五話
遅刻常習犯の俺にとっては遅刻など何の変哲もない日常の一コマなのだが、珍しくかなんくんが遅刻した。
遅れて現れたかなんくんの風体に誰もが驚いた。
ずぶ濡れだったからだ。
それはちょっと小雨が降りまして雨宿りしてございなんて物ではなく、服のまま一風呂浸かり砂場で一眠りしてきました、ぐらいのびしょ濡れアンド泥んこ具合だった。
確かに前日まで雨は降っていたのだが、その日は曇り空程度の天気だったのでますます理由が不明。
長く少し茶色がかった髪を頬に張り付けながら荒い息をしており、妙な色気を振りまいていた。
ブレザーの中のYシャツが第四ボタンくらいまで外れていて、はだけた胸元には金色の細い鎖がキラリと光る。
肩をだらりと力なく垂らしたかなんくんは、驚き硬直していた若い女性教諭に「遅れてすみません。着替えてきます」と一声かけて、自分のロッカーからジャージを取り出し、また去っていった。
何事か事態を全く把握できないクラスのモブキャラである俺たちは、ヒソヒソと得体ない情報交換を費やす以外出来なかった。
噂好きの勇敢な女子がジャージ姿のかなんくんに聞いても「ちょっと転んだだけだよ」としか言わなかった。
その話を耳をおっきくして聞いていた俺は、どんなアグレッシブなスライディングだ、とこっそり突っ込みを入れていた。
かなんくんでもうっかりするんだなと思っていた。
だが、自体の全容は思わぬところからもたらされた。
翌日の新聞だ。
「これ絶対かなんくんだよね」
そう騒ぐ女子たちに注目されていた地方欄にはこう記されていた。
『お手柄王子。溺れた園児たちを救助。王子は何処?』
深い水溜りをふんだんに湛えた舗装が甘いアスファルト。
釘が複雑に打ち込まれた木片がその中にあったとしても泥水により確認できない。
幼稚園バスは何の疑問も無く、その上を通過しようとして、泥水を踏みしめた。
制御不能になった車体は、ガードレールを突き破り河川に飛び込む。
通勤通学時間帯。
混雑する渋滞により救急車と警察は行く手を阻まれ到着が遅れる。
二日降り続いた豪雨により水かさを増した河川。
誰もが二の足を踏む濁流。
汚水まみれるバスを悲鳴と怒号で見守る中、川に飛び込んだのは一人の王子。
次々に園児と運転手と保育士を引き上げ、バスに誰もいなくなったのを確認後、引き止める声も聞かずそそくさと立ち去った。
運転手いわく「バスの扉が水流の勢いで壊れ、彼の肩に衝突していた。安否が心配だ。命と園児を助けてもらったお礼を是非ともしたい」
死亡者はもちろんゼロ。
あいにく怪我人は多数出たが、判明しているだけで、全治二週間が最も長い。
結局、かなんくんは名乗り出なかった。
が、耳ざとい校長はそれを許さなかった。
目撃者たちはかなんくんの勇姿と目立つ容姿を克明に記憶していた。
目撃者はとりわけ女性が多かった。
早々にばれ、大々的に表彰されることになった。
俺たちは全容を知ったとき、かなんくんという存在を、どんな偉人よりも偉大な男として認識した。
余談だが、かなんくんはその表彰式をばっくれ、校長直々に大目玉を食らった。
何ともないと語っていた肩は、脱臼していた。
リリカの異世界なんかよりよっぽどファンタジーだ。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからずや」その通り。
だって戦力差ハンパないもん。
戦う気力なくなるもん。
戦わなければ負けないのだ! これが百戦錬磨の必勝法!
お分かりになったろう。
社会格差は依然として存在する。
つまり、ブルジョアジーに勝つことは出来ない。
俺は搾取され続ける悲しきプロレタリアートとして一生惨めに暮らせねばならないのか。
それはそれで楽そうじゃないか。
むしろ、イケメンになったらこんなに大変なことをしなくてはならないんじゃないか、イケメンじゃなくて本当に良かった。
逃げ口上と言う結論と共に、そんな無駄なことを考えている暇があったら、さっさとライチョウが誰かを探して土下座してお願いする作戦でも立てればいいと自責しよう。
以上でコーヒーブレイクを終わる。
ちなみに俺はブラックは苦いので砂糖を二杯入れて欲しい。
……ん?
待てよ。……まさか。
「ニューイングランドソウゲンライチョウって知ってる?」
俺は、莫大なる不安と一握りの希望を胸に、恐る恐るかなんくんに尋ねた。
意外なことかと思うが、かなんくんの周りにはあまり人はいない。
ハチャメチャな英雄っぷりは、彼を神格化させ、容易に彼の元に近づける者などいないからだ。
彼はにっこりとオーラ溢れる微笑みを、俺の視神経細胞にぶつけた。
危うく失明するほどの高スマイリー指数。
「絶滅種らしいね。エリマキキツネザルくん」
良かった。
かなんくんがライチョウ様で本当に良かった。