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猫と土鍋

作者: 今西薫

 それは冬の始めの、雪のちらちら舞うような寒い季節のことだった。猫は落ちてくる雪を時折にらみながら家路を急いでいた。夕方になって急に冷え込んだため、これといった用意もない。このまま凍ってしまうのではないかと思いながら、急いで帰っても誰も待っていない部屋を思い浮かべて、猫はため息をついた。こった肩をもんでくれる人がいるわけでもない。猫は憂鬱な気持ちになった。

 今夜は何を食べようか。一人食べてもおいしくもなんともない。そう思った矢先、猫は道端に土鍋が落ちていることに気が付いた。何故こんな所にと思ってあたりを見回し、ゴミ置き場だということに気付いた。どこかの誰かが明日の朝出すのが面倒で、今夜のうちに出したのだろう。猫は足を止めてその土鍋をまじまじと見た。蓋が梅の模様のどこにでもあるような物だった。使い込まれてはいるがどこも壊れていないようだ。一人暮らしの猫には少々大き過ぎるが、妙にひかれる土鍋だった。きっと見えない所に穴があいているのだと、今にも駆け寄って拾いたいという衝動をおさえるが、この土鍋にあきた人間が捨てたのかもしれないとも考えられて、猫は悩んだ。迷った。そして、あたりを見回した。冷蔵庫の中のトリの挽き肉が目の前をちらついていた。



 アパートに着くと、猫はすぐさま土鍋に水を入れてみた。水漏れの様子はない。それでも猫は、水を入れたままの土鍋をテーブルの上において風呂に入ることにした。時間をおいてみなければ判らない。猫は妙に慎重になっていた。今夜はトリ鍋だと、もう心に決めてはいたものの、やはり穴のあいた鍋など必要ない。猫ははずむ心をおさえながら、バスルームへ向かった。とにかく体を温めよう。土鍋に穴があいていたら、その時に何を食べるか考えよう。駄目だったら、インスタントラーメンにしようか。あたたかいものがいい。そんな事を考えながら、猫はゆっくりと湯につかった。

 風呂からあがった猫は、まず土鍋を持ち上げてみた。水はまるで漏っていない。安心した猫は笑顔を浮かべた。そしてごはんがあったかどうか確かめるために土鍋に背を向けた時だった。

「すいません」

 声がした。若い女の声のようだった。猫はあたりを見回した。誰もいない。変だなと首をかしげて、猫は炊飯器の蓋を開けた。

「あのー、すいません」

 同じ声だった。猫は耳をそばだてたが、今度は振り返らなかった。背の毛が逆立っていた。

「あ、ご安心を。わたくし、土鍋でございます。決して怪しい者ではございません」

 言い切るあたりが怪しいのだが、土鍋はまったく気にせず話を続けた。

「このたびは拾ってくださいまして、ありがとうございます。あ、いえ、そう緊張なさらなくても、けっして、怪しい者じゃありませんから」

 猫はしっかりと硬直していた。玄関のカギはしっかりと閉めたと、だから誰も入ることはできないのだと、考えていた。

「実はお願いがございます。いえ、たいしたことではございません。拾っていただいたお礼をしたいのですが、困ったことにわたくしは普通の土鍋ではございません。ひとつ、いえ、二つほどお約束していただかなくてはならないのです。それが駄目でしたら仕方がありません。わたくしはおとなしく一度だけ普通の土鍋のフリをしてトリ鍋を作りましょう。そして、その後はまた放浪の旅に出ましょう」

 猫は眉をしかめた。話が変だぞ、と思った。「土鍋の恩返し」とはじめは思っていたが、どちらかというと「土鍋の脅迫」だ。猫は土鍋の次の言葉を待った。

「まあ、まず聞いてください。……一応、わたくし、炊事、洗たく、そうじは得意でございます。その他に、あんまなども少々心得ておりまして……。どうやらあなた様は重度の肩コリのご様子。いかがでございましょう。拾っていただいたお礼に家事全般とあんまをしたいと思うのですが……?」

「それで、条件、というのは?」

 猫が慎重に訊ねると、土鍋はカラカラと明るく笑った。

「条件とはまた、お言葉が悪うございます。……いえね、大したことではございません。わたくしを土鍋として使わないでいただきたいのですよ。わたくしのような土鍋は、やはり普通のものとは違い、いろいろと掟にしたがって生きていかなくてはなりません。その一つとして、一人の主人のもとで普通の『鍋』として仕事をするのは一度きりと定められているのでございます」

 興味をおぼえ、猫は土鍋を振り返った。テーブルの上にはなんの変哲もない土鍋がある。これがしゃべっているとは到底信じられない。そんな猫の視線を敏感に感じ取り、土鍋はコホンと咳払いをした。

