96話
雨が、降り続いていた。
車のワイパーが水滴を弾き飛ばす音だけが、密室となった車内に響いている。
俺は後部座席に深く身を沈め、スモークガラス越しに流れる灰色の景色をぼんやりと眺めていた。
「……到着まで、あと五分ほどです」
運転席の加賀が、ルームミラー越しに静かに告げる。
「ああ」
短く返し、俺は手元にある分厚いファイルを再び開いた。
伊集院家の当主として、俺がこの時代で成すべきことは山ほどある。
組織の拡大、政財界への根回し、そして死神を殺すための地下シェルター(密室)の建設。
だが、それらと同等、あるいはそれ以上に重要な「タスク」が一つ残されていた。
『桜』の確保だ。
彼女をこの世界に生み出し、伊集院家の令嬢として君臨させなければ、俺が辿ってきた因果のレールが崩壊する。
澪の言葉によれば、俺は結婚という不確定な手段を採らず、ある施設から彼女を「迎え入れる」ことになっていたらしい。
だから俺は、ここ数ヶ月、裏のルートを使って全国の児童養護施設からデータを集めさせていた。
優秀な遺伝子、高い知能指数。書類上の数字だけを見れば、条件に合う孤児はいくらでもいる。
だが、俺が求めているのは、ただの優秀な駒ではない。
車がゆっくりと減速し、錆びついた鉄門の前で停まった。
地方の山間部にひっそりと建つ、古びた養護施設。
コンクリートの外壁は雨水を吸って黒ずみ、ツタが這い回っている。
加賀が素早く車を降り、俺のドアを開けて黒いコウモリ傘を差し掛けた。
冷たい雨の匂いが、鼻腔を突く。
革靴で水たまりを踏みしめながら、俺は無言で建物のエントランスへと向かった。
「い、伊集院様! お待ちしておりました!」
エントランスでは、薄毛で神経質そうな施設長が、揉み手をして出迎えてきた。
その目は、俺という人間にではなく、俺の背後にある「莫大な寄付金」に向けられているのが見え透いていた。
俺は愛想笑い一つ浮かべず、ただ冷徹に告げる。
「……時間は有限だ。さっそく見せてもらおうか」
案内されたのは、薄暗い体育館のようなホールだった。
そこには、事前に加賀がリストアップした十数人の子供たちが、一列に並ばされていた。
年齢は皆、五歳から七歳程度。
どの子も、俺という「絶対的な権力者」を前にして、緊張と、そして隠しきれない「欲」を瞳に浮かべている。
「こちらが、当施設でも特に優秀な成績を収めている子供たちでして……」
施設長が誇らしげに説明を始めるが、俺の耳にはほとんど届いていなかった。
俺はゆっくりと、子供たちの前を歩きながら、一人一人の顔を覗き込んでいく。
「買われたい」という顔。
「いい暮らしがしたい」という顔。
「大人に気に入られよう」と、必死に作られた愛想笑い。
彼らを責めるつもりはない。
それが、この掃き溜めで生き残るための生存本能なのだから。
だが、その瞳の奥に宿る打算と媚びは、俺を酷く退屈させた。
すでに「色」がついてしまっている。
社会の底辺で生きるための、薄汚れた知恵という色が。
俺が求めているのは、俺の過去をなぞるような小賢しい孤児ではない。
列の最後まで歩き終え、俺は小さく息を吐いた。
(……今日もハズレか)
「……加賀。戻るぞ」
俺が踵を返した瞬間、施設長が慌ててすがりついてきた。
「お、お待ちください! あの子たちの中に、お気に召す子はおりませんでしたか!? どの子も聞き分けが良く、伊集院様のご期待に添えるはずです! もしよろしければ、もう少し他の子も……!」
「不要だ」
冷たく言い捨て、ホールを出ようとした。
その時だった。
――オギャア、オギャア。
建物の奥、冷たい廊下の突き当たりから、甲高い泣き声が響いてきた。
それは、媚びも打算もない、ただ純粋に「生きよう」とする本能だけの声だった。
空腹か、寒さか。理由はわからないが、自らの不快を世界に訴えかける、原初的な叫び。
俺は歩みを止め、泣き声のする方へと視線を向けた。
「……あの声は?」
