幕間:鬼神降臨
※今までで一番長いけど特に読まなくてもだいたい話は通じます
◆
「おいダニー、いくらなんでも気抜きすぎじゃないか?」
「ん、悪り」
戦時下。かつ最前線の基地内。この状況でソファーに横になって本を読み、あまつさえ欠伸までしている同僚を咎めると、気の抜けた声で返事が帰ってきて溜息をついた。そんなこちらの様子が気になったのか、同僚は本を閉じて体を起こす。
「でもさぁ、いくら戦争中つってもこんな場所でまで気を張り詰めとく必要はないだろ?」
「それはそうだけど……」
それにしたって気を抜きすぎだ、とは何度も言ったので今更口にせずともわかっているだろう。
確かにここは戦地の最前線だが、その中では最も戦火から遠い場所。町側へ出る裏口前の警備室だ。まかり間違っても何の連絡もなしにここが襲われるような事はないだろう。
「それでももしかしたら町側から密偵が忍び込んできたりさ」
「あるわけないだろそんな事。西は城砦が崖まで続いてるし、東の切れ目は央国跡地で未だ魔獣の巣だ。そんでもってばれないように海を渡るにしても遠洋は潮の流れが複雑すぎて、名高い東端の国の船と航海士でも揃ってない限りはとてもじゃないが渡ってこれない。地続きに東から回ってくるのはあるかもしれないが、時間がかかりすぎるしそれならわざわざこんな所じゃなくて首都に侵入して暗殺でも企てるだろ」
はっきりと言い切られ、反論の余地なく黙り込む。はっきりと正論でぐうの音も出ず、それでも今神経を削って戦っている仲間がいる以上、最低限の緊張は共有しておくべきだという感情を飲み下した。
「それよりジョニー、もうそろそろ交代の時間だぜ。さっきあのいつものバカの声がしたから早いとこ労わってやんねーと可哀想だろ」
「……気が抜けるから本名で呼んでくれ」
言いくるめられた直後で気が乗らず。どこか重い足を引き摺ってのたのたとダニーの後に続く。
「……そうだ、ひょっとしてあのバカが西の密偵だったりしてな」
「それはないだろ」
ははっ、と申し訳程度に笑う。あまりに気落ちしているのを気遣ったのだろうが、さすがにその冗談は有り得なさ過ぎる。
いつものバカ、あのバカ、というのはこの基地では有名な人間だ。戦が始まる少し前辺りから町に現れ、法外な値段で武器を売りつけようとして当然の如く突っぱねられ、泣きながら罵声を吐いて兵士に追われて去って行くのを日課にしている。いや、それが日課なのではないだろうが、結果としてそうなっているのだ。密偵のやる行動にしてはあまりに突飛すぎる。
「お?」
扉に手を伸ばした同僚が、妙な声を上げながら腕を引く。体越しに覗き見ると、扉がひとりでに開き始めていた。
風の流れで開くような扉ではないはず、と怪訝に思いながら様子を見続けると、扉が開いた隙間をするりと抜けて現れる人物が一人。ついさっき話題にしていたそのバカだった。そのバカは足早にダニーに近付き、通り際ゆっくりと、しかし一切の無駄と迷いのない動きでぽかんと口を開けて立っていたダニーの首筋に右手を撫でるように這わせた。同時にダニーの首から赤いものがぶわっと噴出し、ごぼごぼと水泡の立つ音を発してダニーが床に倒れた。
「だっ……」
ダニー。と、剣に手を伸ばしながら名を呼ぼうとしたその瞬間に、無手のそいつの左手親指がこちらの喉に突き刺さった。激痛と喉の違和感に咳き込みたい衝動に襲われるが、突かれた喉は指が放された後もまだそれが残っているかのように空気を一切通さない。 柄に添えていた手を離し、喉を押さえながら体が前に折れる。
