94話
光の渦が収束し、世界が再構成される。
重力が戻り、足裏に硬い地面の感触が伝わってきた。
俺はふらつきながら、壁に手をついた。
ひどい目眩だ。三半規管が狂い、胃の中身が逆流しそうになる。
「……ッ、はぁ、はぁ……」
荒い息を吐き出しながら、顔を上げる。
そこは、薄汚れた路地裏だった。
湿った空気。腐った生ゴミと、安っぽい料理の匂い。
頭上の電線は乱雑に絡まり合い、遠くからは聞き慣れない古い歌謡曲が流れている。
(……着いた、のか?)
俺は額の汗を拭おうとして――違和感に気づいた。
手の大きさが、違う。
指が細く、肌の質感が、俺の知っているそれではない。
ぞわり、と背筋が泡立った。
俺はよろめく足取りで、目の前の商店のショーウィンドウへと近づいた。
埃を被ったガラス。
そこに、街灯の光に照らされた「男」が映り込んでいた。
俺は、息を呑んだ。
そこにいたのは、俺(九条アキラ)ではなかった。
黒髪だが、色素の薄い瞳。
線が細く、どこか冷ややかで理知的な顔立ちをした、見知らぬ男。
着ている服も、ボロボロのシャツとスラックスだ。
俺は震える手で、自分の頬に触れた。
ガラスの中の男も、同じように頬に触れる。
「……誰だ、こいつ」
自分の口から出た声すら、聞き覚えのない声色だった。
理解するのに、数秒かかった。
そして、澪の言葉が脳裏に蘇る。
『転生して、伊集院家を創りなさい』
そうか。そういうことか。
俺は、肉体ごと過去へ来たんじゃない。
「九条アキラ」という器を捨て、この時代の、名もなき男の肉体に魂だけが滑り込んだのだ。
俺はガラスに映る「新しい自分」を睨みつけた。
その瞳の奥に燃えている昏い炎だけは、紛れもなく俺のものだ。
(……上等だ)
俺はニヤリと笑った。
ガラスの中の少年も、不敵に笑い返す。
顔も名前も捨てた。
俺はもう、何者でもない。
だからこそ――何にでもなれる。
ここから、俺が「伊集院アキラ」になるんだ。
その時だった。
ザァァァッ……と、空が裂けたように雨が降り出した。
冷たく、激しい雨。
路地裏の汚物をすべて洗い流そうとするかのような勢いだ。
俺は雨を避けるために軒下へ移動しようとしたが、目の前に現れた「影」に足を止めた。
雨の中、傘を差し、佇む少女。
学生服。時代錯誤な学生鞄。
そして、全てを見通すような、あの瞳。
「……お出迎えご苦労」
俺は皮肉っぽく口元を歪めた。
「よっ。……無事に着いたみたいね、創設者さん」
澪だ。
現代で別れた時と、何一つ変わらない姿。
数十年、あるいはそれ以上の時間を飛び越えているはずなのに、彼女には「時間」という概念が存在しないかのようだ。
「お前……本当に人間じゃないんだな」
俺が呆れたように言うと、彼女はくすりと笑い、ビニール傘をくるくると回した。
「失礼ね。これでも一応、肉体はあるのよ?……ただ、時間の流れ方が、あなたたちとは少し違うだけ」
彼女は一歩近づき、俺に傘を差し掛けてきた。
雨音が遠のく。
「どう?過去の空気は」
「……最悪だ。カビ臭くて、埃っぽい」
「ふふ、それも聞きあきた。……でも、ここがあなたの新しい戦場よ」
澪は鞄から一冊の分厚いファイルを取り出し、俺に押し付けた。
ずっしりと重い。
「何だ、これ」
「この時代の攻略本よ」
彼女は事もなげに言った。
「これから数十年間に起こる、株価の大暴落、土地の高騰、新興企業の台頭、裏社会の勢力図の変遷……。金になる情報と、利用できる事件をリストアップしておいたわ」
俺はファイルを開き、パラパラとめくった。
そこには、未来を知る者だけが書ける、あまりにも詳細な予言書が記されていた。
これさえあれば、巨万の富を築くことも、政財界を裏から操ることも造作もない。
「……随分と、至れり尽くせりだな」
「当然でしょ。あなたが作るのは、ただの金持ちの家じゃない。……神を殺すための密室なんだから」
澪の声が、低く、冷たく響く。
「この時代のすべてを利用して、搾取して、踏み台にしなさい。金も、人も、暴力も。……使えるものは全部使って、最強の伊集院家を創り上げるのよ」
