第6話
「あの、すみません。本当は早く帰らなければならなかったのに、私のせいでこんな所まで来てもらって」
申し訳なさそうに俺を窺う有馬に、問題ないという風に微笑んでみせた。
「そこまで早く帰らなくても大丈夫なんだ。まだ6時だし。それにしても、俺、図々しく貰っちゃっていいのかな?」
「勿論です。母が料理を詰めている間上がって下さい」
有馬に腕をとられ、家の中に招き入れられた。こんな風に腕に彼女の手の熱を感じるのは二度目だ。手の平とはまた違う。どう違うかは、説明しづらいのだが。
「お邪魔します」
「どうぞ、上がって。今詰めちゃうからね」
奥から大きな声が返ってくる。
有馬の母親は、随分明るいタイプのようだ。
今の姿が本来のものだとするなら、先ほどのあの様子からして、有馬のことを相当心配していたのが窺える。
僅かに狂気的なものすら感じたのだから。
有馬の家は、綺麗できちんとしていた。彼女も母親も元々きちんとした性格なのだろう。
普段、雑然とした家に住んでいる俺としては、少しばかり落ち着かない。
「うちの子は学校ではどうかしら?」
「真面目で、面倒見がよくて、クラスメイトから好かれています」
有馬はそれはもう飛び出すんじゃないかと心配になるほど目を剥いていたが、これは事実なのだ。本人は、周りを理解していないので、寝耳に水とでも思っているだろうが。
「まあ、そうなの?」
「はい。ただ、有馬には積極性があまりないので、仲良くなりたいと思っているクラスメイトは遠目に見てしまっているように思います。有馬さえもう少し話し掛ければ、すぐにでも沢山の友達が出来ますよ。クラスメイトたちは、みなそう望んでますから」
「そんなことありません」
何故か涙目で否定する彼女を見て、何かいけないことを言ってしまったかと口をつぐんだ。
「有馬?」
いくら考えても、俺の言葉のどこに泣かなければならない要素があるのか分からなかった。
「すみません。着替えてきます」
顔を隠すように額に手を当て、足早に去っていった。
「俺、何か言ってはいけないことを言ってしまったでしょうか?」
「違うのよ。あなたが悪いんじゃないの。気にしないで」
有馬母は、それだけ言うと再びおかずをタッパに詰め始めた。
きっと俺は触れてはならない何かに触れてしまったのだろう。申し訳なく思ったが、謝罪を口にすることは憚れた。
「中村君は、もしかして那津子の彼氏?」
たった今までの雰囲気などまるでなかったような浮かれた様子に戸惑いつつも、その雰囲気に呑まれることにした。
「いえ、違いますよ」
そうなれればいいとは思ってはいますが、という言葉を飲み込んだ。
「そうなの? 残念ね」
有馬母の落胆ぶりはあまりに激しく、がっくりと床に頭を付けるんじゃないかと思えるほどだった。
「すみません」
その姿につい、謝ってしまった。
「いいの。でも、中村君は那津子のことどう思う?」
さすがにそれをこの場で答えるのは、避けたい。有馬が今にでも階下に降りて来そうなんだ。
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「お母さんっ。なんてことを聞いているんですか」
私の声に振り返った中村君が私を見て、安堵した顔を浮かべた。
そりゃ、困っただろう。
私のような地味な人間を中村君が選ぶわけがないのだ。今でこそ、そこそこ会話もするようになったが、私を選ばなくても中村君には寄ってくる可愛い女の子はたくさんいるのだ。
普段から中村君の机の周りには、人がよく集まる。女の子も男の子もみんな中村君が大好きなのだ。
だらしなくて、少々面倒くさがりなところがある彼だけれど、周りの友達のことをよく考えているし、相談ごとなんかも乗っているのを見かける。人望があるのだ。
屈託なく誰とでも話す中村君を羨ましいと思う反面、いやな気持ちも浮かび上がってくる。八方美人とも取れる中村君は、数多くの女の子から好意を抱かれている。それに全く気付いていないのだ。女の子たちは自分だけに優しいと錯覚して、恋に落ちる。そして、冷静に考えることができなくなるのだ。
私もまたその中の一人なのかもしれない。
ただ、一度きり家まで送ってくれただけなのに、中村君が私のことを好きなのかもしれないなどと、自惚れてはいけないのだ。
「別にいいじゃないの。お母さん知りたいんだもん」
カワイ子ぶったところで所詮母はもうおばさんなのだ。可愛さに欠ける。それでも、中村君が優しく微笑んだりするから、母も図に乗るのだ。
中村君に特別な女の子ができたら、その女の子はきっと苦労するだろう。それとも、特別な女の子ができればほかの女の子への優しさは出さなくなるんだろうか。
「可愛くないです。止めてください」
「ハハッ。有馬は結構お母さんには手厳しいんだな? 反抗期なのか?」
「違いますっ。お母さんが変なことを言うからです」
必死にそういう私を見て、中村君はケタケタケラケラ笑い始めた。
「どうして笑うんですか?」
「ごめんっ。でも、なんか面白くってさ。学校とは違う有馬が見れた気がして嬉しいよ」
軽快な笑い声を漏らしながら、私が舞い上がってしまいそうな言葉を事もなげに言ってのける。
ほんのりと頬を染めてしまっているであろう私を、意味ありげに母が横目で窺っている。舞い上がっているのは私だけではないようだ。中村君が帰ったあとに、根掘り葉掘り聞かれることになるのだろう。
「さあ、中村君。出来たわよ」
今日は何のご馳走だ、とツッコミたくなるほど多いそのタッパの数に、中村君も驚いていた。
「こんなにいいんですか?」
「ええ、もちろん。今日は少し作りすぎちゃったから実は中村君が来てくれて助かったのよ。うちは女の子二人で男はお父さんだけだから。お父さんもそんなに食べる方じゃないから、作り甲斐がないのよね」
「そうなんですか。じゃあ、遠慮なくいただきます」
それはもう本当に嬉しそうにタッパを見下ろす中村君は、なんだか可愛らしかった。今日は疲れて料理をするのも億劫だったのかもしれない。