その瞬間に、とても不思議だと思った。視界一杯に広がるはずの床板が目に入らず、かわりに人の膝がどんどん近付いてきたのだから。
「おい、そこのお前」
「あ、はい!」
廊下を歩いている所を呼び止められ、そちらを向き直立して敬礼する。4人からなる相手の一団は見る限り全員が自分と同じ一般兵だが、それでも僕から見れば上の立場だ。しかし、その事情がわからない相手はこちらの様子を見て怪訝な顔をした。
「なんだその態度。俺は別にお前の上官じゃないぞ」
「はっ、しかしその、自分は1週間前に徴用されたばかりですから」
「あぁ、町の志願兵か」
リーダー格らしい一際いかつい男が、納得がいったように顎に手を当て頷いた。
僕は言われた通り、元々この町に住む一般人だった。戦う事には全く興味がなく、街が戦場になるかもしれないと言われてもいざ避難が始まるまでは兵になる決心も決められなかった。そのくせ、今でもたまに怖くてその選択を後悔している腰抜けでもある。
だから、その前から自分の意思で戦いに赴いた兵士達には敬意を払いたいやら、情けなくて申し訳ないやらでつい体が固くなってしまうのだ。
そんな意志を見透かされたのか、全員がにやにやと口の端を歪ませている。
「くだらない事気にする奴だな。貴族連中や亡央国の騎士団でもあるまいし、入ってからの時間で露骨に差別するような奴はここにはいないぞ」
「ひゃい」
噛んだ。
一瞬の静寂の後、どっと笑い声が沸きあがる。羞恥で真っ赤に染まる顔を隠そうと伏せた頭に分厚い掌がばしばしと叩きつけられる。
「はっはっ、は、ひぃ……それで、どうした。ここらには今はわしらと裏門警備の連中しかおらんぞ」
「その、アーノルド殿を知りませんでしょうか。クレスト隊長殿から隊に一人加えたい者がいるから来るようにとのお達しがあって」
「あぁ、それはわしだ」
4人のリーダー格のいかつい男……いや、アーノルド殿が己を誇示するように胸を張って腕組みをした。
「そうでしたか。では隊長の元へ……」
「そしてお前が新たな隊員というわけだな」
「……へ?」
どう反応したらいいのかわからずに適当に流そうとした瞬間に放たれた言葉に、思わず素っ頓狂な声を漏らす。敬礼すら忘れて口を開いてぼうっとする僕にアーノルド殿は言葉を続けた。
「お前は知らなくて当然だが、うちの組では新入隊員の通達にはその隊員を向かわせる事になっとるんだ。本人に知らせないのはまぁ、その人間の人となりを判断するためにな。これから肩を並べる事になるとわかっていると媚を売ってくる奴もいるんだこれが」
「だいたいの奴はお前みてーにえって顔して終わりなんだけどな、昔いたんだよ面白い奴が」
「あぁ、『何で俺が使いっぱしりみてーな真似しなきゃなんねーんだ』って言いながら来た奴ね。下級貴族の次男で腕もそこそこ立つってんですっげぇ調子乗ってた奴」
「うむ。隊長殿の部屋についた途端に口調が変わって礼儀正しくなったと思いきや、自分の配属先を聞いて顔を真っ青にした奴だな。あれは傑作だった」
「あの、その時の事はもう勘弁してください本当に。若かったんですよ俺」
はははは、と4人が身内同士にしか通じない笑い声を上げた。
話はさっぱりわからなかったが、とにかく僕はこの人達と共に戦うことになるということはなんとか理解できたので。
「あ、アーノルド殿」
「ん?」
「フレッドです。これから、よろしくお願いします」
敬礼をやめ、深々と頭を下げた。
「おう、礼儀正しい奴だのう誰かと違って」
「もうやめてください! 泣いてる子もいるんですよ!」
「それお前の事じゃねーか!」
ふたたび大きな笑い声が上がる。先程は混じれなかったそれに、今度は僕も自然と釣られて声を漏らした。
