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十日目(二)

 二人して見慣れた玄関口に飛び込んで、急いで引き戸を閉めた。

 千代はへろへろと腰を抜かして戸を背に座り込んでしまう。隣で同じく腰を下ろしたオッポも抜き身の刀を支えに息を荒げていた。途端に全身から汗が噴き出した。


「やだっ! 二人ともどうしたっていうのよ!」

 目の前にはベニとヒトミが真っ青な顔をして、濡れた手拭いで千代の顔を拭いてくれる。その布の汚れ方に、思っていたより多く鬼の血を被っていた事を知った。幸い怪我も無く着物も点々と汚れているだけだ。これもオッポが守ってくれたお陰だった。


 千代は拭われながら思いを馳せる。

 あの鬼が千代に掛けた言葉。確かに「早く通りませ」とそう聞こえた。てっきり生きている者の血肉を食らう悪鬼ばかりかと思っていたけれど、あの化け物は――もしも牡丹が言う通りなら――まだへんげする前の人間だった頃の意思が残っていたのではないだろうか。千代達を夜の世界から守って逃がしてくれようとしたのではないか。

 まだ煩い胸元の着物をぎゅっと手で握る。

 千代の考え過ぎだろうか。もしもオッポが居なければ千代はあの鬼達に血肉を捧げて帰ってこれなかったかもしれない。

 ぽろりと涙が出てしまって、ベニが焦ったように自身の袖で拭ってくれた。


 ツノも遅れて近くに寄って来た。青い顔をしている。

「〝外〟で何があったんだい」

 二人揃って夜になるまで出歩くなんて、初歩的な失敗をする筈が無いと思われているのだろうか。

 ヒトミから渡された手拭いで顔を拭っているオッポが答える。

「分からん……。急に荒地に変わった」

 その答えに、事情を知らない三人は戸惑いを見せた。

 ツノがかぶりを振る。

「何を言ってるんだい、まだ暮れ切ってはいないよ」

 そう言ってツノは閉めたばかりの玄関口を少し開いてみせる。そこには霧が深い夕方の光景が広がっていた。家々がうっすら並んで見える。

 千代とオッポは思わず顔を見合わせる。

「そんなっ、だって、さっきまで確かに……この目で見たのに……!」

 幻覚では無い事は、二人が浴びた鬼の血が証明している。二人だけが夜の空間へと足を踏み入れてしまったのだろうか。

 オッポは舌打ちして一人立ち上がって、裏口へと消えてしまった。何枚も手拭いを掴んで持っていくところを見るに、全身に浴びた鬼の血を流しに行ったのだろう。

「千代さん、少し休んだ方が良い」

 そんなに酷い顔をしているのだろうか。

 ツノの言葉に頷いて、ベニの助けを借りながら客間へと向かった。


 ***


 目が覚めた時には真っ暗だった。どうやら夜中に起きてしまったらしい。くうと腹が鳴って、こんな時でも正直な自分の体に苦笑してしまう。しかし何も食べれる気分ではなかった。

 隣で寝るベニを起こさないように、適当に羽織物を肩に掛けて寝間着のままで縁側へと出る。そこにはすでに先客が居た。客間と居間の境目の位置に大股を開いて座っている。

「……オッポさん」

 煙管からゆらりと薄い白煙が上がる。男は遅れて振り返った。傍の柱に刀が立て掛けてあるのがぼんやりと見える。

 彼はまた視線を外して煙管を銜えた。

 千代も勝手に座る。彼とは人二人分ほど空けた距離に腰を下ろした。夜の庭は花に囲まれて立つ灯篭の明かりが一つだけで、殆ど何も見えない。

「助けて頂いて、ありがとうございました」

 しかし何も返ってこない。この距離で聞こえていない筈は無いのだけれど。

 男は煙管を縁側の淵にこつりと優しく当てた。

「お人好しか。元はと言えば儂が連れ出したのだぞ。何故責めない」

 顔は良く見えないが、声の調子はいつもよりも静かだ。淡々と諭されるよう。

「……あっ、そういえばそうでしたね。全く、オッポさんが我儘なせいで酷い目に合いましたよ」

「今更気付いたか」

 オッポは少し笑っているようだ。


 怪我は、と聞かれて、千代は無いと答える。鬼の握力も特段強いものではなく痛みも残っていなかった。――獲物として千代を捉えていたのなら、それこそもっと骨に響くほど乱暴に掴んでいてもおかしくなかったのに。


