其の壱
学生が気楽だなんて嘘である。少なくとも木樹はそう思っている。
確かに社会人と比べては多少の自由がきくが、それでも子供達には子供達なりの社会があり、更には大人達によって決められたルールだって存在する。それなのに、それのどこが気楽であるというのだろうか。
この眼前の光景を見てまでそう言える者が居るのだとしたら、見てみたいものだ。それどころか、それ程の猛者であるとしたらこの騒動であろうとも簡単に解決してみせるのだろう。
そう、それが今よりも遥か昔にヒットしたというような怪獣映画のようなことであろうとも。
耳を傾けると、彼らの言い分はこうだ。
「所詮は異形だろうが」
「てめぇらだってその血が混じっているだろうが」
つまりは、異形を目の敵にしている新人類との喧嘩である。
傍から見ている分にはありきたりの内容ではあるが、それが同じ教室内で行われているのがいただけない。野次を飛ばしたり、参戦しようと身構えているクラスメイトのようには到底なれそうにもない。
隣で友人が「うわぁ、やっているね」「懲りないやつら」と言うのを聞きながら、木樹は小さく溜息を吐いた。馬鹿馬鹿しくてやっていられない。馬鹿丸出しである。
確かに彼らは異形ではあるかもしれないが、法律によって人類の仲間だと認められているのだ。それは、首につけられた装置によって保障されているのである。それなのに、何故それを掘り下げていちいち突っかかるのであろうか。異形の者の血が流れているのは同じであるし、新人類は普段擬態しているだけでしかないのだから、皮を剥いでしまえば一緒だ。生き物なんて皮の下にあるのは、骨と肉の塊でしかない。
そして、新人類は何故そんなに軽々しく擬態を解くのであろうか。その疑問に尽きない。異形異形と差別を口にするのなら、少なくとも自身はヒトであろうとすべきである筈だ。
同じ新人類である木樹からすると、異形も新人類も変わりはしない。ただ、新人類は限りなく人類に近い姿を取ることができるというだけだ。
それに、新人類は片親が異形であるのだ。それであるのにそれを口にするということは、それ即ち親――引いては自身の否定につながる。そのことに気が付いている者がどれだけいるというのだろうか。
本当にくだらない。そしてくだらないからこそ、先日のあの非現実的な光景が脳裏から離れない。あの男と、あの男が怨嗟の念と呼んだ存在が忘れられない。あれが本当にあったことなのかどうか、取り留めもないことを延々と考え続けている。
つまりは、あれが忘れられないのだ。あの時に感じた恐怖を覚えている。あの時に理解した異常さを解っている。しかし、それでもそれに囚われている自身がどこかに存在しているのが確かだ。
知りたい、と思う。
あの髑髏――それこそ死神のような男のことが知りたい。あの異形なんかよりも余程異質であったあの存在のことが気になって仕方がない。
この飼いならされたような甘ったるい空間とはまた違った、命を脅かされるような瞬間を思い出しては愉しんでいる。緑竜――否、獣の本質である獰猛さが刺激されてならない。それは、逆鱗を持つ竜であるのなら尚更だ。危険なものにはどうにも惹かれる。自分がされたら我慢ならないのに、禁忌に手を伸ばしたくて仕方がないのだ。
「木樹!」
突如として大声で名前を呼ばれた。
何、と返事をすれば「何じゃないよ」と更に怒鳴られた。
「気が漏れている。あんた、ここでどんぱちでもおっぱじめたいの」
それであぁと気が付いた。
今や、あれだけ騒がしかった教室は静まり返っている。皆が一様にして怯えを孕んだ目で木樹のことを見ていた。
それは危険なものを見るかのような目であった。
例えるのなら、平和な空間に突如として危険物が投げ込まれたような目――つまりは異端を見る目であった。それは友人も同じだ。隣に居る友人でさえも体毛が逆立ち、猫の耳と髭と尻尾がぴんと伸びている。彼女の態度もすぐにでもここを立ち去りたいのだということを訴えている。しかし、それをしないのは彼女が木樹の友人であるからという一点によるものであるだろう。
「わかったのなら、それをしまって。あんたの気は正なら周囲にとってはプラスだけれど、負なら周囲にとってマイナスであることはわかっているでしょう」