その時、笑い声に紛れてきぃ、と戸が開く音が聞こえた気がした。気のせいじゃないかと思えるほど小さいそれが妙に気になり、視線をそちらに向けるとそこには若い男が立っていた。若いとは言っても僕よりはずっと年上で、30を過ぎたかどうかという風体の男が、無表情に立っている。
その男と目が会った。瞬間に全身が総毛立つ。あれは危険な生き物だと本能が叫び出している。
男が音もなく駆け出す。そこで初めて男が剣を持っているのに気付き、震える体を押さえつけながらそいつの方へ指を向け、声をあげようとする。
しかし、声を上げる前に一人が気付いた。その男に一番近く、僕から一番遠かった「泣いてる子もいるんですよ!」の人が振り向き、血相を変えて柄に手を添える。
「かっ」
が、遅かった。男の抜き放った剣は、彼の刀身が鞘から抜ききれるよりも先にその切っ先を喉元に突きたてていた。彼の体が崩れ落ちる。
それと同時に、他の全員もそれに気付いた。彼らは混乱するよりも、怒るよりも早くに剣を抜く。
横に並んでいた二人のうち、長身の男が刀身だけで己の背の半分ほどもある長剣を抜き、走ってくる男に向かって突き出した。狭い通路でそれしか選べない選択肢ではあるが、中肉中背である相手に間合いで挑むのは決して間違いではないだろう。突き自体も無駄のない動きで速く、狙いも正確だ。
が、男はその正確さを逆手に取り僅かに頭の位置をずらすだけで、握っていた剣を捨て勢いをまったく緩めずに走りながらそれを回避した。体勢を低くし、驚愕する長身の男の膝裏に懐から取り出した短刀を突き立てる。重心を取る軸足を傷つけられ体を揺るがせながらも、彼は倒れこまずに突き出した剣を逆手に握りなおし、足元へいる男を穿とうと二の突きを放つ。男の脇腹辺りへと向かった剣先は、しかし空を切り床の床に突き刺さった。
男は剣先が迫るより先に両手で自身の体を跳ね上げていた。上下が逆さになったまま、己の背中に隠れて敵を見失った長身の男の首へと片足を絡ませ、全身の力で体を回す。ごぎり、という嫌な音に続いて長身の男の体は、首を折られた勢いのままにその後ろで剣を構えていた男に投げつけられ、その胸を味方の剣に埋めた。地面を転がった男は、死体の重さに倒れこんだもう一人の男の体に飛び乗ると親指を目に突っ込む。悲鳴を上げようとする男の髪を空いた手で掴み上げ、勢いを付け更に親指を深々と突き入れると、裏返った喘ぎ声を漏らしたきり一切の動きを止めた。
全部あっという間だった。3人が瞬く間に、傷一つつける事もできずに死んでしまった。殺されてしまった。みんな強かった。突然の襲撃にも、仲間の死にも戸惑わない強い戦士だった。それが、一瞬でみんな。
かちかちとけたたましい音が鳴り響き、体を竦めたところでそれが自分の奥歯の音なのだと気付く。意識すればするほどに震えはより強くなり、両手で体を押さえても押さえる事はできない。
ここで、僕は死――。
「フレッドォ!」
絶望が過ぎった頭に力強い叫びが割り込んできて、体の震えが弱まる。目の前にはアーノルドの巨大な背中があり、僅かばかりの落ち着きを取り戻す。
そうだ、たとえ相手がどれだけ強かろうとも戦いもせずに諦める事は許されない。僕はもう兵士なのだから。
からからの喉に唾を無理矢理流し込み、腰に下げた剣に手を伸ばして。
「今すぐ逃げろ!」
次いで放たれた言葉に耳を疑った。
怯えているのを見抜かれ失望されたのか。情けなさで涙が滲みかけるが、腰を深く落とし微動だにしないその背中を見てそうではない事に気付く。それと同時に剣から手を離し、踵を返して駆け出した。
