幕間:夢
8年間。
人の一生と考えれば短くはあるが、それなりに長くを生きてきた割に、記憶に残っているような事は殆ど無い。機械のように与えられただけの役割をこなすだけだったのだからそれも仕方が無いだろう。
だから、私の生きた思い出の始まりはここからなのだ。
「……ふむ、成程。ここまで一人でやってくるというから何者かと思えば、やはりそういうことか」
そいつを見た瞬間、頭の中で響いていた声がぴたりと止んだ。
勇者。大陸史において魔王によって脅かされた大陸に必ず現れ、人間では勝ち得ないはずのそれを悉く打ち破ってきた存在。
抱いていた予感は対峙して確信する。こいつは私と同じモノだ。私が人を減らす装置ならば、こいつはそれを止める信号。私が始めてこいつが終わらせる。表と裏、光と影。合わせて一つのモノなのだ。
珍しいものを見て興が乗ったせいか、身の程知らずに闘いを挑みあっさりと敗れ去る。余りの力の差に悔しさすら滲まず、振るってきた絶大な力が抜け落ちていく喪失感すらもがただ清々しい。
横たわる私に勇者が剣を振り下ろす。が、その黄金の剣は何故か狙いを外し、顔のすぐ横を弱々しく叩き持ち主の手を離れて床に転がり落ちた。
「……何のつもりだ」
瞳を開け勇者の顔を見上げ、視線が絡む。
役割を成し遂げたにも関わらず未だ憔悴した表情のそいつは、何か葛藤しているような沈黙の後、口を開いた。
「僕は、君を殺しに来たんじゃない」
そう言って視線を逸らし剣を拾い上げて鞘に収めた。鞘を剣帯に挿すとこちらに背を向ける。
「僕は皆を救いに来たんだ。だから君の事も救う。だって、生まれ持った役割に生きて死ぬだけの人生なんてあんまりじゃないか」
その背中越しに放たれた言葉の意味する所が、私には全く理解ができなかった。
馬鹿げている。そうするべく生まれたモノがすべき事を放り出しているのだから、そうとしか言いようが無い。
自分を打ち破った強い男の背中が急に小さく弱く見える。それも相俟って目の前の男が何者なのかわからなくなった。それはつまり、今までの生で初めて抱いた興味という物だったのだろう。困惑しながらも、その時私は私は微かにこう思い始めていたのだ。
こいつはそう定められただけの私とは違う、『本物の勇者』なのではないか、と。
そして私は勇者に着いていく事を決める。元より拒否権などない。勝者に付き従うのが敗者の義務だ。
姿を魔術で作り変え、丈が合わずとも羽織れるローブだけを身に纏い、最後にいくら従うとは言っても魔王という存在を消したそいつを許したわけではないと念を押し、勇者の脇を通り抜け正門に向かって歩き出した。
「わかった。それじゃ、行こうかイヴ」
「……?」
背後で何かよくわからない事を言われた気がして振り返る。恐らくは怪訝な顔をしているのであろうこちらの顔を見て、勇者もまた首を捻る。
「イヴ……というのは私の事か?」
「うん、そうだけど」
あっさりとさも当然のように肯定を返される。
イヴ、というのは覚えが確かなら人間の教義の中で登場する最初の女の名前だったはずだ。よりにもよって私にそんな名前をつけるのか、と思わず呆れて溜め息が漏れた。
「ふざけた事を抜かす奴だ。私がイヴならお前はアダムとでも名乗るつもりか?」
そう言うと、そいつは何故かきょとんとしている。その様はまるでこちらの方から何か妙な事を言ったかのようで腹が立ってくる。
暫しの沈黙の後、ようやくこちらの意図に気付いたのか感嘆と共に手を合わせた。
「いや、僕はただ単に魔王を縮めてみただけだったんだけど……でも、そうか、いいねそれ」
そう呟き、そいつは顎に手をやって思案を始めた。その様子が不思議だった。そいつは何故か、とても楽しそうに見えたのだ。
一体、何がそんなに楽しいのか。名前などただ単にその個体を識別するための記号に過ぎないというのに。
そいつは戯れで放ったそんな言葉を。どこにでもありふれたそんな名前を。
「うん、僕の名前はアダムだ」
何かとても大事な物でも受け取ったかのように、眩い笑みを浮かべながら私に向かってそう言った。
いけるかなと思ったら普通に間に合ってしまった