92話
廃駅の錆びついたベンチ。
澪の背中が夕闇に溶けていくのを、俺は動かずに見送った。
過去へ飛び、歴史を改変し、死神を殺すための密室を作る。
その代償として、今の世界線にあるすべてを捨てる。
頭では理解していた。それが唯一の解だと。
だが、足が動かない。
靴底に鉛が入ったかのように重い。
(……ケジメはつけないとな)
俺がいなくなれば、俺が作り上げた組織「ウロボロス」は暴走するか、あるいは瓦解する。
俺が育ててしまった「怪物」たちを、飼い主のいない野良にしておくわけにはいかない。
それに――最後に一度だけ、あいつらの顔を見ておきたかった。
俺は深く息を吸い込み、冷たい夜気を肺に満たした。
行くか。
最後の「ボス」の仕事を果たすために。
◇
港区のタワーマンション、最上階。
エレベーターが音もなく上昇していく。気圧の変化で耳が詰まる。
「ピン」という電子音と共にドアが開く。
セキュリティロックを解除し、防音扉の重いレバーを引いた。
いつものアジトへ足を踏み入れると、そこには見慣れた光景があった。
窓際のデスクで、複数のモニターを監視している不破蓮。
ソファにだらしなく寝転がり、スナック菓子を齧りながらタブレットを操作している南雲ミナ。
そして、部屋の隅で黙々とダンベルを上げ下げしている黒鉄牙。
俺が入室すると、三人の視線が一斉にこちらへ向いた。
「……遅いわよ、ボス。連絡もなしに消えるなんて」
不破が眼鏡の位置を直し、冷ややかな声で言った。
画面から目を離さずに言ったその言葉の端々に、隠しきれない安堵の色が滲んでいる。
「アキラ!もう、心配したんだからね!伊集院家の方ですごい騒ぎになってるって噂だったし!連絡くらいよこしなさいよ!」
南雲がソファから飛び起き、頬を膨らませて抗議してくる。
「……チッ。生きてたかよ」
黒鉄は悪態をつきながらも、トレーニングの手を止めて立ち上がった。
その体からは湯気が立ち上り、獣のような熱気が伝わってくる。
いつもの光景。いつもの匂い。
俺が利用し、巻き込み、そして作り上げた共犯者たち。
こいつらとの日々が、俺の高校生活のすべてだった。
俺は深く息を吸い込み、いつもの「ボスの顔」を作った。
感情を殺し、冷徹な仮面を貼り付ける。
「全員、揃ってるな」
俺は部屋の中央にあるガラスのテーブルに歩み寄り、懐から一枚のメモリーチップを取り出した。
カツン、と乾いた音がして、チップが置かれる。
「……何よ、これ」
不破が怪訝そうに眉をひそめる。
「俺が持っている全権限だ。伊集院家の裏ルート、隠し口座のパスワード、組織の全データ……すべて入っている」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
サーバーの駆動音だけが、やけに大きく響く。
南雲が息を呑み、黒鉄が目を細める。
そして不破は、チップを見ようともせず、俺の顔を真っ直ぐに射抜いた。
「……どういうつもり?」
静かな、だが確信めいた問い。
「俺は抜ける」
俺は淡々と告げた。
「ここから先は、俺一人で片付けなきゃならない問題だ。お前たちを巻き込むわけにはいかない」
「はぁ!? 何言ってんの!?」
南雲が声を荒げた。
「ここまで一緒にやってきたじゃん! 今さら抜けるとか、意味わかんないし! 私たち、一蓮托生なんでしょ!?」
彼女の目には涙が溜まっていた。ハッカーとしての冷徹さはどこへやら、ただの子供のように感情を露わにしている。
「……俺がいなくても、システムは回るようにしてある。不破、お前ならできるはずだ」
俺は南雲の叫びを無視して、不破に視線を向けた。
彼女は、俺の目から視線を逸らさなかった。
その瞳が、高速で計算を繰り返しているのがわかる。
俺の言葉の真意、状況の整合性、そして――俺の「覚悟」。
やがて、彼女はふっと自嘲気味に笑った。
「……計算が合わないのよ」
彼女はチップを手に取り、弄ぶように指先で回した。
「あなたが渡してきた膨大な計画。これを実行するには、あなたが不可欠なのに……この数式には、あなたの項だけが抜け落ちている」
「……バグだと思って処理しろ」
「できないわよ。……あなたというノイズが、私の世界を面白くしていたんだから」
不破はチップを強く握りしめ、そして俺に投げ返した。
チップが俺の胸に当たって落ちる。
「……いらないわ、こんなもの」
彼女はきっぱりと言い放った。