彼は、アーノルドは死ぬつもりだ。
どうやっても勝てないのを悟り、あそこでただ立っている事でできる限りの時間を稼ぐつもりなのだ。その間に逃げろと、逃げて仲間に知らせて、自分の死を無駄にするなと、彼はそう言っている。
ならば、一刻も早く逃げ出すのが自分の役割だ。彼の予想よりもずっと速く逃げて仲間の下へたどり着けば、もしかしたら予想外に彼の命まで助かるかもしれない。
視界を滲ませる涙を指で拭い去り、強い決心とともに足を踏み出す。
そして突然に胸を襲った熱さに気を取られ、踏み出した足は床を滑り転倒した。
「ひゅっぅ、」
おかしい。息が苦しい。熱いのは胸なのに、痛いのは倒れた顔なのに、動かないのは足なのに、どうにも息が苦しくてたまらない。
膝をついたまま、熱い胸に手を当てる。ぴちゃりと湿った音がして、ぬめりけのある液体が掌にこびりついた。目の前に持ってくると手が真っ赤に染まっている。どうやら、胸に穴が開いているらしい。
わけがわからなかった。あの男との距離はまだ遥か遠く、矢が飛んで来たわけでもなく突然に胸に小さな穴が開いた。痛みからして背中から胸に突き抜けたようだが、その物品すら見当たらずに僕はただ胸から掠れた音を漏らして戸惑うしかなかった。
「あ゛っ」
短い悲鳴が聞こえてくる。目の前が真っ暗になってきてよくわからないが、きっとアーノルドが死んだのだ。音の濁ってきた耳にかつかつとこちらに向かう足音が入ってくる。
目からぼろぼろと大粒の涙が零れた。
痛みのせいではない。恐怖のせいでもない。
ただ哀しくて悔しくて、情けなくてたまらない。
僕は戦うためにここにきたのに。
僕は逃げることすらできずに死ぬのだ。
この前線基地では、戦闘行動中でない勤務中の兵は大抵この談話室に集まっている。基地の中心部にあたるこの場所は、緊急時における連絡網の発信源や配備の見直しに適しているからだ。
「どうかしたかダズ」
「ん? いや、オッサンのやつ遅ぇと思ってさ」
無論それは階級とも無関係であり、目の前の若くしてこの前線指揮官に任命された希代の天才クレストも多くの時間をここで過ごしていた。
「大方フレッドが道にでも迷っているのだろう。あの辺りには寄り付かなかったからな。町の近くまで行って衝動的に帰りたくなるのを堪えきれなくなるとでも思っているんだろう」
「帰りたいなら帰りゃいいのに」
「そう言う訳にもいかないだろうさ。この町は彼の故郷だからな」
「……ふぅん」
自分で聞いておきながら気の無い返事を返すのはどうかと思ったが、実際孤児である俺がわかる感情でもないので正直に興味なさ気な声を返した。
「それで、あのオッサンに押し付けるってことはあのひ弱そうな坊主も見込みありって事なのか?」
「気になるか?」
「あぁ。なんたって歴代最年少で指揮官にまで抜擢された聡明なクレスト隊長様が、自分が育った古巣に直々に送り込もうってんだからな」
「それを言うなら君こそ我が国で唯一の素手での魔獣討伐を成功させた天才戦士だろう。あまり人の事を仰々しく扱うのはよしてくれよダズ副隊長殿」
あまり褒められすぎるのもいい気はしないのだろう、少しばかり疲れた顔でそう言って手元の書類をこちらに渡してきた。先程の坊主の事が書かれているらしいそれを適当に流し読みする。
フレッド=ニース、24歳。家族構成、両親と弟1人。実家は医者で幼い頃から両親の手伝いをし、医療の心得がある。学校には行っていないものの、自主的に勉学に励む勤勉さを持ち独学ながら豊富な知識を持つ。それと、追記で非常に合理的な考え方をするともある。