俺の問いに、施設長はあからさまに顔をしかめ、慌てて取り繕うように手を振った。
「あ、ああ……お気になさらないでください。あれは、つい先日、施設の前に捨てられていた赤ん坊でして。身元もわからず、名前もまだありません。夜泣きが酷くて、手を焼いているところでして……」
施設長の言葉に、俺は微かに眉を動かした。
捨て子。
身元不明。名前もない。
妙な違和感を覚える。
「……案内しろ」
「え? しかし、伊集院様にお見せするような……まだ言葉も通じない赤ん坊でして……」
「案内しろと言っている」
加賀の低く、刃物のような声が施設長の言葉を切り裂いた。
施設長が慌てて廊下の奥へと小走りに歩き出した。
案内されたのは、ホール裏手の薄暗い一室だった。
ベビーベッドがいくつか並ぶ中、その一つで、小さな命が必死に声を張り上げて泣いていた。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、小さな手足をバタバタと動かしている。
俺はベビーベッドの前に立ち、その赤ん坊を見下ろした。
もちろん、未来の彼女の面影など、この小さな顔からは読み取れない。
だが、この泣き声。
誰の顔色を伺うこともなく、ただ自分がここにいると主張する、圧倒的な生命力。
この赤ん坊には、まだ何もない。
俺に対する恐怖も、媚びも、打算も。
(……俺が、育てるのか)
未来で、俺の背中にしがみつき、「絶対に見つけ出す」と泣き叫んだあの少女。
その約束の始点が、この名もなき赤ん坊なのだとしたら。
因果の輪が、ここでカチリと音を立てて噛み合った気がした。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
俺の指先が頬に触れた瞬間、赤ん坊の泣き声がピタリと止んだ。
涙で潤んだ黒い瞳が、俺の顔をじっと見つめ返す。
まだ焦点も定まっていないはずのその瞳に、俺は不思議な引力を感じた。
そして、赤ん坊の小さな手が伸び、俺の人差し指をぎゅっと握りしめた。
温かい。
驚くほど小さく、弱い力。
だが、その温もりは、あの夜、俺の背中に焼き付いた彼女の熱と、確かに同じ温度だった。
俺は、冷徹な「伊集院アキラ」の仮面の下で、ひっそりと奥歯を噛み締めた。
「……この子をもらおう」
俺が静かに告げると、施設長は目を丸くして絶句した。
「え、ええっ!? し、しかし伊集院様、その子はまだ何者になるかもわからない、どこの馬の骨とも知れぬ捨て子で……! 将来、優秀に育つ保証などどこにも……」
「保証など要らん」
俺は、赤ん坊の小さな手を握り返した。
「加賀、手続きをしろ。金はいくらでも積んでいい。今日の内に、俺の戸籍に入れる」
「……御意」
加賀は深く一礼し、施設長を促して足早に部屋を出ていった。
薄暗い部屋に、俺と赤ん坊だけが残される。
俺は、慎重に、その小さな身体を抱き上げた。
腕の中にすっぽりと収まる、羽のような軽さ。
だが、俺がこれから背負う「未来」の重さが、そこにはあった。
赤ん坊は、俺の腕の中で安心したように目を閉じ、小さな寝息を立て始めた。
「……待たせたな」
誰に聞かせるでもなく、俺は小さく呟いた。
この子が未来で、俺の娘となる。
死神を殺すための、永く、血塗られた螺旋。
そのピースが、今、俺の腕の中にいる。
俺は赤ん坊を抱いたまま、エントランスを抜け、雨の降る外へと歩き出した。
冷たい雨が、俺たちの間をすり抜けていく。
だが、加賀が差し掛ける傘の下、腕の中の体温だけは、確かに俺を現世に繋ぎ止めていた。
「今日から、お前は……桜だ」
俺の言葉に、赤ん坊は応えるように小さく身じろぎをした。
その温もりを確かめるように、俺は腕に少しだけ力を込める。
(これでもう、迷うことはない)
俺は車に乗り込み、桜を抱いたまま後部座席に深く身を沈めた。
濡れた世界を後にして、伊集院アキラとしての本当の戦いが、今、静かに動き始めた。




