三話
「それはちょっと分かる気がするよ。なるほどね」
話を聞き終わった絶滅ライチョウは、ごくごく普遍的な感想を漏らした。
俺はライチョウの好意に従い、敬語をやめ出来るだけ普段と変わらないように話した。
「だから、そのおねしょ癖のスタート地点は良く分からない。さっき話したけど、一緒に暮らしだしたのが、幼稚園入ったころ。その時からのことしか知らない。Rに聞いても要領を得ない。当然だけど。俺も幼稚園よりちっちゃい頃なんて思い出せないから」
「いつから始まったかはもういいよ。分からないんならしょうがない」
「相談に乗ってくれてるのにすまんねホント」
「いいや。おねしょをいつまでしてたかは分かりそうだけど、いつからしたのか何て分かるほうがおかしいよ。人間の記憶って言うのは構造的に、二歳から三歳より前のものを遡って読み取れないって言うからね」
「そうだよな。強いて言えば、生まれたときからだよな」
「もっと言うなら、生まれる前からだよ。お母さんのお腹にいるときから。子宮内での胎児の排尿は既に観察されているね」
「へえ。流石。物知りだな」
「あ、ちょっと確認何だけど、良い?」
「もちろん、何でもいいぜい」
「君、ゆうくん?」
「…………」すっとぼけるには、時間を空けすぎた。覚えておいたほうが良い。とぼけるにはとぼけるなりの最適なタイミングがあるのだ。
ふむ。冷静になって考えてみよう。
クリクリとマウスを動かし、ログを遡る。
俺はリリカと俺を、RとYという記号に置き換えていた。
そして、この現象についての説明を細かく話した。Rが都合によりY家に居候の形で住むようになったこと。RとY家族には何の確執もないということ。Rが灰かぶり姫のようにイジメられたりはしていないし、Y両親との仲も至って良好だ。むしろどちらかと言うとRは実の息子であるYよりも大事にされているんじゃないかと疑っていること。
YはRに虐げられているのではないかと言うこと。例えば、学校では同居をしられないように徹底しているくせに家ではうるさいぐらいにまとわりついてアレしろコレしろ。ちょっと相談に乗ってくれという頼みごとをどっぷり付き合わされ徹夜。喧嘩をしたら俺が先に謝らなければならないと言う不合理ルール。アダルト――この辺りでライチョウが、「それらの話はこの話に関係があるのかい」という冷静な突込みによりカット。
次に話した内容は、Rのおねしょ癖は大体月に一回ぐらいの頻度で起こること。
実は先月に三回もおねしょしてる。今月は一回。
俺はその後始末と証拠隠滅のために東奔西走。具体的にはシーツの交換とベッドの拭き取り作業をRと朝方必死こいてやっている。
ごめんねとかずっと言ってるけど、実はもう慣れたもんでそこまで気にしてない。
色々対策も取っている。
例えば、タオルをシーツの上に敷く、シーツの下には吸水シートを敷く、子供用オムツを履く、水分夜一〇時以降摂取禁止。トイレへ寝る前に必ず行くこと、その確認。体を冷やさないように腹巻。
が、どういう因果か、シェークスピアよろしく悲劇は繰り返される。
んで、前触れなく変な世界に、ああ、この話は無かったことになったんだった。止めとくよ。
――ああ一応念のために、どういった世界なのか聞いてもいいかい?