俺はファイルを閉じ、雨に煙る灰色の空を見上げた。
ここから、始めるのか。
何もない、ゼロからのスタート。
だが、俺の手には未来の知識と、一度死んで蘇った経験がある。
そして何より胸の奥には、消えない炎が燃えている。
死神を殺すという誓い。
「……ああ。やってやるよ」
俺はファイルを脇に抱え、不敵に笑った。
「この時代のすべてを喰らって、俺の城にしてやる」
澪が満足げに微笑む。
「さあ、始めましょうか。……アキラ」
雨は激しさを増していた。
だが、俺の足取りは軽かった。
混沌とした時代の闇へ向かって、俺は力強く最初の一歩を踏み出した。
◇
それからの日々は、まるで倍速で再生されるフィルムのように過ぎ去っていった。
俺が最初に拠点を構えたのは、六畳一間の安アパートだった。
壁は薄く、隣人の咳払いが聞こえ、畳は湿気で腐りかけていた。
だが、そこにあるちゃぶ台の上に広げられた「ファイル」だけが、この時代のどんな金庫の中身よりも価値があった。
手始めに澪の情報を元に競馬に俺は有り金をすべて突っ込んだ。
結果は、当然ながら的中。
数万が数百万に化ける。
次は株だ。
バブル景気に沸く日本列島。誰もが狂ったように土地を買い漁り、株価は天井知らずに上がっていく。
その熱狂の中で、俺たちは冷徹に「暴落」の瞬間を待ち構えていた。
ブラックマンデー。
世界中の投資家が悲鳴を上げ、ビルから飛び降りる者が続出したあの日。
俺たちは空売りで莫大な利益を叩き出し、紙屑同然になった優良株を底値で買い漁った。
金が唸りを上げ、雪だるま式に膨れ上がっていく。
札束の壁ができ、それがさらに大きな金を呼び込む。
金ができれば、次は力だ。
この時代の裏社会は、まだ混沌としていた。
古い極道、新興の半グレ、海外のマフィア。
どいつもこいつも、暴力とメンツだけで動いている単純な獣たちだ。
俺は、澪の情報を使って彼らの「弱み」を握り潰した。
横領の証拠、密輸のルート、愛人の存在。
脅迫し、買収し、時には自らの拳で叩き伏せた。
「影山アキラ」として培った戦闘術と人心掌握術は、この時代でも十分に通用した。
いや、セキュリティ技術や情報管理が未発達なこの時代において、俺の知識は神に近いアドバンテージだった。
逆らう組織は、一夜にして消滅させた。
幹部を拉致し、組事務所の情報を警察にリークして売り飛ばす。
容赦などしない。
俺が目指しているのは、ただの暴力団の組長じゃない。
神を殺すための「システム」を構築することだ。
そのためには、この街のルールそのものを書き換える必要がある。
街の地図が、俺の色に塗り替えられていく。
不可解な勢力拡大。正体不明の支配者。
裏社会の住人たちは、畏怖を込めて俺のことを噂し始めた。
それなりの時間が経つ頃には、俺たちの拠点は港区の一等地に建つ高層ビルへと移っていた。
最上階のフロア。
眼下に広がる東京の夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。
だが、俺にはそれが、ただの電気信号の明滅にしか見えなかった。
「……退屈だな」
俺はグラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
最高級のスコッチ。だが、味はしない。
背後のソファでは、澪がファッション誌をめくっている。
彼女の姿は、出会った時から全く変わっていない。
時が経てば経つほど、その「変わらなさ」が異質さを増していく。
俺はグラスをテーブルに置いた。
カツン、と乾いた音が、広い部屋に虚しく響く。
未来の情報を知っている俺が勝つのは当然だ。……まるで、答えを見ながらテストを受けている気分だ。達成感もクソもない
金も、権力も、望めばすべて手に入る。
だが、俺の心にある乾きは癒えない。
むしろ、組織が巨大になればなるほど、空虚さが広がっていく。
なぜなら、これは「俺の力」じゃないからだ。
澪が持ってきた攻略本をなぞっているだけ。
それに、俺が本当に欲しいのは、こんな安っぽい成功じゃない。
――死神の首だ。




