第8話
保健医は、有馬の状態を一目見て、何かを悟ったようだった。
幸い保健室には先客はいないようだ。有馬を取り敢えず椅子に座らせると、保険医は二人に茶を出してくれた。
「私は職員室にいるから落ち着いたら戻りなさい。体調が悪いようなら、ベッドで休んで行くといいわ」
そう言って白衣をはためかせて出て行った。
沈黙の中で、遠くから微かに聞こえる声だけが耳に入る。校庭では、体育の授業をしているようだ。
すぐ隣からは、スンスンと鼻を啜る音だけが断続的にしていた。
なんと話し掛けていいのか分からず、有馬が落ち着くのを待つことしか俺には出来なかった。
ズズッとお茶を啜った。その音だけが奇妙に浮き上がって聞こえた。
「今日はいい天気だな」
保健室から覗く空があまりに青く澄んでいたので、ぽつりと呟いていた。
あまりに場の雰囲気に不釣り合いなのんびりとした声に自分自身驚いてしまったほどだ。
「ブフッ」
有馬の口から我慢できないというように、息が漏れた。
「笑うなよ」
有馬が笑ってくれたのにホッとしたような、自分のアホらしさに恥ずかしさを感じたような複雑な心境だ。
「ごめんなさい。でも、中村君があんまり親父臭いことを言うものですから」
親父臭いというより、爺臭いといった方が当てはまる気がした。自分で言うのもなんだが、隠居した爺さんが縁側でのほほんと茶を啜りながら言うような台詞だ。
「悪かったな」
俺が不貞腐れてそう言うと、有馬は声を上げて笑った。
有馬がこんな風に声を上げて笑うことなど、そうそう見られるものじゃない。俺はポカンと有馬を見ていた。
女ってのは、泣いたり笑ったり忙しい。
それにしたって、どんな理由だって泣いているより笑っているほうがいい。
「中村君のお陰で涙が止まってしまいました」
「そりゃ、良かった」
有馬は何かを思案しているように、俯いていた。
俺が何かを聞いてきやしないかと怯えているようにも見えなくもない。
確かに石原が言っていたことが気にならないわけじゃない。だが、それは有馬の一番ナイーブな部分であることは理解している。無理に口を割らせるようなことをするつもりは毛頭ない。
「有馬」
びくりと有馬の体が大きく震えた。
「俺は別に何も聞かないからそんなに怖がるなよ。安心していいぞ」
そういうと、ハッとしたように俺の顔を見た。
「違うんです。……違うんです。私は、中村君に聞いてもらいたいと思っているんだと思います。けれど、それは中村君には迷惑なだけなのではないかと」
「俺に迷惑? 迷惑なわけないだろ」
有馬からの迷惑なら買ってでもしたいくらいなのだ。少しでも近付けるならどんな迷惑でも、受け止めてみせる。
「あの、じゃあ、聞いてもらえますか?」
「勿論。だけど、無理はしなくていいんだぞ? さっきあれだけ取り乱したんだ。有馬にとって、大変なことなんだろ?」
「無理はしません」
先ほど泣いていたのが嘘のように、真っ直ぐな瞳をこちらに向ける。
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それは、私が小学校4年生の頃。半袖を着ていた記憶があるので、季節は夏だったのだろう。
それまでの私は快活だった。元気いっぱいで、友達と笑ったり、はしゃいだり戯れたり、時には喧嘩して泣いたり、とにかくどこにでもいる小学生だった。
あの夏の日。
あの日を境に私も、私の周りも変わった。勿論、父や母も変わったのだ。
あの日私は、1人で歩いていた。学校での開放プールの帰りだったと記憶している。
普段なら一緒にプールに出かけていた友達は、田舎に遊びに行ったためにいなかった。
昼間の出来事だった。
お昼時とあって、辺りに人影はなかった。
私は人知れず、消えたのだ。
母がいつまでも帰ってこない私を探し始めたのは、それからゆうに五時間以上経過した頃だった。
普段から、ふらりと友達の家に寄ってはお昼をご相伴に預かっていた私は、母に気付いて貰うまでに時間を要してしまった。
悪いことに、私はその朝、友達の家に寄ってから帰るかもと告げていたのだ。
決定事項ではなかったが、昼に戻らぬ私をみて、友達の家に寄ったのだと母は考えた。
夕方、パンザマストが鳴っても帰らぬ私を、漸く不振に思った母は、幾人かの友達宅へ電話し、大いに慌てることとなったのだ。
心当たりを手当たり次第に電話をし、見つからない私を探すため母は夕暮れどきを一人走り回った。
やがて、いつまでたっても見つからない私を、町内会ばかりか警察も動員しての大捜索となった。
その頃私は、見知らぬ若者の汚いアパートの一室で後ろ手に拘束されていた。
実際の所、私はその男に連れ去られたわけだが、その瞬間のことを何も覚えていない。おそらく何らかの薬を嗅がされたものと考える。
見知らぬ若者は、一見爽やかな好青年に見えた。悪いことなど出来なそうな、優しい顔付きをしていた。
誰もこの男が少女を誘拐するなど思う筈もなかった。
私が目を覚ましたとき、目の前にはその爽やかな笑顔が間近にあった。
あまりの近さに驚き、飛びのこうとしたが、体は縛られているために上手く動かせなかった。
あの時、私は何を考えていたのか覚えていない。
その爽やかな笑顔と自分の置かれた状況が結び付かなかったのだ。
目の前の男が、悪人だと思えなかったのだと思う。
だが男は結局のところ、悪人だったのだ。
あの頃にはあんな趣味の人がいるなんて思っても見なかった。
少女しか愛することが出来ない人。少女に性的な欲求を感じる人。
そんな人がいるなんて、大人は気を付けなさい、と口を酸っぱくして言っていたけれど、実感出来なかった。
目の前の男が、爽やかな笑顔を崩し、いやらしい目で私を舐めるように観察するのを見て、嫌でも実感させられた。
叫ぼうと口を開くが、先回りした男の大きな手がそれを阻止した。
空いている手が私の髪を掬うと、唇に寄せた。
「可愛いね、やっぱり君は。間近で見る君は想像以上だ。もう、ここから出てはいけないよ。外には悪い奴がいっぱいいるからね。僕が君を守ってあげるよ」