第15話
あの頃と景色はまるで変わっていない。変わったのは視点の高さくらいだろうか。
私はそっと目を閉じた。
人通りの少ない場所だからか、その音がやけに大きく聞こえる。
ズッズッとスニーカーをだらしなく引き摺るような音が徐々に近付いてくる。
このまま私が動かなければ、刺し殺されてしまうだろうか。
心は凪のように穏やかで、恐怖を感じない。
死ぬのは怖い。死にたくはない。だがなぜか私はここでは死なないと、確信めいたものを持っていた。
「私をどうするつもりですか?」
私の背後でぴたりと止まったのを感じて、そう問い掛けた。
返答がないので、振り返ってみた。
あの頃の犯人の顔など正直記憶にない。ただただ恐怖だけがいつまでも残っているだけだった。思い出したくもないと、遠ざけているうちに薄らと残っていた記憶も完全になくなっていた。
暗闇にぼんやりと浮かび上がる男の顔をしげしげと窺った。
あれから長い時が流れたと言っても、男はまだ若いはずだ。けれど、目の前の男はやつれて中年といってもおかしくない容姿をしていた。
頬はこけ、顎には無精髭を生やし、衣服はだらしないことこの上ない。
思わずいつもの癖で身だしなみを整えなければと思うほどの乱れっぷりだ。
「知らない」
「え?」
萎れたように乾き切ったその唇から、しゃがれた声がもれる。
「知らない。知らないぞ。知らないっ。お前は誰だ」
「あなたが逮捕される前に監禁していた少女が私です」
「バカな。あの子は永遠に少女だ。お前のはずがない」
錯乱しているのだろうか。男の焦点が合っていない。何が男を狂わせたのか。いつ男は狂ったのか。通り魔事件を始めた時から男はもう何を探して、何を恨んでいるのかも分かっていないのかもしれない。
「じゃあ、あなたはここに何をしに来たんですか?」
何をしに?
男は口を動かしただけであったが、そう言ったのが分かった。
ぶつぶつと口の中で呟いている姿はあまりに異様だ。
「俺のあの子をお前が手にかけたのか?」
眼球がぼとりと落ちてきてしまいそうなほど浮き上がって見える。ぎょろりと睨まれると、お化けと対峙しているような気さえしてくる。
「違います」
「お前が、お前が俺のあの子をっ、あの子を殺したんだ……」
このままでは危険な方向に向っていくというのは解るが、その矛先を替えることは出来ず、ただ男を茫然と見ていることしか出来ない。
もう口を挟むことすら憚れた。
「お前が死ねばあの子が戻ってくる。お前さえいなければ。そうだ、お前さえいなければ」
男がにやりと笑った。
右手をコートのポケットに突っ込む。再び現れた右手にはナイフが握られていた。
今まで被害に合った人の血がついているかもしれない。
私がこの男に刺されれば、満足するのだろうか? イヤ、するわけがないのだ。私は男の言うあの子であり、あの子は私でしかないのだ。そして、あの子は私であるなら、どんなことをしても男が望むあの子は現れない。
男は幻想の中でしか生きられなくなっているのだ。
「あの子はもういません。あなたを恐れて泣いているだけの少女はいないのです。私はあなたには決して負けません。逃げないと心に決めて私はここに来たのですから」
そうは言うものの、男のナイフを叩き落とすにはどうすべきが解らずにいた。
こんなことなら護身術の一つも習っておくべきだったと、唇を噛み締めた。
男と私の距離は対して開いておらず、男が腕を振り下ろせば、ナイフを突きつければ一撃で深い傷を負うだろう。
下手に動けば相手を刺激しかねない。動かねばヤられる。どうすべきか頭の中で良い答えは出してくれず、ナイフの切っ先だけを見つめ続けることしか出来ない。
「俺のあの子を奪ったお前を許さない。死を持って償えっ」
男が勢いよく一歩を踏み出したとき、私は何も出来ずに目をつぶった。
結局、私には何もできない。
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目の前で自分の彼女が誰かに刺されようとしていたら、誰だってそうすると思うんだ。
事件の後、みんなが口を揃えて、なんて無茶なことをしたんだ――彼女である有馬さえも――、と責め立てたけどいざそうなったら体は動くものだと思う。
好きな女のために体張らなきゃ男じゃない。なんてくさいことは言わない。たとえ思っていてもね。ただただ、体が勝手に動いていたんだ。
「だから、早くしてよ刑事さんっ」
「交通ルールは守らなきゃならん」
有馬の家へ向かう道中にあった交番で当直の警官を引っ張り出した俺は、有馬がいるんじゃないかと思われる現場へと向かっていた。
定年間際のこの警官はのんびりとしていて、俺の神経を逆なでするのに十分なほどだった。
「もう、いいや。行き先はこの先にある人気のない公園の前。刑事さんなら知ってるんじゃないの? 前にそこで誘拐事件があったんだけど……。絶対来てよっ」
足腰が弱っているのか自転車に乗ってもなかなか速度が上がらないその老警官を残して、俺はスピードを上げた。警官があてにならないなら自分が行くしかない。なんでこんな時に老警官しかいなかったんだ。
いくら老警官でも俺がここまで慌てていたら、何かを感じて急いできてくれるだろう。長年の刑事の勘というやつを十分に発揮してくれればいいのだが。
交番から公園までの道のりは大した距離ではない。自転車をかっ飛ばせば5分以内に着くだろう。
その辺りは極端に暗く、夜は誰もが避けて通るのだろう。人通りは全くない。その暗さ、不気味さが異様な空気を纏い心霊スポットのようにさえ感じられた。
やがて薄ぼんやりと灯る外套の下で一組の男女が向かい合って睨み合っているのが見える。男の表情はこちらからでは見えないが、有馬の目には何か強い意志のようなものが見えた。目の前の男に必死に打ち勝とうとするその姿は気丈で凛々しかった。
男の姿に視線を戻すと、丁度男がポケットから手を出しているところだった。ポケットから出された手にはぎらりと光るナイフが握りしめられていた。
グッと喉に何かが詰まるように息を止めた。
有馬はナイフが取り出されてもその気丈さを崩さなかった。
俺は一層ペダルを漕ぐ力を強めた。二人ともお互いに集中しているためか、俺が近づいていることには気づいていない。
男が何かをぼそぼそと呟いているようだが、自分の呼吸の音ばかりが耳について、何を言っているのかまで分からなかった。どっちにしろ、男が口にする言葉など碌なものじゃない。だから、その内容を気にすることなんてないんだ。
男が一歩有馬の方に乗り出したとき、俺は自転車を投げ出し有馬と男の間に割って入った。
脇腹に固い何かが当たる感触、男の奇声、有馬の悲鳴、老警官の怒声。全てが一気に耳に入る。
必死だった。有馬を守るために。とにかく必死だったんだ。
そのあと俺が何をしたのか覚えてなどいない。