93話
深夜の冷気が肌を刺すが、不思議と寒さは感じない。
広大な庭園の隅、木立に囲まれた小さな「離れ」。
本邸へ向かう足を、一度だけ止める。
澪に会う前に、済ませておかなければならないことがある。
(……寄っていくか)
俺は砂利を踏みしめ、離れの玄関へと向かった。
明かりは消えている。母さんはもう寝ているだろうか。
起こさないように、そっとドアノブを回す。
カチャリ、と小さな音がして、ドアが開く。
静まり返った廊下。
靴を脱ぎ、リビングの方へ目を向けるとそこには、薄暗い常夜灯の下で、ソファに座ったまま微睡んでいる母さんの姿があった。
テーブルの上には、冷めた夜食と、読みかけの雑誌。
俺の帰りを待っていたのだろう。
俺は音を立てないように近づき、彼女の寝顔を見下ろした。
目尻のシワ。白髪の混じり始めた髪。
かつて組織の末端として俺を殺そうとし、そして俺と共に組織を裏切り、生き延びた女。
血の繋がりはない。
だが、この数年間、彼女は間違いなく俺の「母親」だった。
「……ん……」
気配を感じたのか、母さんがゆっくりと目を開けた。
俺の姿を認めると、寝ぼけ眼をこすりながら、ふわりと笑う。
「あら……おかえりなさい、アキラ。遅かったわね」
いつもと変わらない、穏やかな声。
それが、胸に痛い。
「……ああ。ただいま」
俺は短く答えた。
母さんは体を起こし、テーブルの上の夜食に手を伸ばそうとする。
「お腹、空いてるでしょう? 温め直すから……」
「いや、いい」
俺は彼女の言葉を遮った。
これ以上、日常を演じ続けることはできない。
「……また、出かけるんだ」
「え?」
母さんの手が止まる。
俺は、努めて平静を装い、いつもの調子で告げた。
「ちょっと、遠くで仕事が入ってさ。しばらく帰れないかもしれない」
「しばらく」じゃない。「二度と」だ。
俺が過去へ飛べば、この世界線での俺たちの関係は消滅する。
彼女の記憶からも、俺という息子の存在は消えるかもしれない。
母さんは、俺の顔をじっと見つめた。
その瞳が、わずかに揺れる。
彼女は、俺が「普通の高校生」じゃないことを知っている。
伊集院家の影で、何か危ないことをしていることも、薄々感づいているはずだ。
止めるか?
それとも、理由を聞くか?
だが、母さんはどちらもしなかった。
ただ静かに立ち上がり、俺の前に立った。
そして、俺の襟元を慣れた手つきで整え始めた。
「……そう。わかったわ」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「アキラが決めたことなら、止めない。……あなたは、いつだって自分で考えて、自分で道を選んできた子だもの」
彼女の手が、俺の肩を優しく叩く。
「でもね、忘れないで。……ここが、あなたの家よ。いつ帰ってきてもいいように、鍵は開けておくから」
帰る場所がある。
その事実だけで、俺はどれだけ救われてきただろうか。
前世では得られなかった、無償の愛と安らぎ。
それをくれたのは、間違いなくこの人だった。
「……ああ。ありがとう、母さん」
俺は深く頭を下げた。
感謝と、謝罪と、別れの言葉をすべて飲み込んで。
「行ってきます」
顔を上げ、告げる。
母さんは、今までで一番優しい笑顔で、俺を送り出した。
「ええ。……行ってらっしゃい」
俺は背を向け、玄関を出た。
ドアが閉まる音が、俺たちの「家族ごっこ」の幕を下ろした。
夜風が冷たい。
だが、背中に残る母さんの手の温もりだけは、消えなかった。
(……元気でな)
心の中で呟き、俺は本邸の方角――澪の待つ場所へと歩き出した。
迷いはない。
もらった温もりを糧に、俺は最後の戦場へと向かう。
地下室に向かう途中、廊下には、加賀が静かに控えていた。
彼は俺の顔を見て、すべてを悟ったように目を伏せた。
「……加賀さん」
俺は頭を下げた。
これが、この男と交わす最後の言葉になるだろう。
「彼女を頼む。……あなただけが頼りだ」
加賀は深く、長く頭を下げた。
その背中は、どんな敵からも主を守り抜く鉄壁の盾のように見えた。
「お任せください。……この命に代えても、桜様をお守りいたします」
その誓いを聞き届け、俺は歩き出した。
廊下の突き当たり、地下へと続く隠し階段へ向かう。
天井を仰ぎ、一度だけ深く息を吐いた。
肺の中に残った未練を、すべて吐き出すように。
(……さよならだ、桜)
俺は暗い階段を降りていく。
その先には、澪と、そして転生する装置が待っている。
これが、俺の選んだ道だ。
◇
地下への階段は、深く、暗かった。
一段降りるごとに、空気は冷え、密度を増していく。
かつて父――いや、未来の俺が消えた場所。
伊集院家の最深部、「開かずの間」。
最下層にたどり着くと、そこには異様な光景が広がっていた。
コンクリートの壁に囲まれた広い空間。
その中央に鎮座するのは、時代錯誤なほど巨大で、複雑な紋様が刻まれた石造りの台座と、それに接続された最新鋭の電子機器の群れ。
古代の祭壇と、未来のテクノロジーが、歪に融合している。
その装置の前に、澪が立っていた。
モニターの光に照らされた彼女の横顔は、どこか神聖で、近寄りがたい雰囲気をまとっていた。
「……遅かったわね」
彼女は振り返らず、キーボードを叩きながら言った。
「いろいろと、片付けがあったんでな」
俺は台座へと歩み寄る。
空気がビリビリと震えている。
「準備はいい?」
澪が手を止め、こちらを向いた。
その瞳には、万感の思いが込められていた。
数万回のループ。果てしない絶望の繰り返し。
それを終わらせるための、最後の一手。
「ああ。……いつでもいい」
俺は台座の上に立った。
視界が高くなる。
澪がコンソールに手をかける。
「座標固定。……時代伊集院家が創設されるより前の時間軸よ」
機械的な音声と共に、部屋全体の空気が重くなる。
空間が歪み始め、視界の端がノイズのように揺らぐ。
耳鳴りがキーンと響き、世界が遠ざかっていく感覚。
「さあ、行きなさい。時間がな――」
その時だった。
ガンッ!!
