第3話
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
2012年1月
金曜日の放課後を心なし楽しみにしていたのは、私だけの秘密だ。
朝から始まる中村君とのあれこれを楽しみにしている私は、恐らく彼が好きなのだろうと思う。
誰かを好きになると、その人のために綺麗になりたいと思う。私だってその気持ちは、その辺の女の子と一緒だ。違うのは、たとえ私がそう思ったとしても頑として地味を貫くということだろうか。
少しばかり思い浮べる。流行りのファッションと流行りのメイクをした自分を。だが、すぐに打ち消す。
それは、私には許されていないことなのだと。
ふと甦りかけた記憶を強制的に押し込めた。
「さあ、中村君。上靴を洗いましょう」
私が家から持参したブラシと靴磨き材等を見て、中村君は諦めたように頷いた。
「分かった」
流しは教室を出るとすぐにある。
「中村君、これを履いてください」
私がスリッパを差し出すと、一瞬だけ目を見開いて、そのあと呆れたように笑った。
「用意周到だな」
困ったように笑う中村君をしばし見惚れた。
眉が下がり、いつもよりも優しいイメージを感じさせた。
「当然です。上靴を脱いでしまったら、足は冷えてしまいますし、靴下が汚れてしまいますから」
「なあ、有馬のそれ、癖なのか?」
「それ?」
「敬語。誰にでも敬語だろ?」
「ああ、そうですね。癖のようなものです。気になりますか?」
あの日からだ。
私が敬語を貫き通すようになったのは……。
『私が真面目だったら……、私がもっともっと地味だったら……』
過去の私の声が頭をかすめ、慌てて振り払うように振った。
今でも鮮明に覚えている。だが、それを引き出すのは危険なことだ。
「どうした? 具合悪いのか? 俺のために無理しないで帰ったほうがいいんじゃないのか?」
心配そうに覗き込む中村君の顔は、きっと私よりも蒼白だろうと思う。
「大丈夫です。ちょっと考え事をしてしまっただけですから」
中村君の真っ黒な上靴を水にぬらしておもむろにブラシで擦り始めた。
私が大丈夫だと納得したのか、私に倣って中村君も手を動かし始めた。
「俺。上靴なんて洗うの高校入ってから初めてかもしれないな」
「えっ。私たちもう2年生ですよ?」
「上靴なんて1年間一度も洗わなくても、履いていられるだろう? 進級と一緒に上靴も新調するから上靴を洗う必要性を感じなかったんだよ」
思い起こしてみれば、中村君とこうやって改めて話すのはこれが初めてかもしれない。
「それは、不衛生ですね」
「まあな。でも、男ならこれくらい平気だけどな」
けらけらと悪びれずに笑う中村君の横顔をちらりと窺った。
袖をまくって現れた逞しい腕に、うっすらと青い筋が浮かび上がって見える。私とは違う筋肉質な腕に触れてみたいと思ってしまった。
「ど、どうした?」
思っただけでは留まらず、濡れた手で思わず触れてしまった中村君の腕。私の手が冷たかったのか、びくりと震えた。
「ごめんなさい」
真っ赤になってしまったであろう顔が上げられなくて、一心不乱に上靴を磨いた。
**********
「ごめんなさい」
消え入りそうな声でぼそぼそと呟くと、有馬は俯き、上靴磨きに没頭してしまった。
濡れた手で触れられた腕が、奇妙に熱を帯びていた。
地味で真面目な(を装っているように思える)彼女が、俺はいつの間にか好きになっていた。毎朝繰り広げられる一連の行為は、俺にとってはいつしか特別なものになっていた。
彼女にしてみれば、ただの善意でやってくれていることにすぎないことは十二分に分かっているつもりでいるが、知ってしまった気持ちはもう後戻りできそうになかった。
もっと彼女を知りたい。
「なあ、有馬は家でもそんな感じなのか?」
「そんなとは?」
「うーん、例えば敬語で話したり、きっちりとした服装に、きっちりとした生活態度。それから、そのメガネ。家でもかけてるのか? それって伊達だろ?」
「どうして解ったんですか? これが伊達だってことに」
「そんな驚くことじゃないだろ。こうやって隣りに立ったり、後ろに立ったりすると、そのレンズ越しの風景が見えるんだ。レンズに度が入ってると、ぼやけて見えるけど有馬のレンズは肉眼で見るのと変わらない」
別に伊達メガネを付けていたって構わないと思うんだ。おしゃれとしてメガネをかける人だっているわけだから。ただ、有馬の場合はその理由がおしゃれではないのだろう。
「視力は本当はいいんです」
「別にいいよ。おしゃれでかけてるわけじゃないことは分かるけど、その理由を無理やり聞こうなんて思ってないからさ。ただ、家でもそうなのかと思ってさ」
「家でもかけてます。家での私も学校での私も変わりはありません」
家でも学校でも素の自分が全く変わらない人間は、あまりいないのではないか。みな、少なからず違って、家のほうがやっぱりリラックスしているという人のほうが多いはずだ。
有馬の場合、本当に彼女が言うとおりに家と学校の区別がないのなら、相当自分を殺しているのではないかと思えた。彼女が学校で素を出しているとは思えないからだ。
彼女が素の自分を出す場所があるんだろうか。
「なあ、有馬。本当のお前ってどんななんだ?」
彼女がヒュッと息を呑むのがわかった。
上靴を磨く手は二人とも止まり、互いを見つめあっていた。
放課後の廊下には、もう人は通っていない。みな、いそいそと出て行ってしまった。階下で騒ぐ声がわずかに聞こえるばかりで、この階に人が残っている気配はない。
彼女が緊張しているのが分かった。
「ごめん。変なこと言ったな。気にしないでくれ」
彼女の視線から逃れて再び上靴に手を伸ばした。
本当は、もっと問い詰めたかった。彼女が何を抱えているのか。何を悩んでいるのか。何に救いを求めているのか。知りたかった。俺が彼女の安らぎになれたらと思った。
だが、彼女が詰めていた息を吐いたのを聞いてしまったら、それ以上問い詰めることなど出来そうになかった。
俺はなんて役立たずなんだろう。