「……見たとこ、大人しく町に帰って医者でも学者でもやってた方が良さそうなんだが」
「私も最初は同意見だったよ。肉体的には特に優れた箇所は見当たらず、彼が戦場で生きていけるとは思えなかった。だから少しばかり、町を離れる前の町民たちに彼の事について尋ねてみた」
……相変わらず真面目な奴だ。そんなだから皆に天才だと持て囃されるのだとは恐らく気付いていない隊長殿は、そのまま言葉を続けていく。
「その時少しばかり気になる話を聞いたんだ。彼が9歳の時、ある妊婦を彼女の両親が看たらしい。母子共に命の危険があり、このままでは両方とも死ぬという状況だ。これに立ち会っていた彼は悩む両親に言ったらしい。『子供が無事な内に母親を殺して腹を割いて子供を取り上げよう』とな」
思わずあんぐりと口を開く。先程の気弱そうな男の、しかも幼い子供の時代に出した言葉とはとても思えない。
「彼の名誉のために言っておくが、彼は冷徹ではあっても冷酷な人間ではないよ。本人に尋ねてみたが今でも油断した隙にその時の事を夢に見ると言っていた。彼はただとても理に叶った考え方をしてそれを実行に移せる人間であるという事だ。そういう考え方のできる彼なれば、戦を肌で感じる内に優秀な指揮官になってくれるだろう。アーノルド殿に頼みたいのは、彼の精神が戦場に耐えていけるかどうかの値踏みさ。ここからは以前と違って、毎晩悪夢で魘される様ではやっていけないからな」
「……あぁ、なるほどね」
まだまだ納得いかない部分があったが、とりあえずはそういう事にしておく。一番納得していない部分は、おそらく聞いてもはぐらかすに決まっているから。
指揮官が欲しい、というのはつまり、今の指揮官に不満があるか、その代えを欲しているという事だ。こいつは自分の能力を低く見積もる男ではない。ならば、自分に何かあった時の替えを欲しているという事になる。そして、つい先日に入ったばかりの人間にまでそれを求めるという事は、それが近いうちに起こるのだと思っているのだろう。
「おい」
クレストが顔を上げる。俺は手元の書類を突っ返しながら、その目をじっと見て言う。
「死ぬなよ」
こちらの意図が伝わったのか伝わらなかったのか、クレストはふっと薄く笑みを零した。
その時、背筋にぞっと怖気が走り、勢い良く立ち上がった。何事かとこちらを見上げてくる周囲を見渡し、悪寒の源泉を探す。
『鼻が効く』……と評される感覚を身に着けたのは、以前魔獣を倒した時だ。防壁をよじ登って入り込んできた小鬼と戦い殺されかけた瞬間、危険に対する勘が異常に働くようになった。この感覚を得た事により、意識が朦朧としながらも小鬼のとどめの一撃を避けて逆に致命傷を与える事が出来た。
嫌な予感が更に強くなる。そしてその方角をようやく察知し、その先にいる、扉に背を預けて茶を飲んでいる兵士に向かって口を開く。
「そこのお前! 今すぐ扉から離れろ!」
突然声を掛けられた兵士が戸惑うよりも先に、扉越しに放たれた斬撃が壁面ごと兵士の首を刎ね飛ばした。呆然とする生首と同時にティーカップが床に落ちて割れる音を立て、次いで扉が残された体を巻き添えに蹴り倒される。
突然の凶事に談話室が静まり返る。必然的に、その闖入者が床板を軋ませる音だけが辺りに響いた。驚き、あるいは怯えている兵士たちの合間を悠然と通り抜けてそいつは俺達の前に立つ。
そいつは俺やクレストとそう年の変わらない、いやほんの少しばかり上という程度の若い男だった。自らの背丈の7割ほどもある長剣を担いでいるその男は、気だるそうな表情で懐を漁り、じゃらりと音を立てて鍵を取り出した。
