大陸北西部の町にて:9
全身を走る激痛に目が覚める。
どうやら気を失っていたようだ。息苦しさに深く息を吸い込むと胸の中心が酷く痛んだ。痛みを堪えながら胸元を手で触れてみるとあばらが幾つか砕けている。肺や心臓が無事で気を失ったまま死ななかったのは奇跡的と言えるだろう。
傷に障らぬよう注意しながら首を捻って周囲を見回す。点々と枯れ木が茂っているだけの変わらぬ殺伐さだが、殴り飛ばされた後に坂道を転げ落ちたのか先程居た場所からは随分離れたようだ。自分が背にしている巨木のすぐ背後に、坂道と呼ぶには少しばかり角度がつき過ぎている崖が口を開けているのを見て解った。
前方から枯れ葉を踏みしめる音が聞こえてくる。その主が今更誰かと尋ねるまでもなく、顔を伏せたまま口を開く。
「おめでとう。見事に貴様の勝利だ」
たったそれだけの短く掠れた声を紡ぐだけでも全身に痛みが走り喉から血の混じった咳が漏れ、視界に映る見覚えのある爪先と鈍く輝く剣の刃が揺らいだ。
「止めを刺す前に教えてくれ。お前は何故、迷わず陣を抜けてこれたのだ。見破ったわけではないだろう」
虚勢の魔法陣が放つ光の中を抜けてきたあの時の表情は策を看破した人間の者ではない。それがどうしてもわからず、胸元を走る痛みを堪えながらそいつの顔を見上げた。
「お前の言う通り、何も起こらず光が納まった時は少なからず動揺させられた。全くの想定外だった」
「ならば、何故」
「どれほど強い炎だろうと一太刀浴びせるまでは体が持つと判断した。ただそれだけの愚かしく単純な判断だ」
そう、男は表情一つ変えず、眉一つ動かさずさも当然のように告げた。それは確かに言われて見ればその通りのことであるが、故国を丸ごと焼かれた男がそれをやった相手の炎の中に平気で飛び込もうとする精神性は異常極まりない。
「は、成る程、借り物の技と策では勝てる道理もない」
体の痛みも堪えて笑った。力の強さなど、肉体の頑丈さなど全く関係がない。この男の最も強固な武器はそのどちらでもなく意志の強さだった。
不思議な気分だ。全身の痛みは止んでいないというのに自然と笑いが込み上げてくる。思い返せばあの日、勇者に敗れた時も同じ思いだった。力の限りを尽くしたからだろうか。共通点ではあってもそれも生涯でまだ2度目の経験であり、はっきりとした確信には至らない。
「……こちらからも幾つか聴かせて貰いたい」
そんなこちらの様子に何か思うところでもあったのか、その剣がこちらの首元まで届くほどの距離まで近付きながらもそれを振るわずに立ち尽くし声を上げた。速く止めを刺して体の痛みから解放されたい気持ちとこの爽快さの余韻を味わっていたい気持ちが胸中を巡り、結局勝者への義理立てと合わせて小さく頷いた。
「何故人々を殺した? 何かを奪うわけでもなく、ただ殺すために殺すかのように。今のお前を見るに殺し自体に愉悦を感じていたとは思えん。目的があるとは思えないほどただ機械的に人間を殺し続けたその理由は何だ?」
そう告げる顔は未だ鉄面皮に守られながらも、言葉の最後には小さく震えが混じりきつく握られた指の隙間から血の筋が流れ落ちている。
故国を焼かれた人間なら……いや、理不尽に死を押し付けられた人間という種族であるならばその問いを向けるのは至極当然の事だろう。特に驚きもなく淡々と答える。
「単純な事。殺して減らすのが私の役目だからだ」
「……役目?」
怒り狂ってすぐさま首を落としに掛かるかと思ったが、その男は事の外冷静にそこを聞き咎めた。
「魔王であるお前により上位の存在がいるとでも言うのか? お前の起こした騒乱は全てそれの意志だとでも?」
「肯定も否定も出来かねるな。事実から推察すればそうだとしか考えられないが、それを裏付ける証拠は何一つ存在しない」
男が怪訝そうに眉を顰める。このようなろくに答えにもなっていない訳の解らぬ話を聴かされればそれも当然か。
「信じるか信じないかは貴様次第だがな。大陸掃討の足がかりとした央国崩壊、貴様が私と出合ったというその当時私は生後20日だった」
「……は?」
その言葉の意味する物が信じられなかったのだろう、男は数瞬の沈黙の後で呆けきった声を上げた。聞き間違いという可能性を潰すため、今一度言葉を繰り返す。