「あまり、じろじろと見ないでくださいまし。あちらこちら汚れておりまして恥ずかしゅうございます」

 猫は我に返った。

「ああ、ごめんなさい。つまり、まず一つ目が、土鍋として使わないということね。ではもう一つは?」

「ええ、ご覧の通り、わたくしは今、しゃべってはおりますが、姿は土鍋でございます。このままの姿では、家事をこなすことはおろか、あんまをすることもできません」

 猫はうなずき、なるほど、それなら判ると先を促した。

「それらをするためには姿を変えなくてはなりません。その姿をお見せすることはできないと掟で決まっております。・・ええ、家事のことは、お仕事をされている時にできますし、休みの日もそれはそれでなんとかなりますが、問題は肩もみでございます」

 土鍋はそこで言葉を切った。

「決して……。決して振り返らないでいただけますか」

 懇願するような、妙に切迫した響きを帯びた声に猫は戸惑った。まだ、置くと決めたわけではなかったが、うなずかなくてはいけないような気がしたのだ。猫は急いで考えた。土鍋の出した条件は、二つとも条件というほどのものではない。本当に「お願い」というのが一番近いものだ。

 猫は腕くみをしながら「そうね」と言った。

「肩を少しもんでみてくれないかしら。もし上手だったら置いてあげるわ」

「本当ですか? では、まずこの水を捨ててくださいまし。それから、あちらのお部屋の押入れの前に座ってくださいまし。あそこなら、私の姿はどこにも映りませんので」

 喜々として言う土鍋の言葉に猫はおとなしく従った。

「では、失礼します。決して振り返らないでくださいましね」

 念を押し、土鍋は肩をもみはじめた。その気持ちのいいこと。猫は「うー、きくー」と、若い娘に似合わぬ声を上げてしまった。天にも昇る心地とはこのことかと、涙を流しながら思った程に気持ちが良かった。土鍋を置く置かないなどということはすっかり頭から抜けてしまった。

「あのー、いかがでございましょう……」

 しばらくして不安気に土鍋が訊ねた。肩をもむ手も止まってしまう。猫は「何故止めてしまったの」と怒鳴りたい気持ちを抑え言った。

「早く続きをお願い。これから先、よろしくね」

 そうして土鍋は猫と同居することになった。



 一週間が過ぎ、土鍋との生活に馴れてくると、猫はどうしても土鍋の姿が見たくなった。よくよく考えて見れば土鍋はとても変だった。家に置いてもらうくらいで、家事全般をするあたりもそうだが、肩もみまでしてくれるのだ。土鍋の作った食事はなかなか美味しく、掃除も、洗濯もアイロンかけも上手い。加えて肩もみの腕は絶品である。その道のプロとしてもやっていけるのではと思えるくらいの腕だ。猫はいっそのことマッサージ屋になろうかと考えたくらいだった。だが、そこでふと思い当たった。土鍋は人前に出られるような姿ではないから、見ないで欲しいと言ったのではないだろうかと。そう思うと合点がいった。土鍋に手足がついたようなものではやはり客が逃げだすであろう。自分と一緒に暮らすに当たってそういう条件を出したのも、長く一緒にいる為の配慮なのである。心の準備をしていても、そういう姿は見ていたいものではない。猫はなーんだと、手を打った。それならばこっちで勝手に馴れて土鍋を脅かしてやろうと、そう思った。自分が馴れれば、今のように壁に向かっていなくても、時折肩越しに振り返り談笑しながら肩をもんでもらえると、その方が土鍋も楽しいに違いないと思った。

 その日、肩をもんでもらいながら、猫はこっそりと忍ばせた手鏡を、手元に視線を落とすふりをして覗き込んだ。猫ははっと息を呑み込んだ。鏡の中には梅の模様の着物を着た美しい女がいた。まだ若い、声に似合う姿は決して人前に見せられないような姿ではない。猫は同性ながら思わず見とれ、ふと疑問に思った。では、なぜ見てはいけないのだろうと。

 そして、鏡の中の女と目が合った。猫は心配するなと笑ってみせた。

「なぜ、見てしまったのですか」

 心配するなと猫が言おうとした処で、責めるでもなく、嘆くでもなく、女は言った。

「見なければ、わたくしはずっとここにいられたものを」

 猫は慌てて振り返った。鏡の中の女が笑った気がしたのだった。猫は女の顔が歪んでいくのを見た。顔だけではない、その体もどんどん変わっていった。

「もう少し夢を見られたものを。・・掟と申したではありませんか」

 猫は悲鳴をあげるのも忘れて、今やすっかり巨大な土鍋の姿になった女を見ていた。

 土鍋の蓋が開き、目の前が暗くなるその瞬間まで・・。



END

                               

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