「ちょっと聞きたいんだけどさ。正門ってどっち? 鍵は手に入れたんだけど道がよくわかんないんだよね」
そう宣言した。
余りにも堂々とした侵入者に、談話室内の空気が粟立っている。誰も彼もが、大なり小なり、何らかの感情に囚われて戸惑いを隠せずにいる。
そんな中で俺はというと、やはり多分に漏れず、煮え滾るような一つの感情に支配されそれを爆発させないよう必死に押さえつけていた。
「おい」
「ん?」
返答を諦めたそいつが懐に鍵を仕舞いながら、気の無い声を上げる。俺は指でそいつの担いでいる剣を指差し、声の震えはできるだけ抑えながら告げた。
「その剣、どうした」
侵入者の体躯にまるで見合わぬ長剣。本人が持ち込んだものとは考え難く、ここに入ってからどこかで得たと見るべきだろう。
これは最終確認だ。おそらくはそうだろうが、もしそうであったならどうしようもない。あの剣を俺は知っているから。
そして侵入者はあっさりと言った。
「でっかいオッサンたちを殺して奪った。これが一番役に立ちそうだったから」
床板を踏み砕く勢いで飛びかかる。担ぎ上げられた長剣の振り下ろし、それを左の分厚く重い手甲で横に弾きながら最低限の硬さだけを重視した軽い手甲を装備した右拳をそいつの鳩尾目掛けて振りぬく。
きん、と軽い音が響いた。打撃が命中した音ではない。男には一切の装備が無い。弾かれた剣の柄を引き戻して盾に使われた。
近接戦で不利に働く満足に振れない長物を、男は地面に倒れこみながら体を回す事で自らの間合いに持ち直した。上半身を逸らすと目線のすぐ先を分厚い鉄の塊が駆けていく。それが振りぬかれた後、間合いを取られぬ内にまたそいつに飛びかかる。
瞬間、腹部に凄まじい衝撃。どのような平衡感覚を持っているのか知らないが、そいつはすでに体制を整え、振りぬいた剣の柄頭を使って俺の腹部へ突きを放っていた。腹の中身が込み上げてくる感覚に、足が止まり、同時に背筋を悪寒が走る。頭上から迫る殺気が、俺の頭部へ放たれようとしている必殺の剣撃を雄弁に語りかけてきているのだ。
ひゅっ、と空気を斬る音、命を奪い去る音が響き、一瞬命を諦めたその時、甲高い金属音が響き、後頭部に鉄の塊がぶつかる感触を覚え、衝撃で感覚を取り戻した足で目一杯後ろに飛びのいた。
「っ……大、丈夫か!」
今さっき自分がいた場所を見ると、クレストが奴の放った刃を剣の腹で受け止めていた。頭部への衝撃はおそらく受け切れなかった衝撃で反対側が俺の頭に打ちつけられたのだろう。
二度ほど咳き込み、腹の痛みを無理矢理押さえつけてから口を開く。
「馬鹿野郎! 俺を助ける暇があったらそいつの首を取れ!」
軽口でも照れ隠しでもなく、本心からそう怒鳴りつけた。クレストは応えず、自分より一回り小さい体格のそいつに力で地面に縫い付けられている。側面に回り後頭部に蹴りを放つが、剣を盾に使い、更に体を浮かしてこちらの蹴りの衝撃を利用し間合いを取られる。
「う、おぉぉ!」
吹き飛んだそいつの丁度後ろにいた兵士が掛け声と共に剣を振り下ろす。静止する暇もなく放たれたそれを、振り返りもせず手の甲で握りを叩き剣筋をずらす。気負いすぎ床に突き刺さった剣を抜くよりも速く、そいつの剣先が素早く腹部を貫き、その兵は絶命した。
そいつは貫いた剣の柄を更に押し込み、柄に両手を添えて、横に降りぬいた。
「なっ……」
剣に刺さったままだった死体は振り回す力によって宙を舞い、俺に向かって投げつけられた。飛び散る血飛沫を護るため目元を腕で押さえながら屈んで避ける。腕で狭められた視界の端に見覚えの無い爪先が覗き、反射的に両手を頭上で十字に組み合わせた。金属同士がぶつかり合う鈍い音が響き、衝撃と圧力に押し負け鼻先が床に激突し血の臭いが口中に広がる。叩きつけられたのは金属板を仕込んだ靴底だったようだ。頭上で剣を握りなおす気配がする。
