。真っ赤で細かな刺繍が施された衣装は着物と違い上半身の線を強調するよう。腰から下はふんわりと広がって、内側に何重もの薄い布が重なっている。脱がせて土間に置いた履物も、踵が高く爪先の尖った見慣れない物だった。
歳は二十代半ばくらいだろうか。目を閉じていても怜悧さがある美しい顔立ちは同じ人種に見えるけれど、恰好からするともしかして異国から迷い込んだのかもしれない。
そして例によって、耳や指先が異様に細長く尖っていた。
取り込んだばかりの布団の上へとその体を乗せる。
「それにしても何だってんだ、こいつの恰好は」
傍に屈んだオッポは怪訝そうにその女性を覗き込んでいる。
「また縛られてやがるし」
胸元を太い縄でぐるぐると巻かれている。
彼は離れて囲炉裏の円座に座する千代の方を見て、元の世界で流行っているのかと尋ねた。勿論そんな珍妙な流行りなど存在しない。
「今度はまな板じゃないですね、オッポさん」
「む」
オッポの視線が素直に胸元へと移る。見慣れない服に気を取られていたらしい。千代も思わず目を奪われるほどにこの女性の胸元は豊満と言えた。
千代のすぐ隣でしゃがんでいたヒトミが歯を見せて笑う。
「うわあ助平だあ」
「なにいっヒトミの癖に……このっ」
オッポが鷲掴もうと伸ばした手を、ヒトミは軽々と避ける。更にあかんべえと舌を出して煽る。そのじゃれ合いが段階的に激化していって、二人はとうとう追い掛けっこを始めてしまった。
「やかましくしては起こしてしまうというのに」
苦笑するツノは一人自分の調子を崩さず茶を飲んでいる。
「すぐ起こしてあげないのですか?」
「わざわざ必要無いと思うよ。様子に異常が無さそうなら尚更ね」
女性に寄ろうとすれば、更に言葉を掛けられる。
「千代さん。まだ縄を解かないでね」
ちょうど千代は固く結ばれた縄に触れていた。顔だけでツノに振り返る。
「何故です? このままではきっと苦しい筈です」
自分が此処に来た時だって、すぐにオッポに解いてもらって安堵したのだ。
「――きゃははっ!」
ドタドタと縁側を走るヒトミが楽しそうに居間に通り抜けて、その後ろを遅れてマジな眼をしたオッポが走り抜けていく。
千代の傍で寝ていた女性が、その物音でゆっくりと目を覚ます。その黒い瞳が千代をしっかりと捉えた。
「あなた……」
掠れた声でぼんやりと呟いている。
「お、おはようございます」
同性だというのに思わず緊張してしまう位に女性は美しかった。まるで職人が丹精込めて作り上げた作品のよう。顔色の悪さがかえって引き立てている。
「あの、お加減は……」
その言葉に、すぐに女性は眉をひそめてしまう。
「なあに、その貧乏臭い恰好……、いつもの……あの、ほら、誰だったかしら、呼んできて頂戴よ。アタシとても喉がカラカラで……、どうして動けないの、何これ……」
言いたい事だけ言って、女性はふうと息を吐く。そしてまた横になって微睡む。
千代はぽかんと放心していた。結構ズバズバ遠慮なく物言いする人のようだ。
その後ろでツノが乾いた笑いを零す。
「やっぱりそのまま転がしておこう」
暴れられたら面倒そうだ、なんて穏やかな表情のままツノはさらりと毒を吐いた。千代は苦笑しか出来なかった。
***
夕餉の準備をしている最中に、甲高い悲鳴が上がった。
「――いやああっ! 気味の悪い! こっちに来ないでよっ!!」
驚いた千代は持っていた竹籠ごと食材を落としてしまう。一つ一つ破損状態を確認しながら拾い上げていると、
「うわああんっ」
「ひゃあっ」
居間から飛び出してきたヒトミが真横から腰に抱き着いてきて、とうとう千代は尻餅をついてしまった。土間に更に食べ物が散乱してしまう。何とか豆腐だけは死守できた。
