第9話
あんたが一番悪人だ。
そう言いたくても口は閉ざされていた。悔しさに涙が零れ落ちる。
「ああ、勿体ない」
頬に伝った涙を舐め取られた。
ゾクリと悪寒が背筋を走り、耐えられない吐き気を感じて、さらに涙が溢れる。
「君の涙は美しい。それに何て美味なんだろう」
あまりの恐怖に呼吸がままならず、喘いだ。
「さあ、力を抜いて。何にも怖いことなんてない。ああ、今すぐに君の全てを暴いてしまいたい。だけど、僕たちにはたっぷりと時間があるからね。ゆっくりといこう」
男の言葉の半分も理解できていない。何を言われているのか解らないながらも、離れていく男の顔に、とにもかくにも今は一時的にも危機は免れたのだと知る。
私は両手両足を縛られた状態で、食事だけはきっちりと与えられた。
男は嬉しそうに食べ物を口に運ぶのだが、空腹感を感じるわけもなかった。吐き出せば男が機嫌を悪くするかもしれないと思うと、無理矢理にも喉の奥に流し込むのだった。
ここに連れてこられてから、どれくらいの時が過ぎたのか、暗幕に閉ざされた部屋の中では感じることも出来ない。
薄暗い室内に、男のぎらついた瞳がくっきりと見えた。
男が私に邪な感情を抱いていることは理解している。
私は身の危険と皮一枚で繋がれている、非常に不安定な立場にいた。
誰かが私を助けだしてくれるのが早いか、男が私を汚すのが早いか。
私は半ば諦めていた。男の理性がもつのももって半日といったところだろう。
私はもうダメなんだ。
涙は不思議と溢れてこない。
自分自身が少しずつ壊れていくのを感じていた。
男は私から片時も目を放さなかった。獲物を狙う目がさらに私を追い詰めていく。
もしかしたら男は、私の心が壊れるのを待ち構えているのかもしれない。
何も瞳に映したくない私は、いつからか目を閉じて現実から逃げていた。
目を閉じることで男に何かされるかもしれないという恐怖はもちろんあった。だが、それにもまして男のあの目が私には恐怖だった。
恐怖は突然にして去った。男の部屋のドアが激しく打ち鳴らされたことに驚いている間に、警察が扉を開けて乗り込んできて、男を拘束した。
私は男が連行されていくのを見届けた後、女性の警察官に保護され、病院に連れていかれた。
私が男に何もされなかったのは、奇跡に近いことだった。その男は、同例の余罪があり、それらの全てで少女たちは酷い目に合わされていた。
外傷はなかったが、精神的なダメージが大きかったため、暫く入院する運びになった。
報せを受け、駆け込んで来た両親が、私を強く抱き締めて泣いていた。
私は男の部屋に一週間監禁されていたと聞かされた。
ショックが後からやってきたのか、私はそのあと声が出なくなった。
私が退院して学校へ行けるようになったのは、保護されてから3ヶ月ほど経ってからだった。
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有馬の話は、俺の想像を遥かに超えていた。
まだ、幼いと言ってもいいと思われるその時期にそれだけの恐怖体験があったなら、トラウマにならない方がおかしいのだろう。
淡々と語っているように見えるが、僅かに肩が震えている。
肩を抱いてやりたいと思うが、もしかしたら犯人と同じ対象である俺に触られるのはいやなのではないかと思うと、容易には触れられなかった。
「質問してもいいかな?」
「はい。大丈夫です」
しばしの沈黙の後、俺が問いかければ思いのほかしっかりと返事が戻ってきた。
「その男に誘拐されたことと、有馬が地味を装うようになったこととどう関係がある?」
俺の目をジッと見つめた後、口を開いた。
「あれは事件から大分たった頃だったと思います。学校に行き始めて、学校の友達との関係も何だかぎくしゃくしていると私自身感じている頃でした。夕方の下校時、私がぎくしゃくしながらも友人とともに歩いているとき、近所のおばさんたちが立ち話をしているのに出くわしました。こちらを見て、こそこそと何かを喋っているのですが、その内容は私の耳にも届きました。『あんなに短いスカートをはいて、あんな甘ったれた声を出してたら変な男に狙われてもおかしくないわよね』と。私が来ている服は全て母が用意してくれたものでした。母は私へのお洒落に気を使ってくれて、いつも可愛い洋服を用意してくれていました。私はそれが原因で誘拐されたのだなんて考えもしませんでした。けれど、隣りを歩く友人が、我慢しきれないといった風にクスクスと笑っているのです。ああ、この子もあのおばさんたちと同じことを思っていたんだと気付きました。私はそのおばさんたちの前で走っていくと、叫ぶような声で聴きました。『私が地味になれば、もうあんな怖い思いしなくて済む? 今みたいな喋り方じゃなければ、怖い思いしなくて済む?』 そう聞いた私に驚き、たじろいだおばさんたちは、『そうかもね』と、逃げるように帰っていきました。それからです。私が地味な姿を貫くようになったのは」
人情のかけらもなく、非情な噂を平気で口にする輩はどこにでもいる。俺が聞いた限り、そのおばさんもその友達も有馬への嫉妬心からくるものだと考えられる。
おばさんは自分の子よりも可愛らしい有馬に、友達は自分よりも可愛い有馬に嫉妬していたのだ。その嫉妬心をあからさまに見せただけに過ぎない。
本当にそう思っているのだと思いたくはない。そう言うつもりはなくても出てしまった下世話な言葉。それが、まだ幼さの残る有馬の心を貫いたのだ。
「地味でいても誘拐される子はされる。いつでもお洒落な子が誘拐されるとも限らない。そのおばさんが言った言葉は、あまりにも無責任でくだらない内容だ。今の有馬ならそれを理解できるだろう?」
「解ります。確かに誘拐犯の目に留まることはあるかもしれません。ですが、それだけが原因だとは思えません。今ならそれもきちんと理解しているつもりでいます。けれど、怖いんです」
絞り出した本音が俺をずんと揺るがした。
何年たっても、理屈では分かっていても怖いのだ。ただただ怖いのだ。