其の弐
新人類にもランクはある。
それは、上級、中級、下級。そして、その中にでも一級、二級、三級という風に分かれている。
これを木樹のランクに当てはめてみると、上一級という風になる。勿論、上であり一であるということが高いランクを示している。つまりは、現在存在するランク内で木樹は最高位に位置するということになる。
しかし、何事にも例外はある。この割り当てに当てはまらない者だって存在するのだ。例えば、あの死神。彼はまずこれに当てはまるような器ではない。同様の存在だって他にもいるのであろう。
これはあくまでも目安なのだ。人間が解りやすいように分類しただけにすぎない。つまりは、政府の人間が己の物差しで勝手にどの種族が上位であるのかと決めただけでしかないのである。
木樹の学校の授業の一環である郊外活動というのは、文字通り住居区の外に出て活動することである。
この場合の住居区というのは、人が住める――つまりは人間の安全が保障されている場所であるということを示している。つまりは、街全体のことを指しているのだ。
住居区には結界が張られている。人類を守る為、唐突に神秘的な力に目覚めた神職の者達が絶えず結界を張り続けているのだ。これによって、人類は外敵からの脅威に守られている。
しかし、それだけでは人類は発展することはできない。
数が減らされ、それが漸く上昇してきたのだ。それなのに、人類が住む場所は手狭であるということが否めない。
それを解消する為に行われるのが郊外活動だ。
この御時勢、純粋な人類なんて殆どいない。大体が新人類、そして人類に含まれる異形だ。つまりは、人類の大多数は人外の力を持つことになる。それを利用しない手はない、ということだ。
これの主な活動は異形の排除、新しい資源の発掘、通路の確保などである。勿論それは各々の裁量によって任され、生徒達は自主的に活動をする。その活動は授業であるから、当然のように点数がつく。それによって企業やら、政府なんかの目に留まれば、スカウトだってあり得るのだ。つまりは、人生にさえも関わるような授業なのである。
元々は、進出を目論んだ企業や政府が自ら出陣していた。しかし、それだけでは手が足りない。その上、危険なことだって多々ある。そこでどうすれば良いのかということになった。そして辿り着いたのだ。だったら学校の授業の一環としてしまえば良いのだ、ということに。
極論であるということは確かだ。勿論生徒にだって危険は及ぶのだ。しかし、過去の人類達に比べ、現在の人類は能力値が高いということが決め手となった。
研究から判明したことだが、異形との交配を重ねるうちに、次々とその能力が加算され、代を重ねれば重ねる程新人類の能力は高くなるのだ。単純な話、初代新人類なんかよりも、現新人類の方が強いのである。
要約すると、若者は強いのだ。
たまに木樹のように未だに片親が純血の人類であることもあるが、それさえも交配次第ではそれなりのものなる。つまりは、血は何よりも重いのである。
それを考慮し、学校でも生徒のレベルによって組み分けがされる。Sクラスから始まり、ABCDEといったように六つに分けられる。それぞれ何が秀でているのかは違うが、それでも類まれなる才覚を持った者を選出することに成功したのである。つまり、Sクラスとは未来を担うエリートの集団なのである。
……ということが一般的な見解ではあるが、幾ら才覚やら能力に秀でていても人としての形成が未発達であるあたり、この意見は嘘であると木樹は思う。
幾ら優れたものを持っていたとしても、エリート意識が強すぎるのも困りものだ。己が特別であるということを自覚しているからこそ、協調性というものが皆無である。
カオスだ。
郊外授業になる度、妨害やらあからさまな蹴落としなんていうことがさも当然のように行われ、これでエリートなんていうのだから呆れる他はない。
街の中とは違い、これは遊びではないのだ。自身の命が懸っているという事実をもう少し認識する必要があるだろうと、荒れ果てた大地で行われる不毛なやり取りを見ながら木樹は溜息を吐いた。