第5話
電車の中は適度に混んでいたが、満員という程でもなかった。
放すタイミングを失った手は、未だ繋がれたままだ。
気まずい空気を払拭するかのように、ぽつりぽつりと中村君が話し掛けてくれていた。私としては、どれだけ無言のままでも気まずさを感じることはなかった。
各駅停車の3つ目の駅は、あっという間についてしまった。
「もう、ここで大丈夫です」
そう言ったのは、私がズルいからだ。
「家までちゃんと送らせて」
中村君がそう言ってくれると、解っていたからだ。私は、彼の優しさに付け込んだのだ。
きっと彼は、家の前まで行ったら、責任を感じて母に挨拶をすると言うだろう。
母はどんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか。私にしか解らない程度に眉を潜めるだろうか。
私は、母の反応を見たいのかもしれない。
私なりの反抗なのかもしれない。
「お願いします」
私がそう軽く頭を下げると、中村君は嬉しそうに微笑んだ。
見慣れた街並を中村君と歩くと、歩いたこともないような場所に思えてくるから不思議だ。今まで愛着も何もなかった町が大切な何かに思えてくるのだから。
「中村君は帰りが遅いと怒られませんか?」
「おお。有馬から初めて話し掛けて貰ったな。ハハッ、なんか嬉しいな」
屈託のない彼の笑顔は、私を癒しもし心を乱しもする。
私はどう反応すべきか解らずに、曖昧な表情をしていたに違いない。
「俺んちは全然煩くない。俺、男だしね」
「そうですよね。男の子に、門限はないですよね」
馬鹿な質問をしたと、恥ずかしくなった。
「女の子にもそんな厳しい門限はないんじゃないか? 両親に愛されてるんだな」
確かに愛されているのは事実だろうが、門限とそれとはあまり関係ないことだろうと思う。
それは、やはり両親がナイーブになっているためだろう。
恐らく、私なんかよりもずっと気にしているのだ。責任すら感じているのかもしれない。感じずにもいい責任などを、今も感じているのだ。
「そうなんでしょうか……」
曖昧な言葉を零した。
何かを察してくれたのか、中村君はそれ以上その話題に触れてはこなかった。
駅から私の家までは、大した距離ではない。だが、その距離の中で色々な話を中村君はしてくれた。舞い上がっているのか、何を話しているのかは、話が変わるそばから忘れてしまっていた。
それでも、その時間がとても楽しいと思ったのは事実だった。
やがて見えてきた家の玄関の前には、母が立っているのが見えた。
右へ左へとそわそわと方向を変えながら、手を揉んでいた。
ああ、心配をかけてしまったんだ。
その姿を見れば一目瞭然だった。
思わず立ち止まってしまった私に、中村君の視線が降りかかる。中村君の視線が私の視線を辿り、母へと向けられた。
「もしかしてあれお母さん?」
私が頷いたのと、母がこちらに気付いたのは同時だった。
母は、私を見た後、私の隣にいる中村君を見、驚き、そして次の瞬間睨みつけた。
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有馬の母親と目が合って、慌てて頭を下げた。
たっぷりとお辞儀をし、俺が頭を上げた時見たのは、物凄い形相でこちらに走り寄る母親の姿だった。
「今すぐ娘から離れなさいっ。警察を呼ぶわよっ」
驚きのあまり俺は何もできず、ただ母親の姿を見下ろすことしかできなかった。
「お母さんっ。違います。中村君はっ、遅くなってしまった私を心配してここまで送ってくれただけですっ」
俺の胸元を掴んで持ち上げていた母親は、珍しい有馬の怒声に驚き、顔だけを有馬に向けた。
「え?」
「だから、帰りが遅くなってしまった私のために、わざわざ家まで送ってくれたんです。中村君はクラスメイトです。危険な人じゃありません。お母さん、失礼ですから早く手を放してください」
「え、ああ、ごめんなさいっ」
怒気が抜けたように母親の手があっさりと放れた。
「いえ、有馬が遅くなってしまったのは俺のせいなんです。すみません。俺がだらしないせいでいつも有馬を煩わせてばかりで……。だから、有馬を叱らないで上げてください。俺が叱られますから」
言葉を濁した。
さすがに上靴を洗ってもらっていて遅くなったとは、有馬の母親の心証を悪くするようなことは言いたくなかった。
「いいのよ。門限に遅れたって言ってもほんの数分なんだから。ただ、心配になってしまって。ごめんなさい。変な誤解をしてしまって」
「いえ、こちらこそすみませんでした。じゃあ、俺はそろそろ帰ります。またな、有馬」
ぺこりと母親に頭を下げ、申し訳なさそうな有馬に対しては笑顔を向けた。
「待ってください。お礼にお茶を入れますので、少しだけ上がっていってください」
踵を返して歩き始めた俺の腕をとってそういったのは、有馬だった。
意外な誘いに驚きと嬉しさが込み上げてきた。
嬉しくて飛び上がって喜びたいような誘いではあったが、それを受けることは残念ながらできない。
「もし良かったらどうぞ」
有馬の母親もぜひにと、にこやかに誘ってくれるが、俺はそれを失礼にならないように断らなければならない。
「ありがとうございます。そうできればいいんですが、弟が家で待っていますので」
「弟さんが? 一人で?」
「はい。両親が共働きなので」
「ご両親は早く帰ってくるのかしら?」
「いえ、いつも9時過ぎないと帰ってきません」
同情を含んだ眼差しを向けられたが、俺はもうその日常に慣れてしまって、何の感情もわかない。それが普通だと思っているからだ。弟はまだ小学生なので、多少思うところはあるのかもしれないが。
「お夕飯はいつもどうしてるの?」
「それは、俺が作ってます」
だらしない俺ではあるが、料理だけは出来た。
ただ単に必要に迫られてやらなければならなかったのだ。育ちざかりの弟が両親が帰ってくるまで夕飯を待てるわけもなく、そうなれば俺しか作れる奴がいないんだから作るしかない。
両親も俺が作ると大分楽になるのだろう。必要以上に喜ばれるので、止めるに止められなくなってしまったのだ。
「そうなの。偉いのね。そうだわ。もううちのお夕飯は拵えてあるの。良かったら今日のおかずの一品にして。ね?」
そういうとバタバタと走って行ってしまった。俺が止める隙も与えてくれなかった。