「あなたがいない組織なんて、ただの抜け殻よ。……でも、止めても無駄なんでしょうね」
彼女は眼鏡を外し、疲れたように目頭を押さえた。
すべてを察している。
俺がもう、戻らないつもりだということを。
そして、俺が止めても止まらない人間だということも。
「……行ってきなさいよ……。あなたが何をやろうとしているか全てはわからない。ただ、根底から崩してくるんでしょう?」
「ああ。……そのつもりだ」
「なら、証明してきなさいよ。あなたの答えが、正しいってことを」
それは、彼女なりの最大限のエールだった。
俺は無言でチップを拾い上げ、デスクの上に置き直した。
受け取らなくてもいい。ここに置いていく。それが俺の遺言だ。
次に、俺は黒鉄の方を向いた。
彼は壁にもたれかかり、凶悪な目で俺を睨みつけていた。
全身から殺気が滲み出ている。
「……逃げんのかよ、ボス」
低く、地を這うような声。
「俺に首輪をつけておいて、飼い主がいなくなるってか? ……笑えねぇ冗談だ」
「逃げるんじゃない。……もっとでかい獲物を狩りに行くだけだ」
俺は黒鉄の前に立ち、その肩を強く掴んだ。
筋肉が鋼のように硬直している。
「黒鉄。お前はもう、ただの狂犬じゃない。……俺がいなくなっても、その牙を折るな」
「……あぁ?」
「お前の力は、壊すためだけにあるんじゃない。……こいつらを守るために使え」
俺は不破と南雲を視線で示した。
「こいつらは頭はいいが、喧嘩はからっきしだ。……お前が守れ。それが、俺からの最後の命令だ」
黒鉄はしばらく俺を睨みつけていたが、やがてフンと鼻を鳴らし、乱暴に俺の手を振り払った。
「……ケッ。面倒なもん押し付けやがって」
だが、その声には以前のような虚無感はなかった。
微かだが、確かな意志が宿っていた。
「わかったよ。……アンタが戻ってくるまで、この『庭』は俺が守っといてやる」
戻ってくるまで。
その言葉に胸が痛んだが、俺は何も言わず、ただ頷いた。
最後に、南雲を見る。
彼女は唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。
「……アキラのバカ。薄情者。……最低」
「悪かったな。……優秀なハッカーのおかげで助かったよ」
「……そんな言葉、欲しくないし」
彼女は袖で強引に目をこすり、背を向けた。
「……絶対、後悔させてやるんだから。私たちが世界一の組織になって、あんたが『戻りたい』って泣きついても、入れてやらないんだからね!」
震える声。それが彼女なりの別れの言葉だった。
俺は三人の顔を、目に焼き付けた。
不破の知性、黒鉄の暴力、南雲の技術。
俺が集め、繋ぎ合わせ、そして一つの生き物にした最高のチーム。
(……悪くない生活だった)
心の中でそう呟き、俺は踵を返した。
「……じゃあな」
背を向け、ドアノブに手をかける。
振り返らない。
振り返れば、決意が鈍る。
ガチャリ。
重い扉を開け、俺は外へと出た。
閉ざされた扉の向こうから、三人の気配が消える。
廊下を歩きながら、俺は大きく息を吐いた。
肩の荷が下りたような、それでいて、体の一部をもぎ取られたような喪失感。
だが、足は止めない。
まだ、会わなければならない相手がいる。
この世界で、俺が最も深く傷つけてしまった少女。
桜。
彼女との別れが、俺の最後の未練だ。
◇
深夜の住宅街を抜け、伊集院家の屋敷へと向かう。
夜風が冷たく、頬を刺す。
屋敷は静まり返っていたが、本邸の窓にはまだ明かりが灯っていた。
本邸の玄関ホール。
そこに、加賀が立っていた。
微動だにせず、まるで彫像のように。
俺が入ってくると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……遅いお帰りですね、アキラ様」
彼の声は穏やかだった。
だが、その瞳は鋭く俺を観察している。
俺が纏っている空気――「別れ」の気配を、この男が感じ取っていないはずがない。
「ああ。……少し、桜に会いたいんだ。時間は取らせない」
俺が言うと、加賀は無言で一礼し、踵を返した。
拒絶はない。
彼は俺を先導し、広い階段を上がっていく。
長い廊下。絨毯を踏みしめる音だけが響く。
桜の部屋の前で、加賀が足を止めた。
「……お嬢様は、まだ起きていらっしゃいます」
加賀はドアノブに手をかけず、俺の方を向いた。
その表情に、一瞬だけ人間らしい躊躇いが見えた。