「メチャクチャだよ。剣とか魔法の世界だったり、魔族がどうとか妖精がどうとか。ぐるぐるした引力の回廊で構成された廃墟とか、でかい蛇の体の中に出来た村とか、雲の上に大地があるとか、まあ要するに有り得ない世界だ」
――随分漠然としたものなんだね。もうちょっと詳しくは話せない? 例えば、そこでの生活とか言語の違いとか、国や土地の名前、通貨の単位とか。人種構成、肌の色、宗教、食糧事情、教育レベル。
「言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど、はっきりとは覚えてないんだ。取りあえず、明らかに現実世界とは思えないような世界に行って、帰ってくるだけ。何かをしていたことは覚えているんだけど。今となっては慣れも手伝って、ただただ煩わしくて面倒なだけなんだよね」
――うーん。やっぱりちょっと信じがたいかなあ。でも、嘘を言っているようには聞こえないんだよね。嘘にしてはあまりに意味が無いし、分からない。
「いや。嘘だと思ってもらっても全然良いって。流石に信じられないだろうし。もう、この話はなしにしておこうぜ」
それで、微妙な空気になって息抜きに学校であった話をしたんだった。
「Rの友達の、Nっていうのがいるのな。そいつさあ、気が凄い弱くて口数少なくて中学生のころからずうっとRの金魚の糞みたいにくっついているんだ。狙ってかどうかは知らないけど同じ高校に入って同じクラスになったんだよ。でもリリカはちょっと気が強いと言うか気が強い振りをしていると言うか、入学初日に、Nに面と向かって言った訳だよ。また、アンタと同じクラスなの!? せいぜいこき使ってやるわってね。普通、こんなことクラスメイトに向かって言わないだろう? RとNの間には信頼関係みたいな上下関係があるからそれでOKなんだけど、周りの人間は、何だコイツ、なわけさ。第一印象がそれだ。Rはクラスの中で女王様的なキャラになったんだよ。その立ち位置に収まっちまったわけ」
――ああ。そういうことだったんだね。
「そうなんだよ、どっちかって言うと、Nの方が一方的にRに懐いているって言うか。でもはたから見てると女王様と奴隷みたいなね。ナベはMっ気らしきものがあるからなあ。たまにホホ染めたりしてるし」
――それはちょっと分かる気がするよ。なるほどねえ。
画面上にはそういうくだりがしっかりと書き記されてあった。
うわあああ……名前言っちゃってるじゃん、俺。
こういった時に最善の判断と言うものは一体どうすればよいのか。
四工程を即座に思いついた。
第一工程。どうかこの件は御内密にと申し出ること。
第二工程。双方同意。相手が差し出してきた手を握り和解。
第三工程。保証として素性を教えてもらう。何だお前だったのか、ははは。
第四工程。パソコンを切りアプリを使用した事実をハードディスクメモリと脳内メモリから削除。
……自分で考えておいてなんだが、自分勝手すぎる。
自らばらしておいて、俺のこと知ってるんだからお前も教えろとはどういった了見だ。
だが、しかし!
ダメでもともと。これ以上事態が悪くなりようもない。
例え、散々に罵倒されようとも、同じ学校内の誰かではあるはずだ。言い触らされたときのリスクがやばい。
さあ、なじるがいい! 俺がアホであることは今もって証明されたばかりだ。
「ライチョウ様。本当に不躾で厚かましくもお願いがあるのですが」
平身して低頭してへりくだる。
「大体、予想つくよ。止めなかった僕にも責任はある。少し意地悪だったね」
流石、ライチョウ様。人間が出来た御仁でいらっしゃる。本当にお優しい。
大体、最初から面白がらずに、しっかり問題の本質と言うものを見てくれていた。
うひひっ第一工程いけるぜっ!
「話が早くてなによりでございます。どうかこの件hぴせhふぁklhsぎあlsjkdがういでょあlksjgぱおjsdgmklmsdf、b:sdflgskdfglm」
何事が起きたかの説明をするには、まず、我が家の特殊な社会システムを知る必要がある。
不合理な格差ピラミッドの底辺に身を置く同胞なら、こういった現象はしばしば起こることをご理解いただけるだろう。
コタツ布団にぬくぬくと鎮座しておられた絶対君主閣下は、画面を食い入るように見つめていた俺へ疑念の目を向ける。
「さっきから余を放っておいて何をしておるのだ。もっと構え」
そういった下賎な民への素朴な疑問から疑念は膨らむ。
「……まさか、余に内緒でかつおぶしを」
自分が夢中になることは他人も夢中になって然るべきという独善的独裁者の考えそのままである。
「独り占めしようとしても、そうはいかぬ」と言った台詞の代わりに、お尻をふりふりと振りかぶり、ふるるとノドを鳴らし上げ、閣下はご乱心あそばれた。
キーボードの上にある指に掴みかかり、踊り狂った。
ラップトップの横に黙座してすっかり冷え切っていたマグカップは盛大に打ち倒され、カフェオレの血しぶきを上げる。
閣下はその様子をさして気にせず「ふん雑魚め」と鼻で笑う。
俺の顔を尻尾でぺたんとひと撫で、後ろ足でエンターキーをじっくりと踏みしめ、したり顔で座り込んだ。