剣先が俺の背中を貫くより速くクレストの剣閃が背後から奴を襲う。奴は体をやや屈ませてそれを避けるが、その瞬間に俺は緩んだ拘束から抜け出し、全霊の力を込めて右拳を振り上げた。拳は確かに奴の体を捕らえ、その体を宙高くに吹き飛ばした。
だが気付く。違う、手応えが無い。奴は拳が当たると同時に自ら宙に飛び、自らの脚力と殴られる勢いを利用して空に逃れたのだ。
攻撃は決まらなかった。だが、何も問題は無い。宙に浮く奴の後ろに、剣を構えたクレストが立っている。
地に足がついていなければ避けることはできない。勝利を確信し、クレストの突きを見送る。
ざすっ、という音が響いた。剣が人体を突き抜ける音ではない。クレストと、同時に俺の顔が驚愕に染まる。
奴は、クレストの突きを避けていた。天井に剣を突き刺し、それをよじ登って突きの範囲から逃れたのだ。
天井板を踏み砕き、解放された剣を握って落ちてくる。目標は渾身の突きを放ち伸びきったクレストの右腕だ。避ける事はできない。確実に殺すために体を浮かせすぎた。クレストの顔が蒼白に染まる。
「あぁぁぁぁ!」
無我夢中でそいつに向かって突き出した右拳が剣の柄頭を捕らえ、人を殴る用である薄い手甲が歪んだ代わりに奴の手から剣を奪い去る。武器を失ったそいつをクレストの剣が狙おうとするが、体勢を戻すより先に蹴り飛ばされた。地面に降りたそいつに駆け寄ろうとするが、無手のはずのそいつに自分が無惨に殺される光景が鮮明に浮かび、本能的に身を引いた。
「無事か! 見えないような速さで斬られたりしてねぇだろうな!」
「……助ける暇があったら首を取れ、じゃなかったのか」
仕返しとばかりに言い返してくる。何も言い返さず引き攣った笑みを返した。
今ならわかる。こいつ相手にそれをやるのは不可能だ。隙を突こうと思う度に自分が殺される光景が瞼に焼きつく。やらないのではなく、できない。それだけの実力差があった。
場が膠着する。奴の獲物であった長剣は弾かれた際に兵士が拾い上げ、剣を腰に挿してはいるもののそれを抜いているわけではなく、ただ無防備に立っているだけだ。それでも誰も……この場で一番強い俺やクレストも含めた誰一人として、そいつに近付く事はできない。
「……全兵に告ぐ」
クレストが震える声を上げた。いつも余裕を保っていた隊長の変容に兵達に動揺が走る。
「剣を抜き、奴を取り囲め。ただし誰一人斬りかかるな。まずは取り囲むだけだ」
そう言うと、クレストは俺に目配せをしてきた。その瞬間に俺はクレストの意図を理解する。未だ動揺する兵達の前をゆっくりと横切り、奴を挟んでクレストの反対側に回り腰を落とした。そしてクレストの目を覗き頷き返すとクレストはそれを口にした。
「私達が奴を取り押さえる。その隙に私達ごと奴を突き刺せ」
先刻以上の同様が室内を走る。仲間ごと切り捨てろという非人道的な指示。しかも斬られるのは命令した当人とあっては仕方の無い事だろう。
「これは指揮官としての命令だ! 浮つくな! 冷静に考えて行動しろ! こいつを生かせば、この基地は落ちるぞ!」
ざわめく室内に力強い一喝が響き渡り、喧騒が全て納まる。同時に今現在がそれほどの事態であり、目の前のたった一人の侵入者が、基地内……いや、国内最強の人間二人を犠牲にしても尚余りある獲物であるという事が伝わる。一人、また一人と剣を抜き、円を描く。