少年の背を撫でて慰めていると、
「あのおばちゃん酷いいっ」
涙目のヒトミは居間を指さした。
「おばッ、おばちゃんですってえ!?」
開いた襖から、女性が見える。昼間敷かれた布団の上でまだ後ろ手に縛られたまま腰を下ろしている。顔色はぼちぼち回復していた。
「ちょっとそこの女中! その失礼な化け物は何!? さっさと追い出して! アタシのこれっ早く解きなさいよ!」
一番人間離れしたヒトミに驚く気持ちも、状況が理解できない恐ろしさも大いに分かる。女中扱いされた事に少々の腹立たしさを感じながら、千代は両手の平を向けて宥める。
「まあまあ、あの、取り敢えず落ち着いて下さい」
しかし千代の努力を邪魔するように、
「失礼な化け物とは、愉快な自己紹介だな」
ハハッと笑い飛ばすオッポが、呑気に囲炉裏に薪を移し入れながらそんな言葉を発してしまった。
(ああっどうしてそう余計な事をっ)
ツノもまた呑気に「こらこら」とオッポを窘めているがもう遅い。女性の感情の矛先がオッポに変わる。
「髷に刀だとか、ふんっ、時代遅れの侍風情じゃないっ、偉そうな口を聞かないで!」
「ンだと貴様ァッ!」
オッポが額に青筋を浮かせ片膝を立てる。その手が刀の柄に掛けられている。
「アタシはっ……――」
オッポに負けじと叫ぶ女性の勢いがそこで途切れた。
アタシは、――と本来なら彼女の地位や名を名乗る筈だったのだろう。口だけが陸に上げられた魚のようにハクハクと動く。記憶が不自然に失われている事に気付いてしまったらしい。
千代はヒトミから静かに離れて、着物に付いた土埃を払った。居間の箪笥の中を探って適当な握り鋏を取り出す。旅の途中ずっと懐に忍ばせていた小刀を使いたかったのだけれど、此処に来た時点で無くしていた。贄とされた時に村人に盗られたのかもしれない。
彼女の後ろに座る。暴れようとする女性に、「動かないで」と強めの語気で制する。しかし説明も無しに背後を取られたら不安になるのも当然だ、言い過ぎてしまったか。
「縄を解きますから」
そう伝えてから、鋏で切れ目を入れていく。触れた手はやはりというべきか、人間らしくない冷たさだった。オッポやヒトミよりはまだ温かさを感じるような、……気がする。
「妖ごときが群れてこんな企み事……、すぐにお父様や憲兵が……」
聞き慣れない言葉が混じっていたけれど、要は彼女にはすぐに見つけてもらえるという自信があるのだろう。裕福な生まれだったのかもしれない。
縄が完全に切れて床に落ちた途端、女性は振り返って千代の胸元に強くしがみ付いた。
「ねえ、アタシっ、アタシは早くどこかへ行かなければいけなかったっ、そんな気がするのよ……! こんな目に合っている場合じゃあっ……攫った事は見逃してあげるから、早く帰してっ!」
語気こそ強いが、隠しきれない恐怖に音が震えていた。誰だって突然こんな目に合えば怖いに決まっている。
「私達が誘拐したんじゃないんです」
「嘘よっ、だって貴方達みんな怪しいっ!」
「信じて下さい! 私だって帰れるなら早く家に帰りたい!」
しがみ付く女性の両手首を上からぎゅうと握る。
ああそんな、と。女性が自身の手を凝視したのはすぐの事だった。指の関節が異様に太くなり赤爪が猛禽類のように尖って伸びている。
絶句しながらも、自身の太腿の上で一つ一つの指が自分の物であるのか否か確かめていた。
千代は変化もしていないし記憶も失っていないから、下手な慰めなど出来ない。どう声を掛けるべきか悩んでいると、
「我々はこれから夕餉なのだけれど、君もどうかな。腹が減っては正常な判断もつくまい」
ツノは千代が来た時と同じように優しい雰囲気で――しかしその眼は「面倒だから一緒に飯を済ませておいておくれよ」と言っているような……――とにかく穏やかに女性に話し掛けた。
