95話
月日は、砂時計の砂が落ちるように、静かに、しかし確実に降り積もっていった。
東京の街並みは目まぐるしく変わる。
地上げ屋が古い木造アパートを壊し、その跡地に無機質なコンクリートのビルが次々と生えていく。
バブルという名の狂乱。
金が紙切れのように舞い、人々は欲望という名の麻薬に酔いしれていた。
その狂騒の中心地、港区の一等地にそびえ立つ高層ビル。
その最上階にある執務室で、俺は窓ガラスに映る自分の姿を見つめていた。
そこに映っていたのは、かつての俺ではない。
今の俺が身に纏っているのは、イタリア製のオーダーメイドスーツだ。
髪は後ろに撫で付けられ、無精髭を剃った顎のラインは鋭角に削げている。
そして何より、その瞳だ。
かつての焦燥や激情は消え失せ、あるのは深海のような冷徹な静寂だけ。
鏡の中の男は、俺がよく知る「あの男」に近づきつつあった。
桜が慕い、加賀が敬愛した男。
――伊集院家の当主。
俺は、伊集院当主自身になりつつある。
その事実に、背筋が寒くなるのと同時に、奇妙な安堵も覚えた。
歴史は正しく進んでいる。
俺はこの時代で「伊集院アキラ」という怪物を演じきらなければならない。
「……様になっていますよ、当主様」
背後から、からかうような声がした。
澪だ。
彼女はソファに寝転がりながら、リンゴをかじっている。
彼女の容姿だけは、影山の時から恐らく歳をとっていない。
それが彼女の特異性であり、この世界のバグである証拠だ。
「皮肉はよせ。……準備はどうだ」
俺は振り返り、デスクの上の設計図を指で叩いた。
広大な土地の買収計画と、その地下に建設予定のシェルター。
表向きは核に備えた避難施設だが、その実態は死神を殺すための処刑場だ。
「土地の権利書は揃ったわ。施工業者も、口の堅い連中を選別済み。……あとは、あなたの『城』を建てるだけ」
「金はいくらでも出す。妥協していはいけない」
「わかってるわよ。……それより、そろそろ『庭』の手入れが必要なんじゃない?」
澪が顎で窓の外をしゃくった。
眼下に広がる東京の闇。
俺たちが支配領域を広げるにつれ、当然ながら反発も強まっていた。
特に、古参の極道組織や海外のマフィアたちは、新興勢力である「伊集院」の名を面白く思っていない。
「最近、うろちょろしている鼠が増えたわ」
「……だろうな」
俺は鼻で笑った。
命を狙われることなど、日常茶飯事だ。
むしろ、敵意が明確になった分、対処はしやすい。
「……だが、俺一人ですべてを処理するのは効率が悪い。組織が大きくなれば、番犬が必要になる」
俺の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
未来において、桜を守り抜いた忠実な執事。
加賀。
彼はまだ、この組織にはいない。
彼がどこで生まれ、どうやって伊集院家に拾われたのか、未来の俺は知らなかった。
だが、澪の持つ「未来の記憶」と「過去のデータ」を照合することで、若き日の彼の居場所を特定できていた。
「……そろそろ、迎えに行くか」
俺は上着を羽織り、懐に愛用の拳銃を滑り込ませた。
最強の盾を手に入れるために。
◇
雨の降る夜だった。
廃棄された倉庫街は、密輸組織の巣窟として知られている。
その一角にある薄汚れた賭博場で、俺は「彼」を見つけた。
加賀。
まだ十代の彼は、未来の洗練された執事の面影など微塵もなかった。
泥と油にまみれた作業着。伸び放題の髪。
そして、飢えた野良犬のような凶暴な目つき。
彼は賭場の用心棒として、酔っ払った客を店の外へ放り出しているところだった。
「二度と来るんじゃねぇ!!」
怒号とともに男を蹴り飛ばす。
その動きは粗雑だが、体幹の強さと反射神経の良さが滲み出ている。
天性の才能だ。だが、磨かれていない原石。
俺は傘を差し、雨の中に立つ彼に歩み寄った。
「……いい腕だな」
声をかけると、加賀は振り返った。
その手には、いつの間にか抜き身のナイフが握られている。
速い。
「……誰だ、アンタ。客じゃねぇな」
低い声で威嚇してくる。
俺は傘を少し上げ、顔を見せた。
「仕事の話がある。……こんな掃き溜めで一生を終えるつもりか?」
加賀は鼻で笑い、ナイフの切っ先を俺に向けた。
「スカウトかよ。……生憎だが、俺は群れるのが嫌いなんだ。帰れ、金持ち」
拒絶。
だが、その瞳の奥には、現状への苛立ちと、満たされない渇望が見え隠れしていた。
