第17話 ジョエル神父(エドガー)の日曜日ー日曜ミサとエリックの訪問
日曜日の朝。
教会の鐘が澄んだ音を響かせると、町の人々が三々五々、礼拝堂へと足を運んでいく。
小さな子どもを抱く若い夫婦。
杖をついた老信徒。
学生らしき青年たち。
――それぞれの顔に、日常の疲れと小さな希望が刻まれていた。
祭壇の奥では、黒いカロットを纏ったジョエル神父――エドガー・マッツァンティが、静かに祈りを捧げていた。
金髪を後ろで控えめに束ね、碧い瞳を閉じるその姿は、大学の研究室で見せる砕けた笑顔や軽口とはまるで違う。
ここに立つ彼は、一人の司祭であり、信徒の魂を導く者だった。
――鐘の音が三度響く。
信徒席がほぼ埋まったのを見届け、彼は祭壇前へと歩み出る。
「主に在る兄弟姉妹の皆さん。本日も共に祈りを捧げられることに感謝いたします」
その声は深く、堂内に澄み渡った。
柔らかくも確かな響きに、子どもが自然と静まり、老人たちが目を閉じる。
朗読、詩篇、説教――。
エドガーの説教は、いつも身近な例えを織り交ぜていた。
この日は、「苦しみを背負いながらも支え合うことの意味」について語る。
「私たちは、ときに重荷を背負わされます。
病や、孤独や、失敗や……避けられない試練。
ですが――神は、あなたが一人で苦しむことを望まれてはいません。
あなたの隣にいる誰かが、その一部を共に背負うために、ここに集められているのです」
視線を巡らせると、最前列で老婆が涙をぬぐっていた。
後方では、子どもを抱く母親が小さくうなずく。
エドガーはひと呼吸置き、穏やかに言葉を結んだ。
「互いを支えることは、信仰そのものです。
祈りは形だけではなく、行いとして結ばれるもの。
皆さんの小さな優しさ、日々の忍耐が、神の大きな御業に繋がっていくのです。」
説教を終えると、彼は祭壇の聖杯を掲げ、典礼を進めていく。
荘厳な旋律が聖歌隊から流れ出し、堂内全体を満たした。
その歌声の中、エドガーの横顔は厳かで、しかしどこか柔らかな微笑を帯びていた。
――ミサの終わり。
信徒たちが十字を切り、ゆっくりと立ち上がる。
教会の外に出た瞬間から、エドガーは再び「人々の隣に立つ神父」へと姿を変えた。
「神父さま、お説教、胸に沁みました」
「お身体は大丈夫ですか? 無理されてませんか?」
年配の婦人に声をかけられ、彼は優しく微笑んで答える。
「お気遣いありがとうございます。むしろ皆さんの祈りに励まされているのは、私の方ですよ」
庭先では、小さな子どもたちが走り回っていた。
そのうちのひとりが転んで泣き出すと、エドガーはすぐに駆け寄り、手を差し伸べた。
「大丈夫、大丈夫。立てるかな?」
子どもが頷くと、泥のついた手を払ってあげ、背中を軽く叩く。
「さあ、もう一度走れる。強い子だからね」
それを見ていた母親が恐縮して頭を下げた。
「ごめんなさい、神父さま。いつもご迷惑を……」
「いいえ、迷惑なんてとんでもない。子どもの笑い声こそ、この教会の宝です」
朝の光が差し込み、彼の声がやわらかく広がった。
やがて信徒の一人が、重い表情で彼に近づく。
「……神父さま、実は妻の病が悪化して。医者は長くないかもしれないと」
その言葉に、エドガーの表情が静かに曇る。
彼は相手の肩に手を置き、しばし沈黙した後、深く頷いた。
「あなたの苦しみを、私も祈りで共に背負います。どうか、一人で抱え込まないでください」
「……ありがとうございます」
「今晩、病院にお伺いしてよろしいですか? 奥様と一緒に祈らせてください」
信徒の目に、涙がにじんだ。
午前十一時、ほとんどの信徒が帰ったころ。
教会の扉が開き、エリックが入ってきた。
「エドガー……じゃなくて、ジョエル神父様」
エドガーが振り返り、にっこりと笑う。
一瞬、祭壇の静けさがほどけた。
「おう、エリック。ミサは見てなかったのか?」
「いや、ちょうど終わるくらいに着いたんだ。邪魔にならないように外で待ってた」
「そうか。じゃあ、奥に行こうか」
二人は司祭館の小さな応接室に入った。
「で、どうした? 何か相談か?」
「いや、相談っていうか……」
エリックが少し照れくさそうに笑った。
「来月、リサとキャンプに行くんだ」
「お、ついにか」
エドガーが意味深に笑う。
「ロッキーの方に、二泊三日で」
「いいじゃないか。テントとか、ちゃんと準備したのか?」