「正直、牡丹ちゃんにまた会えるかもって期待していました」

 一度目に誤魔化されてばかりだった分、次こそはもっとちゃんと聞き出そうと思っていた。そんな事を千代が思っていたから、牡丹は会ってくれなかったのだろうか。自称道楽モノの彼女の性格は今一つ掴み切れない。


 千代、と名前を呼ばれて顔を向ける。

「千代、何故自分のせいだと思った。お前はまだ何を隠している」

「わ、私、そんな事言いましたっけ……」

 唾を飲む音がいやに大きく聞こえた。

「惚けるな」

 オッポになら、言っても大丈夫なのだろうか。彼の脱出への熱を奪ってしまいかねないだろうか。

 千代は暫く重ねた両手を固く結んだり開いたりして、結論を出した。

「牡丹ちゃんが、言っていたんですけど……」


 ――千代は此処に紛れ込んだ生者だと言われた。帰れる可能性を示唆された。人間が悪鬼へと変われば、生者を求めて彷徨ってしまう。らしい。

 精一杯言葉を選びながら牡丹に言われたことを全てオッポに話す。

「つまり、儂らは――」

「ま、まだ! まだ分かりませんよっ! もしかすると牡丹ちゃんの冗談だとか意地悪だとか……!」

 夜中だと言うのに大きな声を張り上げてしまった。千代は誰に対してだか謝罪の言葉を呟く。

「儂より動揺してどうする」

 オッポはいつも通りフンと鼻で笑い飛ばしてきた。

 むしろ彼が怒ったり慌てたりしていない方が不思議だ。千代は確かに彼に「死者」という言葉を用いたのに。

 オッポは懐をあさっている様子だ。

「薄々は感じていた。納得している。恐らく他の者達もそうだろうよ」

「でも……」

「生憎とその程度で諦めるつもりは無い。死んだと言うならもう一度生き返ってやるまでだ」

 あくどく鼻で笑い、新しく煙管に入れた種に火を付けた。

 千代は呆然と「はあ」と溜め息交じりの返事を返した。

「本当にオッポさんなら出来ちゃいそう、ですねえ」

 当然、と男は大きく頷いてみせた。

 別に落ち込んだオッポも見てみたかった……訳では無いけれど。ここまで動揺されないというのも良い意味で予想外だった。


 オッポに話す事で、千代は少しばかり肩の荷が下りた気分だった。

 だからだろうか、くあ、と大きな欠伸が出てしまう。

「まだ夜は長い。早く寝て来い」

「――あ、待って下さい、あと一つだけ。この家に残ってる〝問題〟って何だと思いますか?」

 少しの間が空いて、

「家主が偏屈クソババアなところ、か」

 同意しにくい答えに千代は苦笑いした。もしかしたらあの邸宅からこっそり会話を聞かれているかもしれないのだ。

 そんな家主の「ほほ」という笑い声が聞こえた、気がした。


 ***


 ――目の前に鬼が二匹居る。

 千代はだがしかし、彼らに平然と向かい合っていた。互いに座布団の上に正座している。鬼の下に踏まれている座布団は随分とちんまり薄く見えた。

 此処はすっかり見慣れたあの居間の中だった。巨体が二体入ると、十分広いと思っていた空間も小さく見えるものだ。二匹の頭は天井すれすれにある。見ている此方が息苦しい感じを受ける。

(何、この状況)

 全身汗がじわりと滲み出てくる。

(そうか、夢だ、これは夢……)


 向かって右の鬼が口を開く。

「斬り付けられるというのも、中々痛いものですな」

 初老の男のような、ずんと重く響く低い声だ。最初に右腕を斬られた鬼のそれと声が似ているような気がするし、そう言いながら無傷の右腕を擦っている。

「私の方は腹を少々」

 向かって左の鬼はそう腹を撫でている。二人の鬼は顔を合わせて穏やかに笑っている。『通りませ』と千代に言っていた中性的な声によく似ていた。そうして千代の見慣れた湯呑で熱い茶を飲んでいる。

 二人の鬼は、若い頃ならもっと機敏に対抗できたのにだとか大層な武勇伝を競うように話している。その前にどう見ても裸に見えるのだから服の一枚でも着てほしいところだ。


 さっき外で襲ってきた時はそんなに流暢に喋らなかったじゃないか。

 やはりこれは、千代が罪悪感から生み出した夢なのだろうか。


「――そう、千代の夢の中じゃ」

 聞き覚えのある声に右を向いた。右側の食事場、囲炉裏の手前側――いつも千代やベニが座っている客座の位置にゴロリと横たわっているのは間違いなく、牡丹その人だった。しっかり脇息を持ち込んでいる。

