03. 眠り姫が目覚めるまで
イヴリンの部屋の中。
ベッドで眠り続ける少女を見下ろしながら、ロイスは人知れず溜息を落とした。
まさか彼女が手紙を受け取るなんて。
注意したつもりだったが、外で本を読むなんて思わなかったのだ。
それによって、イヴリンの手に手紙が渡ってしまった。
次からはもっと気を付けなければいけない。
部屋から持ってきた便箋と万年筆を机に置く。
イヴリンに合わせて用意した机は、ロイスに少しばかり窮屈だったが、手紙を書くだけならばそう時間も必要ない。
小さな椅子に腰かけて机に向かい、便箋に文字を綴っていく。
書き終えて顔を上げれば、窓の外の景色は雨に変わっていた。
小雨程度だが薄暗く、息苦しい部屋の中は、ロイスの気分をより沈鬱にさせていく。
イヴリンを残してあまり外出したくはないが、手紙は早急に出さなければならない。
それに翻訳を終えた原稿の提出もそろそろ期日間近だ。早く届けば気を良くして、新しい仕事をくれるだろう。
丁寧に折りたたんだ便箋を封筒に入れ、全てを持ってイヴリンの部屋から出る。
階段を下りて、今度は仕事で使っている書斎に入り、郵便をよく利用することから、机に出しっぱなしにしてある手紙に封をする為の封蝋を手に取った。
火をつけて封筒に蝋を落として、家紋の無いシグネットリングで刻印する。
原稿を入れた大きな封筒には紐をかけてから、イニシャルで作られたシーリングスタンプで封をした。
そうしてから眼鏡を書斎の机に置き、蝋が冷めるのを待っている間に、今度は寝室へと上着を取りに行く。
春の花々が咲き始めて陽気になろうとも、雨が降れば冷え込む。
雨で封筒が濡れないよう、忘れず傘も差さなければと玄関を確認する。
部屋から部屋へと移動する間に、全ての窓の施錠も忘れない。
全ての身支度を終え、もう一度イヴリンが部屋で眠り続けているのを確認してから外に出る。
霧雨と変わった天気のせいで、空気は冷ややかながらも、ムッとした湿気を孕んでいた。
青草の匂いが立ち昇る。
また数日したら雑草を毟った方がいいかもしれない。
そう思いながら近くの郵便局を目指して、ロイスは雨の中を歩き出した。
* * *
郵便局の中は雨の匂いを帯びながら、テキパキと働く局員と客達の活気に満ちていた。
混雑するほどではない中で、人々の列にロイスも並ぶ。
待っている間も前後の者同士で話に花が咲く。
急な雨への愚痴や、産業の発展を喜ぶ声と、止まらない物価高に嘆く声。
急ぎの用事らしい苛々した態度の紳士や、気にすることなく局員に世間話をする老婦人。
多種多様な人々を尻目に、上着の内側へと隠していた荷物を確認する。
手紙は二通、荷物は一つ。
このまま本降りになることさえ無ければ、手紙は遅くとも明後日には届くだろう。
そこからの返信が手紙になるのか、直接の来訪になるのかはわからない。
列の先頭で手紙を預け、お金を支払ったらしい老人が、列の横をすれ違うように通り抜けていく。
それは右隣に住むアンダーソンだった。
油をひいたオイルスキンを着込んだ彼は、どうやら傘を持たずに来たようで、フードと肩の辺りが濡れている。
最近では防水加工を施した傘を持つのが主流だが、アンダーソンは古き良き物を愛するからか、はたまた老人特有の頑固さゆえか、傘をさすのを見たことがなかった。
通りすがりに目が合い、鋭い瞳のままに会釈だけして通り過ぎて行く。
そのまま目だけで見送った老人の足取りは、心なしか早くなったような気がした。
アンダーソンが視界から消えてしまってから、再び前を向く。
そうしてあちこちで飛び交う会話をすり抜ければ、程なくして受付まで辿り着いた。
顔見知りの局員が陽気に挨拶するのに返し、持参した荷物を台に置く。
「はいはい、手紙が二通で、荷物は一つですね」
素早く秤に荷物を載せること暫し、目盛りに向けられていた視線が外れたかと思えば、さらさらと伝票に金額が書き付けられる。
手元に差し出された伝票にある金額が、相場よりも価格が高いのはいつものことだ。
書かれた金額の硬貨と、それとは別に気持ちばかりの一枚を置く。
素早く消えた一枚と、それから愛想の良い受領したことを伝える声。
これで手紙の配達が遅れるということはないだろう。
霧雨はまだ終わらない。
今日は書店に寄らず、市場で春の野菜と卵、それからミルクを少しばかり買って帰ろう。
イヴリンが目を覚ますことを考えたら、食材はしっかり買っておいた方がいい。
そうと決まれば用事を済ませ、さっさと帰るだけだ。
「あら、ウィスクリフさん」
けれど、郵便局を出ようとしたロイスに声をかけたのは、隣人であるメアリー・グッドウィンだった。
どうも、とロイスが会釈だけ返せば、メアリーは周囲を見渡してから首を傾げる。
「珍しいわね。イヴリンはお留守番なの?」
「ええ、今日は雨ですし、彼女が好きそうな店には寄る予定が無いので」
そう、と返したメアリーが、感情の境界線がぼやけた笑みを浮かべた。
「前々から思っていたのだけど、イヴリンとウィスクリフさんって似ていないのね?」
「遠縁ですから」
そつなく答えたロイスの言葉に、質問を投げかけたはずのメアリーは至極どうでも良さそうに見える。
「だとしたら、もう赤の他人と言えるんじゃないかしら?」
目の前に立つ女はいつも同じ態度だ。
端の上がった唇は笑顔を作っているものの、本当に笑っているのかわからない。
愛想笑いではない。メアリーが浮かべているのは、笑顔という仮面を被っているだけだ。
笑うつもりなどなく、ただ形を作っているだけのもの。
「ウィスクリフさんは引き籠ってばかりだから、ご近所の人が何て噂をしているかなんて知らないでしょ?