女性は千代に縋った目を向けたまま答えに窮している。見た目で変化もなく同性である千代が頼りやすく見えるのだろう。
「そうそう、今晩はつみれ鍋にするんですよ」
ね、と女性越しに土間のヒトミに微笑みかける。下ごしらえにも積極的に手伝ってくれて一番楽しみにしていたのは彼だ。少年は太い柱の陰に体を隠して、まだ潤んだ瞳のまま千代を見つめていた。ぎこちなく頷いてくれる。
囲炉裏の向こう、板間の上をオッポが刀の先端でトントンと叩いている。
「おおい千代、腹が減ってきたぞ」
「お料理出来ない人は口を出さないで下さい」
むうとオッポは口を引き締め、横座ではツノがぷっと噴き出していた。
千代は女性の腕を取り、食事場の客座へと座らせた。座する三人の顔を順に見る。
「ご飯が出来上がるまでに、お名前、ちゃあんと考えておいて下さいね」
正面に彼女が座ってからオッポが何だか文句を言いたそうな顔をしていたが、千代はすぐにその場を離れてヒトミのいる土間へと降りた。
……が、その前に女性が縋るように千代へと手を伸ばす。
「ちょっと待って女中さん――」
すっかり攻撃的な雰囲気は剥がれたが、その言葉だけは頂けない。思わず千代はむっと顔を顰めて、ずずいっと女性に顔を近付ける。
「こんな処に女中なんて居ないです! 私は、千代、ですっ!」
「わ、分かったわ、千代」
怯む女性の後ろ側で、またツノが一人くつくつと笑っていた。意外と笑い上戸なのかもしれない。
漸く食事の準備に戻れる、と台所に立つ。
食事の準備はツノと千代が交代で行うよう話し合いで決めていた。幼いヒトミは好きな時に手伝いに入っている。千代は目の当たりにしていないが、オッポに任せると禍々しい謎の物体が出来上がってしまうらしい。ついさっき、そんな事をヒトミにこっそりと教えてもらっていた。
ちなみに料理の出来ない者ばかりが集まった期間はそれはもう悲惨だった、と記録にも残っていた。そういう点は〝家主〟に考慮してもらえないらしい。
思い出して、千代はつい小さく笑みを零してしまう。傍に寄って来たヒトミに不思議そうに見上げられてしまった。
「姉ちゃん……」
「あっヒトミさん、そのう、あの人も悪気があったんじゃないと思いますから……」
真正面から罵られた事に傷付いているだろう。ツノやオッポに比べて初見の衝撃が強いだけで、話せば無邪気な普通の少年だ。きっと彼女だってすぐに分かってくれる。
しかし少年は黙ったままかぶりを振っただけだった。ぼそりと何かを呟いていたが千代の耳には届かない。聞き直すより前に、
「お腹空いたよ、早く早くっ」
ヒトミはいつも通りの笑顔に戻ってしまった。
ヒトミと共に仕込みの済んだ鍋を囲炉裏に運んだ時には、三人の話が落ち着きをみせていた。ツノは説明をする度、繰り返し「信じられないと思うけれど」と付け足している。顔を伏せて彼女は静かに聞いている。頷きはするけれど話を丸呑みにはしていない様子だった。それも当然だろう。
女性の仮名は変わった着物と爪の色から〝ベニ〟と決まった。
オッポがおかずを咀嚼しながら、鍋を物色している。その箸の先にあったつみれをベニが先にお玉で攫った。長い爪のせいで少し食べ方がぎこちないが、やはり良いところの育ちなのだろう、身に付いた上品さは損なわれていない。
「儂の邪魔をするなっ、このトゲトゲ女め」
オッポは先程の口論がまだ引き摺っているらしい。侍の魂を時代遅れと否定されたのだから無理も無い。千代に対してよりも更に非友好的な態度を表している。
客座の位置、ベニは左隣に座る千代に耳打ちした。
「ガキっぽくてヤーね」
「オッポさんですから」
「まあ」
女性は二人視線を合わせて、ひっそり笑った。