「20日だ。20年ではない。私は生まれた時からあの姿であり、当然のように大陸中の全ての人間を凌駕する力を持っていた。魔力によって人ならざる者を操る異能、大陸中のあらゆる人間の最も優れた能力を紡ぎ合わせた何よりも強気肉体。知った相手が軒並み命を落としてしまうせいで誰も知らんが触れた相手の生命力を魔力に変換して衰弱死させる能力も持ち合わせていた。加えて、それらの能力を自覚すると同時にどこか心の奥底から大陸の人間を殺し続けろと声が響いてくる。ならば、声に従い人を殺すのが私の産まれ持った役目なのだろう。一体何を望んでそう創られたのかは知らんがな」
そう言い終え、視線を上げると困惑しながら自らの拳を眺める男の姿が目に入る。見ているのは恐らく丁度私の胸元を殴りつけた辺りだ。
「安心しろ。今では勇者に敗れた際にそれらの力の殆どは失われている。残っているのは身体能力と直接触れなければ使えないほどに薄れた魔獣使役程度だ」
察した通り、気になっていたのはやはりそれだったようで、男はその言葉を聞くと短く息を吐きじっと見下ろしていたそれをゆっくりと下ろし、今度はこちらの体に視線を向けた。
「……その体はその時にそうなったのか?」
「そんな訳があるか。これは旅路で正体がばれぬよう魔術で組み替えたのだ。人体改造術を熟知した魔導師の知識は残っていたからな。大陸を恐怖の底に突き落とした魔王が小娘に変わるとは誰も思いもせぬだろう」
最も、自らの肉体を切り開き骨子に直接魔道陣を描くような施術までしたにも関わらず、目の前の男には結局目を見られただけで看破されてしまったのだが。
沈黙が2人の間に訪れ、木々の縫って風が吹きぬけていく音だけが響いている。ふと胸の痛みを思い出し咳が漏れる。
「……もうそろそろいいだろう。語るべきことは語りつくした。速く国の奴等の敵を討ってやれ」
でないと正直、痛みに耐えかねて無様を晒してしまいそうだ。
だというのに、そんなこちらの心の内も知らずそいつはそれに今気付いたかのように表情を強張らせた。
「敵討ち……そうか、これはそういう事にもなるな」
「何だ、それが目的ではなかったのか」
央国出身である事と鬼気迫る形相からそうだとばかり思っていが、男はその問いに対し首を横に振って否定した。
「復讐心が無かったとは言わない。だが私の目的はあくまで今現在命を脅かされている人々を助ける事だ。能動的に人間を襲うのをやめたとはいえ、央国跡には未だ多くの魔獣が息を潜めている。日に2匹や3匹排除してもまるで意味が無いほどに。再び人が住めるようになるのは何十年先になるかわからん。にも関わらず、それが解っていても尚多くの人間は産まれた故郷に帰るのを諦めきれない」
「成る程な。その自覚無き自殺志願者達の命を助けるため、私は殺さなければならないというわけか」
その瞳に意志を込めて男は力強く頷いた。
「お前が考えている通り私を殺せば魔獣達は皆完全に私の支配から外れ、元いた場所に帰っていく。何者の手にも触れられぬ秘境の奥地や、あるいは断裂した次元の間にな。半年も経たぬ内にどれだけ必死に探しても見つけられないようになるだろう。ただの人間がそれを何処で知ったかは知らんが大したものだ」
「昔読んだかつて現れた以前の魔王の記録に載っていた。魔王が討たれると同時に全ての魔獣は忽然と姿を消したとな。古い文献な上に公式の書物ではなく、その上魔王が討たれた後も魔獣が残っている今現在の状況から見て偽書か創作だと思っていたが、今生きているお前の姿を見て逆にそれが真実であると知った。それでも半信半疑ではあったがな」
そういう男の顔は確かに未だ迷いが残っている。闘っている間よりも倒した後で弱気になる奴があるかと、思わず笑いが込み上げ、それが胸の痛みで咳に変わる。
よくわかった。こいつは正しい。意志も方法も何一つ間違ってはいない。気持ちのいいほどに清々しく正しい男だ。 この男に負けたのであれば、誇らしく笑って逝けるだろう。
だが、しかし。
「……今更何をしている」
そいつはそう、血反吐を吐き散らしながら立ち上がる私に声を掛けた。逃げようとしているとでも思ったのか、片手で剣を地面と水平に横に広く構え腰を落としている。枯れ木を背の支えにしながらなんとか立ち上がり、喉に支えた血の混じった痰を吐き捨てた。