自分の中に眠る「力」を持て余し、それを発揮する場所を探している獣の目だ。
「群れる必要はない。……俺が欲しいのは、お前という『個』だ」
俺は一歩踏み出した。
加賀の殺気が膨れ上がる。
「近づくなッ!」
警告と同時に、彼は踏み込んできた。
躊躇のない刺突。狙いは心臓。
殺す気だ。
(……悪くない)
俺は傘を手放し、紙一重でナイフをかわした。
通り過ぎざま、彼の手首を掴み、関節を極める。
「ぐっ……!?」
加賀が驚愕に目を見開く。
力任せに振りほどこうとするが、俺は力を逃がし、彼の重心を崩して泥水の中に転がした。
泥まみれになりながら、加賀はすぐに跳ね起きた。
だが、その喉元には、すでに俺の靴先が突きつけられていた。
「……終わりだ」
冷徹に告げる。
加賀は動きを止め、悔しげに歯を食いしばった。
「……殺せよ」
「殺さない。……言っただろう、仕事の話だと」
俺は足をどけ、泥水に濡れた彼に手を差し伸べた。
「俺の名前は伊集院アキラ。……この世界を変えるために、お前の力が必要だ」
加賀は俺の手と、顔を交互に見た。
圧倒的な敗北。そして、命を握られた状況での勧誘。
彼のプライドは傷ついただろう。
だが、それ以上に、自分を凌駕する存在への興味が勝ったようだった。
「……伊集院、だと?あの噂の……」
彼は躊躇いながらも、俺の手を掴んだ。
その手は冷たく、そして強かった。
「……ついていけば、俺は何を得られる?」
「すべてだ。金も、地位も、誇りも。……そして、お前のその力を振るうに相応しい守るべきものを」
加賀が立ち上がる。
俺たちは雨の中で対峙した。
未来の主従。
その最初の契約が、ここで結ばれようとしていた。
「……いいだろう。アンタの言う世界とやら、見せてもらうぜ」
彼は泥を拭い、ニヤリと笑った。
まだ荒削りだが、その笑顔には、未来の彼に通じる誠実さが宿っていた。
俺は満足げに頷いた。
これで、最初のピースが埋まった。
◇
加賀を連れ帰り、俺はすぐに彼を「教育」した。
ただの用心棒ではない。
礼儀作法、教養、戦術、そして忠誠心。
一流の執事として、そして最強の護衛として必要なすべてを叩き込んだ。
彼は驚異的な速度で吸収していった。
まるで、乾いたスポンジが水を吸うように。
元々持っていた才能が開花し、数ヶ月もすれば、見違えるような男に変貌していた。
そして、組織の象徴となる「紋章」も完成した。
ある日、執務室に呼ばれた加賀は、真新しい黒のスーツに身を包んでいた。
髪を整え、背筋を伸ばしたその姿は、あの泥だらけの少年とは別人のようだ。
「……呼びでしょうか、旦那様」
口調も矯正されている。
俺は机の引き出しから、一枚のデザイン画を取り出した。
燃え上がる炎。
だが、それを逆さにすると、獲物を狙う鷹に見える騙し絵。
「伊集院家の紋章だ」
俺は告げた。
「表向きは炎。繁栄と情熱の象徴。……だが、その裏には常に冷徹な『鷹』の目が光っている。それが俺たちのあり方だ」
加賀は真剣な眼差しで紋章を見つめた。
「鷹……」
「そうだ。……加賀、お前にはこの『鷹』になってもらいたい」
俺は立ち上がり、彼の前に立った。
「俺の影となり、敵を排除し、そして……いつか生まれる俺の『家族』を守る盾となれ」
それは、未来への布石だ。
いずれ生まれてくる桜を守るための、絶対的な守護者。
加賀は静かに膝をつき、頭を垂れた。
「……御意。この命に代えても」
「立て、加賀。……お前は俺の右腕だ」
こうして、伊集院家の象徴が誕生した。
組織は盤石となり、金も力も手に入れた。
だが、それで終わりではない。
むしろ、ここからが本番だ。
地下シェルターの建設は順調に進んでいる。
転送装置の設計も、澪の記憶を頼りに再現されつつある。
そして「桜」の存在。
俺はこの時代で、家族を作らなければならない。
桜をこの世に生み出さなければ、未来の因果が崩壊する。
澪の話では俺は結婚はせずに、桜を迎え入れると聞いた。
肝心なところを教えてくれなかったが、タイミングがきたら教えてくれるだろう。
あいつもこのレールがずれることはあってはならないとわかっているはずだからだ。
(……待っていろ、桜)
窓の外、建設中の巨大な屋敷を見下ろしながら、俺は誓った。
お前をこの世界に呼び戻す。
そして、今度こそ――。
俺の決意を嘲笑うように、夜空に雷鳴が轟いた。
嵐が来る。
死神との最終決戦へ向けた、長い長い嵐が。