「こやつらと一緒に邪魔しておるよ」

「牡丹ちゃんっ!」

 あんなにも会いたかった人が今更あっさりと姿を現している。

 二人の鬼は会話をやめて牡丹に頭を下げている。楽にせよと牡丹が声を掛ければ鬼達は従った。


「あの尾っぽ侍は単細胞じゃのう。こやつらはどう見ても悪鬼とは違うのに」

 千代の目にはどう見ても同じに見える。

「で、でも、突然現れて襲われました! オッポさんは助けてくれたんです」

 千代の反論に鬼達二人がざんばら髪を揺らして「ええっ」と驚きを示した。


「私らは願いに応えただけですよ」

「ええ、ええ、このお嬢さんの願い通りに道を開いただけですよ」

 二人とも反り鼻をひくひく動かしている。腹を刺された方が口周りの涎を腕で拭った。何だか食べ物として見られているようで居心地が悪い。


 混乱する千代は牡丹の方へと顔を向けた。助けを求めるように。

 牡丹は開いた扇子を上空でひらひら舞わせる。

「ほほ、せっかくの機会も、尾っぽ侍に邪魔されてしもうたようじゃのう」

 その何気なく掛けられた言葉に、千代は全身に力が入った。

「私は、私達は、帰れるところだったんですか」

「おや、偶然探り当てておったのか」

 愉快愉快と牡丹は上機嫌だ。鬼達もそんな彼女を煽てる様に同意している。両者の関係には上下関係があるように見えた。


 オッポと二人で歩いていた時、千代はどうしていただろう。何を思いどう行動していただろう。焦って中々上手く思い出せない。

 そう焦る千代の手にいつの間にか、ちりめんの小袋が渡されていた。紐をほどいてみれば色とりどりの金平糖が入っている。牡丹は千代に「考え事には甘い物。常識じゃ」と得意気に微笑んだ。……彼女が手っ取り早く答えを教えてくれれば、こうして頭を使わずとも良いような気がする。


「ぼ、牡丹ちゃん! 私がもし問題の種を取り除いていたなら、手掛かりをくれる約束でしたよね!」

 少なくとも一番目立つ問題だったヒトミとベニの仲を取り持ったのだ。多少は家主の願いに貢献したことになる筈だ。

 牡丹は扇子で口元を隠した。忍び笑う声が聞こえる。

「逢魔が時、という言葉があるじゃろう」

 昼と夜が移り変わる時刻の事だったか。千代は頷く。確かにオッポと帰っていた時そんな時間だった。

「その時間に世界の境界は薄れる。その時間に、千代はただ……――」

 牡丹の声が遠くなっていく。


 ***


「――牡丹ちゃあんッ!」

 千代は上半身から跳ね起きた。見渡せば薄暗い客間だ。寝間着のままで千代は布団の中に居た。隣ではベニがまだ眠っている。千代はうっかり叫んでしまった口を手で塞いだ。いや塞ごうとして何か小さな物が幾つか零れ落ちる。ほどいたちりめん袋と金平糖がそこにあった。試しに零れた一粒を食べてみる。絶妙に美味しい。

 何て悪い時宜に夢から覚めてしまうのだろう。夢が本物であったなら尚更悔しい。あとほんの少し時間があれば手掛かりを全て聞けたのに!

 千代はもどかしさに呻きながら丸くなる。

 逢魔が時に一体どうすれば良いというのだろう! そこからが一番大事なのに!


 と、寝室側から客間の襖がスパンと勢いよく開かれた。

「家主が居るのか」

 般若面のオッポが客間に入り、周りを見回している。

 しかし勿論彼女は居ない。

 起きている千代に鋭い眼光が向けられる。何故紛らわしい言葉を叫んだのかと責められているようだ。

「……ゆ、夢でちょっと……」

 目を合わせられない。


 視界の端でちらりと窺った顔は何だか色が悪いように見える。まだ陽が高くないからだろうか。


 そんな風に朝から騒いでいれば、流石にベニも起きてしまう。

「なあにぃ? 朝から煩いわねえ」

 緩慢に目を擦りながら、すぐにオッポを見つけた。隣の千代に抱き着きながらベニは非難する。

「ちょっと! 何でコッチに入ってんのよ、千代に手ェ出す気だったのっ!?」

「馬鹿め」

 オッポは憤慨する様子も見せず、さっさと襖を閉めて退室してしまった。襖の向こうから大きな咳が聞こえる。

 ベニはその方向を見ながら「変なの」と一言零した。


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