座布団のように巨大な閣下のでっぷりした背中によって、俺の視界が完全に奪われた。
あわてて、ご機嫌斜めな座布団もどきを引き剥がし膝上に乗せる。
大量のティッシュを引き抜きラップトップへ投げつける。純白紙がカフェオレ色ににじむ。
汚染された深淵なるキーボード海溝はティッシュの侵入を拒む。すぐには無理だと判断する。とりあえず後だ。
電源周りだけは慎重に拭き取り、コード類を抜きつつ、急げ急げと気持ちが焦れる。
最低限のことを済ませたややしっとりするキー。
事態の行き先がどうなるのか。
電源を差し込んでる余裕なんてないっ。
謝罪の言葉をタイプする。
「ごめん! 猫がキーボードの上に乗って変な文章になった!」
だが、ニューイングランドソウゲンライチョウという名の絶滅種は、目をぱちくりさせるだけで無反応だった。
その大人しい様はかえって嫌な予感を抱かせる。
未だちょいちょいとちょっかいを出そうとする閣下をなだめて、キーボードに指を走らせる。
「あの、ライチョウさん?」
何の返事も返ってこない。おかしい。おいっどうしたんだよっ。
短い期間しか彼と会話をしていないが、この程度でへそを曲げるような子供っぽい人柄では無いはずである、絶対。
だが、俺の頭には「絶対儲かりますから」「絶対何にもしないから」という怪しさしかない台詞「絶対という言葉は絶対無い」というダブルバインド的な猜疑心が浮かんでは消える。
「あれートイレですかあ? へんじくださーい」
のほほんとした呼びかけの声に聞こえるかもしれないが、心中真っ青である。やばい。
膝上にいるこの事態を引き起こした元凶である巨大な毛むくじゃらを引き剥がす。
彼は抗議の声を上げてもう一度膝の上に乗ろうとするが、俺の意思が思いのほか強いことが分かると諦めてすわり心地のよさそうなコタツ布団区画の探索に向った。
すぐに何やら新しいおもちゃを見つけたようでそれを追い掛け回して遊び始めた。
ぱちぱち軽い音がして、ついに獲物を口で捕獲し、猫キックをお見舞いしている様が視界の隅に映った。
ひとしきり堪能したあと、俺に獲物を捕まえたことをアピールしている。
が、そんなことにかまっている場合じゃあなかった。
何を書き込もうと、うんともすんとも言わなくなった絶滅種。
何でだ。
マウスを動かしてPCに反応があることを確認する。
カフェオレ汚染がマスターボードに侵食しているのか。
やばいやばいやばい。
こちらの情報を全て持ったライチョウ。
一方で、こちらはライチョウのことは何も知らないのだ。
ネカマという言葉がある。
どういう趣味かは分からないが本当は男なのにネット上で女性に成りすますことを生業としている人種だ。
それと同じ理屈で、本当は悪い人なのに善い人に成りすますネット善人、ネゼンがいる可能性もある。
ライチョウが特殊な性癖の持ち主で、ネゼンでない可能性など無い。
ネーミングセンスにケチをつけるのは後にしてくれ。今、忙しい。
どうしても悪いほう悪いほうに考えてしまう。
うっかり気を抜くとこんな悪ライチョウを想像してしまう。
栄養失調から来る生気の無いどろんと濁った目、運動不足の猫背。薄い胸板の割りに、たるんだ腹。
三日三晩風呂に入っていないため髪が油っぽい。
いやらしい笑顔を浮かべ、ねちゃつく口から吐き出される息。
「僕、知っているんだよ君の秘密ぅう」などと言って、リリカの薄い肩を指毛がわっさわさの手でがっしりと掴む。
もちろん爪には垢がぎっしり。オイルまみれの前髪の奥の瞳がにぶーく光る。
思った以上に強い力にリリカは逃げられない。
「言い触らされたくなければお尻を蹴り上げてください女王さまあ」とか凄い変態的な要求をしてくる。
しぶしぶぶよぶよのお尻を蹴り上げ、ライチョウの変態レベルと共に、学校生活の難易度が上がる。
結果、リリカの居場所が無くなる。
他人の秘密をぺらぺらと喋るゲス、つまり俺の居場所も無くなるだろう。
そんなことは断固として拒否する!
都合の悪いことなど認められない!
プライドだとっ?
そんなもんあるかっ!
全米が震撼する保身の化身と化して、薄っぺらい謝罪の言葉をキーボードへと叩きつけたが、依然としてライチョウはうんともすんとも言わない。
アプリケーションは正常に動いている。
しかし、ライチョウは目をぱちくりする待機モードから微動だにしない。
何をやっても返事が返ってこなくなった。
血の気が引き、ばったりと背中のベッドサイドにもたれ掛かり天井を仰ぎ見て盛大なため息を吐いた。
図らずも出来ることが無くなったおかげで、周りを見ることが出来た。
閣下が「どうだ、この獲物。珍しいであろう?」と得意げな顔で自分が捕まえた一センチ角ほどのプラスチック製の塊をこれ見よがしに見せ付ける。
細いしなやかな長い尻尾のついた物体だった。
軽くて丈夫な強敵であったのだろう。
執拗に噛み付いたせいで、先端は涎にまみれ潰れ、ガジガジになっていた。
ぐったりぐっしょりとなったそれが再起不能であることは一目瞭然である。
わあ、閣下。
お口にくわえているのは、光回線モジュラープラグですね。