勝手に命を捨石にされた事に対する文句はない。あいつがあぁ言うなら必要なのだろうし、今までのやり取りでそれが安い買い物であるのも理解できる。
覚悟を決め、クレストと呼吸を合わせ摺り足で少しずつ近付いていく。
あと一歩で剣が届く間合いに入り、奴が初めて動きを見せた。腰に下げていた質素な剣の柄に手を当て、抜き放つ。
瞬間、クレストは縦に構えた剣の腹に自らの肩を押し当て重心を落とし一瞬後の剣撃を耐える体勢を取り、俺は全身を駆け巡る灼け付くような凍気に悲鳴を上げた。
あれはやばい。受けてはならない。
研ぎ澄まされた六感により感じ取った脅威を相棒に伝える暇はなく、抜き放たれた剣は剣先も見せないほどの迅さでクレストの構えた剣とぶつかり、きん、という薄く小さく軽い音を立てて振りぬかれた。
ごとん、と音を立ててクレストの刃が地面に落ちる。それに続いて体がゆっくりと前のめりに倒れ、それに一拍遅れて切断された首が後ろに倒れた。
怒り、悲しみ、絶望、多用な感情がごちゃ混ぜになり、獣のように意味を成さない雄叫びを上げながら殴りかかる。奴はクレストのように剣に肩を預けて護りの体勢を取る。問題はない。それを見越した上での、装備破壊用の分厚い鉄板を仕込んだ左拳だ。クレストを剣ごと両断したその剣は、予想通り鋭さに特化した細く薄い剣だ。殴り壊すくらいはわけがない。
拳が剣の真芯を捕らえる。それと同時に、奴はあろう事か床板を蹴り剣の腹をより強く俺の拳に押し付けた。倍化した衝撃はすべて互いの獲物に集中し、そして当然のように俺の左拳が粉々になる音が響き渡った。
絶望。最後の手札まで通用しなかった。全てが水泡に帰し、自分が今立っているのかどうかすら危うく感じる。
奴が肩から剣を離す。自らの命と、国の未来を諦めたその瞬間に、奴はその剣先を床に埋めた。そして何も持たない左手を開いたままこちらに向ける。
意味のわからないその挙動にしばし呆然とし、そしてそれを理解すると同時に、煮え滾っていた物が再び噴出した。
こいつは、俺を舐めて加減してくれているのだ。
「るぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!!」
仇だとか、何のためだとか、細かい理由を全て排除した戦士としての純然たる怒り。放たれた右拳は今までの生涯で最高の迅さを誇り、己の目を持ってしても定かではない速度で駆け抜けた。
その拳を、片目をつぶったまま首を微かに傾け避けたそいつが、首と肩で伸びきった腕を軽く挟みほんの少し体を捻ったと同時に右腕が真逆の方向に折れた。
痛みに呻くより先に、前に突き出した左足を軽く払われる。崩れ落ちそうになりたたらを踏んだ所を、振りぬいた足を戻す勢いのままに鉄を仕込んだ靴底が膝を外から踏み抜き圧し折りつつ、地面に縫いつけた。
崩れ落ち尻を突くとほぼ同時に腹部に踵を捻じ込まれ、胃液が逆流した。
嘔吐し突き出した顎を爪先が打ち抜く。頭が揺れて世界が歪んだ。
目も、耳も、鼻も、痛みすら曖昧になっていく中で見た最後の光景は、飛びあがったそいつが宙で何度も回転している姿だった。
もう何が何だかわからなかった。みんな死んで、こんなこっ酷くやられて。
全てに現実感が感じられず、どこまでが現実でどこまでが夢なのか。それを思い、でも答えを出せずにいるまま、俺は自分の頭蓋の砕ける音を聞いた。
◆
初・バトルシーン。
2話冒頭? あれは狩りですから……。
次もちょっとバトルが入るのでまた時間がかかるかもわかりません。
けっしてロリーゼたんをペロペロしたいから時間がかかっているわけではありません。けっして。