「何、お前のように強く正しく義理堅い人間の考える事などお見通しというだけの事だ」
つい最近のとあるふざけた男を筆頭とした集団を思い起こしながら口の端を吊り上げる。
「気のせいかとも思ったが、少しばかり言葉を交わしてお前という人間を観察した結果確信した。大方、私を斬り殺した侘びとして勇者に自分の首でも差し出そうとでもいう腹だろう。その面は相手を殺す面ではなく自分の死を受け入れた面だ。それは事この場で浮かべる表情ではない」
「っ……」
その指摘に男が露骨にうろたえてみせる。剣先がぶれ、戦闘中虚を突かれようとまともに攻撃を受けようと引かなかった一歩を自ら退きさえした。私は歯を食いしばり、支えの木の幹から背を離すとそいつとは逆に折れた足で一歩ずつ踏み出して行き、そいつの襟首を掴み上げる。最も、上背の関係で掴み上げるというよりは引き下げるような形になってしまっているが、とにかくそうして合わせた視線に残った気迫を全て込めて睨みつけた。
「ふざけるな。私は断じてそんな馬鹿げた行いは許さん。『今後一切、自衛を除き人間を殺害する事を禁じる』。それが勇者に敗北した私に課せられた誓いであり、産まれ持った全てと培ってきた全てを打ち砕かれた私に残された最後の誇りだ。こればかりはいかに私に勝った相手と言えども譲る事はできん。勝者たる貴様が私を殺すのは一向に構わん。だが貴様がそれで死を選び、負けて死した私の誇りに更に泥を被せるのだけは決して許しはしない。そんな事をすれば貴様の故国など二度と人の足が踏み入れられぬよう地獄の底から呪い続けてやる」
そう言い切ると同時に、顔を顰め合わせていた視線を逸らした。手を放し、背を向け前に進む。
「とは言っても、見るからに頭の固そうな貴様の事だ。自分の手で命を奪えばその重さに囚われて私の言う事など忘れてしまうだろう」
片足を引き摺りながら、先程まで背を預けていた枯れ木を通り越し、そこに立った。見下ろすその先は月光も届かない深い闇を抱えた崖の淵だ。落ちればおそらく命はない。加えてこの傷だらけの体であればそれは可能性から必定に変わる。
「貴様、まさか……」
その意図を読み取ったのだろう、背後で少しばかりうろたえた声が上がり、私は最後に大きく息を吸い首を回して肩越しにそいつに向かって口を開く。
「お前は復讐のために私を斬りたいのではないのだろう。ならば死に逝く負け犬の最後の懇願くらい聞き届けてくれ」
そして、地面のないその先へ一歩を踏み出した。まるで時間が引き延ばされたかのようにゆっくりと視界が傾いていく。落ちながら体が反転し、枯れ木の合間で申し訳なさそうな顔をしている男の姿が目に映る。
ふと、その片隅で妙な物を見咎めた。
木々の切れ間を、何か黒いものが奔っている。縫うように真っ直ぐとこちらに向かってくるその影は引き伸ばされた時間の中でもまるで関係がないとばかりに凄まじい速さを誇っている。見る見るうちにこちらに近付いてきたその影が人の形であると気付いた時、それの正体を察した。
影が月明かりの下に躍り出る。
「イヴ!」
影の正体がそう叫んだ瞬間に時の流れが元に戻った。
駆けてきた勇者が声と共に放った灼け焦げるかと思うほど濃密な気に、直前までこちらを見ていた男は恐怖に顔を引き攣らせ、本能的に剣を背後に向かって突き出そうとした。勇者はそれを、鞘から抜かないままの剣で刃先から鍔の根元まで一直線に砕き散らした。
衝撃で腕が逆方向に曲がり、武器を失って唖然とする男の脇を勇者が走り抜け剣を投げ捨てた所で、落ちていく視界が岩壁に遮られる。首を曲げて見上げるが、角度のせいで目に入るのは星空だけだ。いや、だけだったのだが、次の瞬間、一面の星の海に崖の岩壁を蹴りつけてこちらに向かって落下してくる人間の影が差し込み絶句する。
逆行で表情の見えないそいつが何事かを叫びながら手を伸ばす。勢いをつけて落ちたそいつはすぐさまこちらに追いつき、その手で掴んだ私の腕を引っぱり、その胸の中に抱き込む。
それを済ませたのが、崖の底に叩きつけられる僅か一瞬前の事だった。
設定解説回なのはいいものの言っとかなきゃならない事を全部押し込んでたら流れがやたら不自然に
どうすりゃ上手くできんのかしら