少女趣味が高じたウィスクリフさんによって、貧民街から攫われたとか。
女手が無いから家政婦代わりに、金で買われて家族から引き離されたとか、結構言われたい放題」
「そんなことを言われたことはないですね」
ロイスが返せば、わかっていないと言わんばかりに首を横に振る。
「そんなこと、本人に言うわけないじゃない。
でも誤解されたままだと、イヴリンが可哀想よ」
カツ、と踵の音を鳴らして、メアリーが一歩近づいてくる。
「イヴリンにはもっと年の合った友達が必要だし、ボーイフレンドがいてもいいと思うの。
ウィスクリフさんが過保護だから様子を見ていたけど、よかったら知り合いの家の子を紹介するわよ」
言ってから顎に指を当て、思案しているような素振りを見せる。
それからメアリーは、今度こそはっきりした感情をもって、笑顔になった。
「逆にウィスクリフさんが恋人を作る、とか」
伸ばされた手を振り払った。
払われた手を見つめ、メアリーが目を細める。
唇が下がる。
笑みが崩れる。
けれど、そこに浮かぶ感情は怒りでも嫌悪でもなく、喜びだった。
「結構だ」
振り払ったロイスの手が傘を開く。
では、ともう一度会釈して歩き出した。
* * *
目に入った天井は、最近見慣れ始めたものだった。
ぱちりと瞬きを一度。
イヴリンがそろそろと体を横に向けた。
軽く周囲を見渡せば、イヴリンの部屋だ。
目に入ったチェストの上には、人形や写真立てといった、イヴリンの宝物達が並んでいた。
幼い頃から一緒にいる猫の人形と目が合い、なんとはなしに安堵する。
一体どのくらい眠っていたのだろうか。
一日、それとも二日なのか、それとももっと長く?
喉が渇いてお腹がすいている。
食べていないから当たり前だと思い、それから寝返りを打ち、何かに引っ掛かって動きを止める。
喉に出かかった何かがわからず、焦れる思いから勢いよく体を起こした。
ベッドから離れてチェストに近寄り、小さな裁縫箱を手に取る。
これはイヴリンが5年間も眠る前に、お祝いとして欲しがっていた裁縫箱だ。
宝石箱を模したそれは、よく持ち運ぶことを考慮してか木製で、白地に水色のストライプの布張りがされ、同じく木で彫った花と大きなリボン、レースによって飾り付けられている。
真ん中には綺麗にカットされた硝子が嵌め込まれていた。
白いレースの端が褪せてリボンの裾が解れているのは、約束通りに買ってくれたまま、保管されていたせいかもしれない。
裁縫箱の縁を撫で、何とはなしに窓から外を見れば、家の外にいる人物と目が合った気がして目を凝らす。
隣人のアンダーソンだ。
メアリーとは反対隣に住む彼は、無口で挨拶ぐらいしか交わしたことがない老人で、いつだって誰とも目を合わさずに家に引き籠って暮らしている。
それなのに、今日に限って彼は真っ直ぐに家を、イヴリンを見ていた。
霧雨の中だから、本当に目が合っているのかはわからない。
けれどアンダーソンは、確かにイヴリンの部屋を見ている。
急に怖くなって身を翻し、早足で部屋を出た。
階段を下りて、廊下でロイスの名前を呼んでも返事はない。
もしかしたら出かけているのかもしれないと思い、その考えに不安が増して身震いする。
戸締りをしないと。
出かける時、ロイスは神経質なまでに戸締りを確認するのが習慣だ。
大丈夫だと言い聞かせながら、小さな家を巡る。
玄関の扉、ダイニングの窓、裏口。
全ての施錠を確認して一息、一階に残された書斎の扉を見つめて立ち尽くした。
ロイスの仕事部屋となっている書斎は、普段から鍵をかけられていて、イヴリンは入ることを許されていない。
けれど、もし書斎からアンダーソンが入ってきたら。
今までそんなことが無かったのだから、不安になることなんて何一つなかったのに、どうして今日に限って気になるのか。
ロイスがイヴリンを置いて、一人で出かけてしまったと思ったからなのかもしれない。
駄目で元々だと意を決し、扉のノブに手をかけた。
容易く回るノブに、イヴリンの目が丸くなる。
書斎は鍵がかかっていなかった。
そっと押し開いた扉の向こう側、不安と緊張で足を踏み入れた書斎はどことなく雑多としていた。