「アキラ様。……一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「……戻られますか?」
直球だった。
加賀の眼差しに、探るような色はなかった。
ただ真実を知りたがっている、真摯な光だけがあった。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
嘘をつくべきか。それとも。
「……約束はできない」
俺は視線を逸らさずに答えた。
それが精一杯の誠実さだった。
加賀は深く息を吐き、そして、どこか悲しげに微笑んだ。
「……左様でございますか。承知いたしました」
彼は一歩下がり、道を譲った。
「どうぞ。……お嬢様がお待ちです」
俺は小さく頷き、ドアをノックした。
「……入るぞ」
返事を待たずにドアを開ける。
部屋の中は薄暗かった。
間接照明だけが灯された静かな空間。
窓辺に、桜が立っていた。
夜景を見下ろす彼女の背中は、以前よりもずっと小さく、けれど芯の通った強さを感じさせた。
俺の気配に気づき、彼女がゆっくりと振り返る。
「……アキラ」
驚きはなかった。
ただ、静かに微笑んでいた。
その笑顔があまりにも綺麗で、俺の胸が締め付けられる。
「こんな時間に、どうしたの?」
彼女は努めて明るく振る舞っていた。
俺が何を言いに来たのか、薄々気づいているくせに。
俺は部屋に入り、ドアを背にして立った。
近づけない。
これ以上近づけば、決意が揺らぐ。
「……少し、遠くへ行くことになった」
用意していた台詞を口にする。
喉が渇いて、声が掠れる。
「お前の父親に関する……重要な手がかりを見つけたんだ。それを追うために、しばらくここを離れる」
嘘だ。
手がかりなんてない。俺がこれから行くのは、過去という名の牢獄だ。
だが、桜には希望が必要だ。
俺がいなくなる理由に、彼女が納得できるだけの「正義」が必要だった。
桜は、じっと俺を見ていた。
その瞳が、俺の嘘を見抜いているのが痛いほどわかる。
「……そう。いつ帰ってくるの?」
「……わからん。だが、必ず片付ける」
「うん。……わかった」
桜はあっさりと頷いた。
引き止めもしない。泣き喚きもしない。
ただ静かに、俺の嘘を受け入れた。
それが逆に、俺の胸をえぐる。
「……気をつけてね。無理しちゃダメだよ」
彼女は一歩、俺に近づいた。
手を伸ばせば届く距離。
抱きしめたい衝動に駆られる。
だが、俺の手は動かない。動かしてはいけない。
「ああ。……お前もな」
俺は拳を握りしめ、視線を逸らした。
「……もう行く。時間がないんだ」
「うん。……行ってらっしゃい」
桜の声は、震えていなかった。
俺は背を向け、ドアノブに手をかけた。
冷たい金属の感触。
これを回せば、もう終わりだ。
二度と、彼女の笑顔を見ることはない。
この世界での俺たちは、ここで終わる。
カチャリ。
ドアが開く音が、静寂に響く。
俺は一歩、廊下へ踏み出した。
そこで――どうしても、抑えきれなかった。
一度だけ。
最後の一度だけ、彼女の姿を目に焼き付けておきたい。
俺は振り返った。
視界に映ったのは、窓辺に立ち尽くす桜の後ろ姿だった。
さっきまで気丈に振る舞っていた彼女の細い肩が、今は小刻みに、壊れそうなほど揺れている。
両手で口元を覆い、声を殺して、泣いていた。
(……あぁ。やっぱり、分かっていたのか)
彼女は気づいている。
これが「長期任務」なんて生易しいものじゃないこと。
俺が二度と戻らない覚悟で、ここに来たこと。
すべてを察した上で、あいつは……笑って俺を送り出したんだ。
俺の足が、無意識に一歩、部屋の中へ戻ろうとする。
駆け寄って、抱きしめて、「嘘だ」と言いたくなる衝動。
涙を拭いて、ずっとそばにいると誓いたくなる誘惑。
だが――俺はその足を止めた。
ドアノブを握る手に、血が滲むほど力を込める。
(……だめだ。戻るな)
彼女が必死に飲み込んで、俺の嘘に乗ってくれたんだ。
なら、俺がその覚悟を無駄にするわけにはいかない。
ここで戻れば、俺たちの別れはただの「悲劇」になる。
俺が成すべきことは、彼女の未来を守ることだ。感傷に浸ることじゃない。
「…………行ってくる」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
その言葉は、俺自身への最後の戒めだった。
俺は、揺れる桜の背中を網膜に焼き付け、逃げるようにドアを閉めた。
バタン。
重い音が、俺と彼女の世界を分断した。