背後で、衝撃音が響いた。
何重にもロックされていたはずの重厚な鉄扉が、こじ開けられるようにして開く。
けたたましい警報音が鳴り響く中、土煙の向こうから飛び込んできたのは――。
「アキラッ!!」
悲鳴のような叫び声。
そこにいたのは、ドレスの裾を埃で汚し、裸足で駆け込んできた桜だった。
髪は乱れ、肩で息をし、その瞳は鬼気迫るほどに見開かれている。
後ろには、止めようとして止められなかったのか、苦渋の表情を浮かべた加賀が立ち尽くしている。
「……なっ!?」
俺は言葉を失った。
なぜ、ここに?
俺は完璧に嘘をついて、別れを告げたはずだ。
あの部屋で、彼女は納得して俺を送り出したはずだ。
「来るな! ここはもう――」
俺の制止など、彼女の耳には届いていなかった。
桜は迷うことなく、光が渦巻き始めた危険地帯へと飛び込んでくる。
転移のエネルギーが風となって吹き荒れる中、彼女は一歩も引かない。
そして――
ドンッ!
俺の背中に、強烈な衝撃が走った。
桜が、背後から俺に勢いよく抱きついたのだ。
転移の前兆である突風が吹き荒れ、二人の髪を乱暴にかき乱す。
光の粒子が舞う中、彼女は俺の背中に顔を埋め、叫んだ。
「嘘つき!『遠く』なんてレベルじゃないでしょ!?」
その声は涙で濡れていたが、怒りに満ちていた。
俺の嘘など、最初からすべてお見通しだったのだ。
「桜、離れろ! お前まで巻き込まれるぞ!」
俺は彼女の腕を引き剥がそうとする。
だが、桜の腕は鋼のように固く、俺の腰に回されたまま微動だにしない。
震えているのに、凄まじい力だ。
彼女はさらに力を込め、俺の背中に爪を立てるようにしてしがみつく。
その痛みが、彼女の実在を俺に刻みつける。
「あなたがどこへ行こうとしてるのか、私には分からない!でも、これだけは分かる!……あなたは、一人で全部背負って、二度と戻らないつもりなんでしょ!?」
「ッ……」
図星だった。
彼女には、何もかもが筒抜けだった。
俺の嘘も、覚悟も、そしてこれが永遠の別れであることさえも。
「行くんでしょ。……行きなさいよ!」
矛盾した言葉。
抱きしめたまま、彼女は俺の背中を押すように叫ぶ。
行かせたくない。
でも、行かなければならない俺の背中を、誰よりも強く肯定するように。
「でも、絶対に忘れないで!」
背中越しに、彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。
激しく、速く、命を燃やすような鼓動。
そして、燃えるような体温。
「あなたがどこに行っても……たとえ、違う世界でも、違う時間でも!」
桜は顔を上げ、俺の耳元で、魂を削るように宣言した。
「私は、あなたを見つけ出す!伊集院家のすべてを使ってでも、絶対にあなたを迎えに行くから!!」
それは、愛の告白ではなかった。
運命に対する、伊集院桜という人間の宣戦布告だった。
時空さえも超えて、必ず俺を捕まえるという、執念の誓い。
俺の目頭が熱くなる。
言葉が出ない。
ただ、背中に感じる彼女の熱だけが、俺の存在を現世に繋ぎ止めている。
(……ああ。やっぱり、敵わないな)
俺は、彼女の腕にそっと手を添えた。
その感触を、記憶の最深部に刻み込むために。
この温もりさえあれば、俺はどこの地獄へ行っても、自分を見失わずにいられる。
澪が、悲しげに目を細めた。
「……時間よ」
彼女は静かに告げ、桜を俺から引きはなし、スイッチに手をかけた。
光が炸裂する。
視界が真っ白に染まり、重力が消失する。
世界が崩壊する轟音の中で、周りの背景がふっと消える。
俺の背中には、最後まで桜の体温が焼き付いていた。
その熱だけを道標に、俺は時空の彼方へと弾き飛ばされた。
意識が溶ける寸前、俺は心の中で誓った。
(待っていろ。……必ず、世界を変えて、また会いに来る)
光の渦が俺を飲み込み、九条アキラの物語は、ここで幕を閉じた。
そして――
新たな過去での戦いが始まる。




