第16話
瞼を開いて一番に俺の目に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。
うっうっと耳に入る誰かの啜り泣く声。それ以外の音は何も聞こえない。
ここはどこだろう。
少しずつ覚醒する脳が、記憶を蘇らせていく。
「有馬っ」
勢い良く起き上がった際に脇腹に激痛が走り、呻き声を上げた。
「中村君っ。大丈夫ですか? 痛いですか? ああ、駄目です、動いては。うっ、良かったです。本当に良かったです。私っ、医師を呼んできますから」
矢継ぎ早に問い掛ける有馬に怪我がなさそうなことを痛みを堪えながらも探った。
「待って、有馬。一つだけ確認させてよ。有馬はなんともない?」
俺が問い掛けると、ぐしゃぐしゃの顔で振り返った有馬が両手で涙を拭いながらも懸命に言葉を紡ごうとする。
「ひっ、だ、だいじょっぶですっふっ」
「有馬を泣かせてるのは俺のせい?」
「ちがっます。……わた、しっせいで、なかむっらくんっ」
自分のせいで俺が傷付いたことを嘆いているようだ。俺が、俺の勝手な判断でしたことなのに。
「俺が勝手にしたことだよ。俺は有馬に心の底から笑えるようになってもらいたいからしたんだ。それなのに俺は有馬を泣かせることしか出来ない?」
「ちがっますっ。いまはっ、なかむらくっ、いしきもどって、うれし、から」
どんな理由でも有馬の涙は堪える。だが、俺のために泣いてくれるのだと考えると、なんだか嬉しくもあるのだ。
有馬を抱きしめたい衝動にかられたが、あの男と対峙したばかりの彼女には俺であっても男は受け付けないだろう。
そう思って我慢していたのに、抱きついてきたのは有馬の方だった。
「よかった、です」
首に巻きついて涙を流す有馬の頭をそっと撫でた。抱き付かれた時の脇腹への衝撃など、嬉しさに比べたら取るに足りないものだ。
「ごめんな。心配かけて」
俺の肩の上で頭を振った有馬の涙が首筋に飛びかかる。
有馬の涙が止まるまで、俺は彼女の頭を優しく撫で続けた。
「すみません。中村君は怪我をしていているというのに、私甘えてしまいました。医師を呼んできます」
落ち着きを取り戻した有馬が俺の肩から離れると、そういって足早に病室を後にした。
病室の外で誰かと会ったのか、有馬と誰かの声がする。扉が閉められているため誰の声だかは判別できなかった。
声が一旦止むと、コンと一度だけ扉を鳴らし、俺の返事などお構いなしに扉が開かれた。
「あんたっ。なんて無茶してくれてんだいっ。父さんと母さんがどれだけ心配したか分かってんの?」
大股で枕元まで歩いてくると、耳元で怒鳴り散らした。
「悪かったよ、心配かけて。でも、俺がしたことが間違いだとは思ってない」
憮然として答えると母はにやりと気味の悪い笑いを浮かべた。
「あの子があんたのお姫様ってわけね? それであんたは騎士気取りってわけだ」
「そんなロマンも減ったくれもあるかっ。ただ、守りたかっただけだ」
自分で言っていて背中がむずむずとしてくるが、事実であるからには仕方ない。本来口に出すような言葉じゃないが、母は俺の言葉を聞き出す術を持っている。母の前で嘘が吐けたためしがない。
「いいんじゃないの? 青春って感じで。ああ、私にもそんなころがあったんだけどねぇ。どこに置いてきちゃったのかしら。父さんだって昔はね、あんたみたいに私を守ってくれる騎士みたいだったんだから」
「へぇ」
今の父からはまるで考えられない光景だ。もちろん母が姫ってのもうなずけない。だって母は、誰かに手を借りなくてもなんでも出来てしまいそうなのだから。
「大事にしなよ」
母親の優しい笑顔がそこにあった。人をからかうときには決してしない真剣なまなざし。
「ああ」
「兄ちゃん、ジュース買ってきたよ。何がいい?」
ノックもなしに入ってきた弟に、母子水入らずの貴重な時間を遮られた。
「お前は何が良いんだ?」
「俺はね、コーラにする」
「母さんは?」
「じゃぁ、私はお茶にしようかな」
「なぁ、なんで6本もあるんだ?」
この病室内にいるのは三人、医師を呼びに行った有馬で四人だ。二本多いんだが。
「なっちゃんのご両親が来てくれてるのよ」
なっちゃん?
なっちゃんというのは誰のことだ?
「やあね、あんた自分の彼女の名前も分からないの?」
「いや、知っているに決まってる。問題はそんなところじゃない。なんで『なっちゃん』とか呼んでんだよ」
「それはあんたより私の方がなっちゃんと仲が良いからに決まってるじゃない」
母はこれ見よがしに『なっちゃん』を強調した。
母が有馬と会ったのはこれが初めてのはずだ。なんでこの短時間で『なっちゃん』と呼ぶほどに親しくなっているんだ。
オバサンって怖い……。
「あんたシバくわよ」
俺の心の声が聞こえたかのように、ギラリと睨みつけられた。侮れない。
「悪かったよ。なあ、俺の傷ってどんな感じかな?」
「あんたの傷なんて大したことないわよ。あんたダウン着てて良かったわね。あれってもこってしてるでしょ? だから、脇腹を多少抉った感じで済んだのよ。だから刺さってはいない」
抉る、という言葉を簡単に口にする母。ナイフが内臓に刺さらなかったのは良かったのかもしれないが、脇腹の肉をナイフが抉ったというのか。
「想像したら具合が悪くなった」
「だから大したことないって言ってるでしょ。そんなもの舐めときゃ治るわよ。なんなら私が舐めてあげようか?」
「や、止めろっ。痛てぇぇぇっ」
母が本気で舐めようと病院服をめくり上げるものだから、体を捩って逃げようとした。案の定というか自業自得、いや母が全面的に悪いと思うのだが、激痛が全身を走った。
俺の叫び声が病室外にも響いたのか、医師を連れた有馬と有馬の両親が駆け込んできた。
「何をしているんですかっ。安静にしてください。君の傷口は大分深いんですからね?」
医師の厳しい言葉に母をねめつける。言っていることが違うじゃないか。
「まあ、心配することはありません。若いからすぐに治りますよ」
にっこりと笑う中年の医師に、力なく頷いた。