「うん。先週、道具も買った」
「へえ。お前、テント張れるのか?」
「……多分」
エドガーが堪えきれずに吹き出した。
「多分って。お前、まさかテント張ったことないんじゃないだろうな」
「一応、説明書は読んだよ!」
「説明書? お前らしいな」
「まあ、でも大丈夫だよ。リサも一緒だし」
「リサもテント張れないだろ」
「……確かに」
二人で笑い合う。
やがて笑いが落ち着くと、エドガーが真面目な顔になった。
「まあ、冗談はともかく。気をつけて行けよ」
「うん」
「山は天気が変わりやすいからな。防寒具もちゃんと持っていけ」
「分かってる」
「あと……」
エドガーが少し言いにくそうに続けた。
「お前ら、もう付き合ってどれくらいだ?」
「二ヶ月くらいかな」
「そうか」
エドガーが真剣な目でエリックを見た。
「リサを大切にしろよ」
「もちろん」
「あの子は、本当に純粋で優しい子だからな。傷つけるようなことはするなよ」
「しないよ。絶対に」
エドガーが満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、楽しんでこい」
「ありがとう」
「あ、でも」
「ん?」
「テント張れなくても、俺に連絡するなよ」
エドガーはニヤリと笑みを浮かべた。
「しないよ!」
エリックは、苦笑いしながら否定する。
立ち上がりかけたエリックが、少し恥ずかしそうに言った。
「なあ、エドガー」
「ん?」
「今日のミサ、外から少し見てたんだ」
「君って、すごいな」
「何が?」
「司祭として、ちゃんとしてる」
エリックが真剣な顔で続ける。
「大学の時から知ってるけど、エドガーが本当にやりたかったことって、これなんだろうな」
エドガーが少し照れくさそうに笑った。
「まあな。科学も好きだけど、やっぱり司祭が本業だからな」
「尊敬するよ」
「おいおい、照れるじゃないか」
「俺も、お前とリサみたいなカップル、応援してるからな」
「ありがとう」
「幸せになれよ」
「……うん」
教会の前で、二人は別れた。
「じゃあ、また来週、ラボで」
「おう。気をつけてな」
エドガーが手を振る。
エリックが歩き出してから、ふと振り返った。
「エドガー!」
「ん?」
「本当にありがとう。君がいてくれて」
エドガーが笑顔で答えた。
「当たり前だろ。俺たち、親友だからな」
「うん」
「楽しんでこいよ、キャンプ」
「絶対に」
エリックが去っていく背を見送りながら、エドガーは静かに息をついた。
「……ほんとに、大人になったな」
思わず小さく笑う。
研究室で見せる彼とは違う、司祭としての落ち着いた微笑だった。
(リサは良い子だ。あいつらなら大丈夫だろう。
でも、念のため――祈っておくか)
エドガーは祭壇の前に戻り、静かに膝をついた。
「主よ、わたしの友人エリックとリサをお守りください。
二人が互いに支え合い、あなたの愛のもとで笑い合えますように。
そして――その日々の中で、小さな奇跡を見つけられますように。」
光の射す祭壇に、ステンドグラス越しの色が滲んでいた。
赤、青、緑、そして金。
その光がゆっくりと神父の肩を包み、やがて彼の手の中の十字架を淡く照らす。
「……ありがとう、主よ」
その呟きは祈りの言葉であり、同時に、友への想いでもあった。
エピローグ:司祭の日曜日
夕刻の司祭館。
机の上には開かれた日記帳と、一杯の冷めたコーヒーが置かれていた。
ペンを握るエドガーの指先は、わずかにインクで汚れている。
『今日も、無事にミサを終えることができた。
人々と共に祈り、笑い、涙を見た。
それだけで、十分に幸せだと思う。
エリックが来た。
リサとキャンプに行くらしい。
あいつら、本当にいい顔をしてた。
願わくば、その笑顔が続きますように。
私は結婚することはないけれど、
人の幸せを見守ることができる。
それもまた、神が与えたもうた恵みだ。』
彼はペンを置き、そっと手を組む。
「主よ、今日という一日に感謝します。
明日もまた――誰かの隣で祈ることができますように。」
窓の外では、夕陽が教会の十字架を黄金色に染めていた。
鐘の音がゆっくりと響き、静かな町を包んでいく。
その音を聞きながら、ジョエル神父――エドガー・マッツァンティは微笑んだ。
その微笑みは、神に仕える者の穏やかさであり、
友を想うひとりの人間の、温かい祈りの証でもあった。
⸻