整理されているのに煩雑な印象を受けるのは、机の上に手紙や書きつけたメモ紙、翻訳に使って書き損じた用紙が積まれているからか。
所在無げに部屋の中を見回すも数秒、本来の目的を思い出して窓を確認しようと走り寄る。
さすが戸締りだけは忘れなかったようだったが、書斎の鍵をかけ忘れるなんてロイスらしくない。
何か急ぎの用事でもあったのだろうか。
そして本当に外出して不在だと知る。
緊張が少し解けて息を吐く。
机を何気なく眺め、そこに見覚えのある封筒を見つけて肩が跳ねた。
あの時、配達人から受け取った封筒が置かれていた。
それも一通ではなく、三通だ。
イヴリンが手で端を千切ったものが一通と、おそらく鋏で切ったらしい綺麗に裁断された封筒が二通。
どれもイヴリン宛になっている。
配達人の言っていたことは本当だったのだ。
そっと手を伸ばそうとし、そして封筒を手にしてことで意識を失ったのを思い出して、無意識に息を止める。
封筒を受け取って、封を開けて、それから。
見た限りで花びらはないようだった。
あれほど強烈なまでに香っていたはずの、褪せた花びら。
香りから薔薇だったと思う。
今は残り香すら、すっかり消えてなくなっている。
もしかしたら他の封筒にも花弁が入っていたのだろうかと思い、躊躇いがちに封筒へと手を伸ばす。
触れようとして動きを止め、息を大きく吐いて、それから吸って。
そうやって、封筒に触れようとした瞬間、
「イヴリン、何をしている」
唐突な声に慌てて振り返れば、いつになく厳しい顔のロイスが立っていた。
上着の裾が濡れている。
ちょうど帰ってきたらしい。
水滴を払うことをせずに大股で部屋に入ると、真っ直ぐにイヴリンと机に近づいて、指先に触れる後僅かの距離であった封筒を奪うように手にする。
見下ろす瞳は暗いまま、どこか怒りを含んでいるように見えた。
「ロイスさんが持っている手紙、私宛ですよね。
どうして私宛の手紙が届いているのを内緒にするんですか?」
「ここに手紙を送っていいのは君のお父さんだけだと約束してある。
それ以外については、場合によっては心無いものがあるかもしれないからと、私が確認して君のご両親にまとめて送る手筈になっているんだ」
イヴリンの疑問に考える様子も無く、すぐさま答えが返ってきた。
それは至極当然のようにも思えたし、どこかおかしいようにも思える。
何がおかしいかがイヴリンにわからなかったけれど。
「君のお父さんは、大変心配されている。
五年も眠り続けたんだ。そうなるのも無理はない」
でも、とイヴリンは声を上げ、その後を続けられなくて床を見る。
言葉にならない疑問や不安をどう説明すればいいのかわからないのだ。
「私、この手紙を受け取っただけで気を失って……。
何かわからないけど、すごく心配で」
「君が心配に思うのはもっともだ。
ただ、こうして手紙が届くだけでショックを受ける程、君の心は安定していない」
そう言ってから、イヴリンの言葉に何か気づいたように言葉を止めた。
「待って。君は倒れた時のことを覚えているのか?」
ロイスが困惑した表情へと変わる。
「はい、ちゃんと覚えていますけど」
そんなこと当たり前なのに。
彼の言葉の意図がわからずに首を傾げて見せれば、探るような瞳でイヴリンを見た後に小さく息を吐いた。
その姿に身を縮めるが、これ以上の追及はないらしく、書斎から出るようにを背を押される。
「君は一日眠り続けていた。
今日はゆっくり休んだほうがいい」
声は怒りから困惑、労りへと変わりつつ、でも結局はイヴリンをいいように言いくるめているだけのような気もする。
「今日は食べやすい物を作ろう。
とは言っても、そう大した料理が作れるわけではないけど」
「……ミルク粥じゃないものがいいです」
イヴリンの言葉に、ロイスが苦笑する。
「安心して。粥は焦がすから得意ではないんだ。
別のものを作ろう」
それは全然安心できない。
火加減は弱めにと助言をしようとして、目の前で扉を閉められた。
誤字が増えつつある中、ご報告ありがとうございます!