だからしまって、と重ねて言われた。その言葉は冗談でも何でもない。本気であるというのが、目が、声が、彼女の全身が訴えている。
それに従い、気の昂りと共に出ていた翼と尾を仕舞った。いけない、最近はどうにも自分の感情に抑制が効かないことに木樹は気が付いている。どうにも精神的に不安定だ。それはあの日以来ずっとこうなのである。
「あんた、最近変だよ。ずっと心非ずって感じで、感情が剥き出しになっている」
「えぇ、まぁ。自分でも理解しているわ」
そう、理解しているのだ。理解しているからこそ、抑えが効かない。こんなことは久しぶりである。
「本当にわかっているの?」
「何が?」
「あんた、異常だよ。こんなこと今までなかった。絶対に変だ。何があったの?」
クラスメイト達が固唾をのんで二人にやりとりに、主に木樹の一挙一動に目を光らせている。それを自覚しながら、木樹は「気になる人がいるの」とだけ答えた。
「まさか、あんたそれって恋ってこと?」
「さぁ?」
はぐらかしているわけでもなく、それは本音であった。木樹自身が理解していないのだ。一目惚れであることは確かではあるが、あれは恋愛感情などには程遠い。一瞬にして全身の血が沸騰するような歓喜であるということであるのは間違いではないが、だからとってそれが全て恋だの愛だのに繋がるとは限らない。恐怖と混在するような、圧倒的な存在に惹かれない者なんていやしないだろう。
「ほら、また漏れている」
友人の制止に「あぁ、ごめんなさい」と気を落ち着かせる。
「恋って、甘酸っぱいようなあれのことでしょ? 間違ってもそんな嬉々として殺気を振り撒くようなものではないのは確かだと思うの。あんた、一体何に惚れたわけ? ヤンデレ属性なんて持っていたの?」
誰、ではなく「何」というそのチョイスはなかなかのものである。流石は友人とでもいうべきところだ。その言い方はなかなかに妙である。あれは生き物でありながら、到底生き物ではない何かだ。それこそ、生命の規格の遥か彼方に位置する存在である。
そう、言うなれば……
「死神に、かしら」
そう、死神だ。あの存在を表すのにこれ以上の言葉なんて思いつきやしない。
「死神ってあんた、ヤンデレに加えて中二病まで開花させたってわけ? 勘弁してよ。あんたがそれをやると洒落にならない。お願いだから周囲を巻き込まないで。その相手だけを道連れにしてよ」
「失敬な。それに、まだ恋って決まったわけじゃないわ。ただ、たまらなく忘れがたいだけよ」
「それを恋じゃなくって何だっていうのよ」
友人は呆れたように言う。
「相手からも恋のベクトルを受けていないのなら、それは恋よ。愛っていうのは、互いに同じベクトルを向けることによって発生するんだから。それに、あんたの様子だと成就したっていうよりは焦がれているっていう感じだわ。だから、あんたのそれは恋。そんな熱烈な感情を受けるなんて、相手は一体誰だっていうの?」
「知らないわ。名前なんて聞いていないし、あっちからすれば通りすがりでちょっとだけすれ違った私のことなんて覚えていないだろうし」
「頼むから、ストーカーにだけはなってくれるなよ」
ジーザスと友人は宙を仰ぐ。
「これだから上位新人類はやっかいなのよ。ただでさえ能力が高いんだから、それに巻き込まれる方は堪ったもんじゃないわ。惚れられた相手が可哀想ったらないわ」
「大丈夫よ、相手の方が強いから」
それは断言できる。幾ら緑竜がただでさえ力を持つ竜族の中で恐れられているとしても、それよりも遥かな上位種が相手であればその力なんてまるで意味がない。
「ちょっと待って。本当に何に惚れたのよ。最上位種であるあんたより上って、一体どんな化け物よ」
「だから、死神よ」
「あぁ、もう、はぐらかさないで」
何時の間にか緊迫した空気は消えていた。
それで良いと木樹は思う。それで良いのだ。このぬるま湯のような空間もそう悪くはない。何せ、ここは仮初の平和であり、作られた平和の内側に居るのだから。
このやり取りは担任がやってくるまで続けられた。そして、今日のメインイベントである「郊外活動」についての話し合いが始まった。