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第4話

 俺の上靴は、驚くほどに綺麗になった。と思っているのは俺だけではあるが。

 半年間も積み重ねられた汚れはちょっとやそっとでは落ちない。

 俺的には、綺麗になったレベルではあったが、有馬は不服そうに顔を顰めていた。

「ありがとな。これだけ落ちれば十分だ」

 途中、飽きた俺が放り出そうとした片方を有馬が結局磨いてくれたのだ。その時には、有馬が磨いていた方は十分に美しかった。

 正直、靴磨きを甘く見ていた。腕は疲れるし、腰は痛くなる。いくらやってもなかなか落ちてくれない。

 終わった時には、解放されたことに心底ホッとしていた。

「もう暗いから送ってくよ。有馬は電車通だったよな?」

「一人で大丈夫です」

「危ないから送らせてよ。俺、心配で気になって夜寝れなくなっちゃうからさ」

 有馬が頷くのを見て、ホッとした。

 まだ少し離れがたかったのだ。こんな気持ちでいるのは、俺だけだとは承知しているが、後少しだけ。

 有馬は地味に見せかけているが決して地味ではない。内面の話だ。

 コミュニケーションに物怖じするタイプではない。心底真面目ではあるが、極度な人間不信であるわけでもなさそうだ。

 限りなく真面目で地味な生活を自分に課しているように感じた。

 それを苦に感じないほどに長いことそれは続けられたのだと、俺は睨んでいた。

 本当の彼女を暴きだしたいと思った。だが、それが彼女の望んでいることとは限らないのだ。

「有馬は部活とか入ってないよな?」

「はい。私には門限があるので、部活には出れないんです」

 門限。

 高校生の娘を持つ家ならば当たり前に存在するものなのだろうか。身近に門限を気にする女がいないので、その言葉が異様に新鮮に感じた。

「門限なんてあるのか?」

「はい。親が異様な心配性で。高校生なんだからもう少し融通してくれればいいんですけど……」

「門限、何時なんだ?」

「6時です」

 俺は腕時計に目を落とした。もうすでに5時半を過ぎてしまっている。

「なんだよ、門限までに間に合わないんじゃないの? 親、厳しいのか? 大丈夫なのか?」

「いえ、大丈夫ではないんですけど」

「なんでもっと早く言わないんだ。俺の上靴なんて悠長に洗ってる場合じゃないだろう? とにかく後ろに乗れ」

 少し強い口調になってしまったことに、言いながらすでに後悔していた。だが、言い出してしまったことを途中で軌道修正することは出来そうになかった。

「ごめんなさい」

 びくりと体を強張らせた有馬を、自転車の後ろに乗せ、俺は駅までの道を走らせた。

「俺のために怒られなくていいんだよ。俺だって上靴の一つくらい一人で洗えるんだぞ。無理して俺に付き合う必要なんてないんだ」

 俺の声が聞こえているのかいないのかは分からないが、彼女の手が力強く俺の服を掴んでいた。

 もしかしたら、強く言い過ぎて泣かせてしまったのかもしれない。そう思いはしたが、今の状況で後ろを振り返ることは出来そうになかった。


**********


 私は無性に嬉しかった。

 少し強めの中村君の声と真剣に心配してくれているその少し怒りを含んだ表情。本当は少し怖かった。けれど、私のことを考えてのことだと解っているので、その怒りさえも嬉しさに代わっていた。

 彼の服をギュッとキツく握りしめた。

 涙が零れそうだ。

 きっと今私が泣き出してしまったら、彼は完全に誤解するだろう。自分の物言いが私の涙を誘ったのだと、優しい彼は後悔するかもしれない。

 本当は違うのに。私はそれを上手く説明することもできずに、後悔し続ける彼を見ることしかできないだろう。

 だから、私は今、決して泣いてはいけないのだ。

 親以外で私を叱ってくれた人は、彼が初めてかもしれない。もちろんそれは、あの時からだ。あの時から私は、あまり叱られなくなった。今までは散々叱られていた怖いクラス担任の教師でさえも私を叱らなくなった。親でさえ、私をあまり叱らない。

 今日、門限を過ぎて帰った私に二人は心配そうな表情を浮かべるだけで、決して怒らないだろう。それを承知で、少し遅く帰ってみようと考えていたのかもしれない。

 あの時を忘れたいと思っているのは私だけじゃない。だが、私以上に両親はあれを忘れてはくれない。いつも何かに怯えたような表情を浮かべ、私に思い出させるのだ。

 自転車は、あっという間に駅へと運んでしまった。

 涙が出そうな私は、早く彼と別れたいと思うのだが、それとは相反した部分ではもう少し時をともに過ごしたいと思うのだ。

「有馬君、ごめんなさい。あと、ありがとうございます。それから、また来週」

「ちょっと待ってて。俺、チャリ駐輪場に置いてくるから。心配だから家まで送る。なんなら、俺が遅くなったわけを話すから。ちょっと待ってろな」

 断るすきすら与えずに、中村君は自転車に乗って走って行ってしまった。残された私は、待たないわけにはいかなかった。

 複雑な気持ちではあったが、もう少しだけ彼といられることが嬉しかった。

 駅横の駐輪場に自転車を置いて、走って戻ってきた中村君の額には、うっすらと汗が滲んでいた。

「そんなに急がなくても大丈夫ですよ?」

「大丈夫じゃないだろ? 早く行こう。有馬んちの駅はどっち方面?」

 私が最寄駅の名を告げれば、ちょうどそちら方面行きの電車が到着するところだった。自然に手を取られ、改札の中へと引かれた。

「少し走れるか?」

 中村君の表情からは、先ほどの怒りはもう感じない。強引には感じないその手の温もりが私を導いてくれるような錯覚に陥った。電車までへの道ではなく、もっと壮大なもの。大げさに言ってしまえば、人生の道筋を。

 どこまでも、その背中についていきたいと思った。その許可すら貰ってもいないのに。追いかけることすら許されていないかもしれないのに。そう考えると、その背中がなんだか切ないものに見えてしまった。

 中村君の手に引かれ、閉まる間際に電車の中に吸い込まれた。まるで図ったかのようなタイミングで私の背後でドアが閉じられた。


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