90話
目が覚めると、カーテンの隙間から細い朝日が差し込んでいた。
静かな朝だ。
だが、俺の胸の奥は、これまでにないほど冷たく、鋭く張り詰めていた。
(……今日で、一つ終わる)
昨夜、スマホに届いた報告を思い返す。
不破からの『執行確定』の通知。
黒鉄からの『ネズミ排除完了』の報告。
俺の道を塞いでいた障害物は、すべて取り除かれた。敵対組織のリーダー。
俺の領域を嗅ぎ回っていたネズミ。
それらが消えることで、ようやく俺は、この泥沼のような膠着状態から抜け出せる。
これは「勝利」ではない。
ただの「整地」だ。
邪魔な石ころをどかし、俺が本当に進むべき道を舗装したに過ぎない。
俺はベッドから降り、洗面所へと向かった。
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。
顔を上げ、鏡の中の自分と対峙した。
そこに映っていたのは、覚悟を決めた男の顔だった。かつて無実の罪で死刑台に送られ、絶望の中で死んだ「影山アキラ」。
あんな無様な最期は、二度と御免だ。
敵のリーダーを葬り去ることで、俺の情報網は裏社会の深層へと届くようになる。
そうすれば――必ず尻尾を掴めるはずだ。
俺をハメた、真の黒幕。
猛が最期に残した名前「クジョウ」。
そいつの喉元に牙を突き立てるための、最初の一歩が今日なのだ。
タオルで顔を拭き、制服のシャツに袖を通す。
ボタンを留める指先に、微かな震えはない。
ネクタイを締め、キュッ、と結び目を上げた瞬間。
不意に、鏡の中の視界が歪んだ。
(……ん?)
鏡に映る俺の顔。
その輪郭が、陽炎のように揺らぐ。
健康的な肌色が抜け落ち、土気色に変色していく。
頬がこけ、目は落ち窪み、唇は乾燥してひび割れている。
そして――首元。
今、俺が締めたはずのネクタイが、そこにはなかった。
代わりに巻き付いているのは、太く、ささくれた麻縄。
それが、皮膚に食い込むほどきつく締め上げられている。
死刑囚の、死に顔。
俺の目が、鏡の中の「死体」と合った。
そいつは、虚ろな目で俺を見つめ返し、にやりと笑った気がした。
『……よう』
幻聴。あるいは、脳の奥で響いたノイズ。
「……ッ!」
俺は激しく瞬きをし、頭を振った。
視界が明滅し、再び焦点が合う。
鏡の中には、いつもの俺がいた。
整った服。完璧に結ばれたネクタイ。
やつれた顔も、首の縄もない。
「……なんだ、今のは」
心臓が、少しだけ速く打っている。
額に冷や汗が滲んでいた。
(……疲れか?)
ここ数日、神経を張り詰めすぎていたせいかもしれない。
あるいは、今日という日が「死刑執行」の日だから、かつてのトラウマがフラッシュバックしたのか。
「……ふん。くだらない」
俺は鼻で笑い、鏡に向かって髪を整えた。
過去の亡霊になど、惑わされるつもりはない。
俺が見ているのは過去じゃない。
「クジョウ」という未来の標的だけだ。
俺は上着を羽織り、部屋を出た。
階段を降りると、母さんが朝食の準備をしていたが、今日は食べる気にならなかった。
胃の中に物を入れるよりも、早くこの目で見届けたかった。
「行ってきます」
「え? ご飯は?」
「いらない。……今日は、大事な日なんだ」
母さんの返事も待たず、俺は玄関のドアを開けた。
外の空気は冷たく澄んでいて、昨夜の雨の名残か、アスファルトが黒く濡れていた。
門の前には、すでに見慣れた黒塗りの高級車が停まっていた。
運転席の横に立ち、微動だにせずに待機していた加賀が、俺の姿を認めると深く一礼した。
「おはようございます、アキラ様」
「おはよう、加賀さん。」
加賀は無駄のない所作で後部座席のドアを開けた。
その表情はいつも通り鉄仮面だが、どこか張り詰めた緊張感が漂っている。
俺は車に乗り込み、深くシートに体を沈めた。
ドアが重厚な音を立てて閉まる。
車内は完全な密室となり、外界の雑音を遮断した。
加賀が運転席に乗り込み、バックミラー越しに俺を見た。
「……よろしいのですか? アキラ様」
静かな問いかけ。
「何がだ?」
「ご自身の目で、確認されて。……処刑の現場など、決して気分の良いものではありません。報告を待つだけでも十分かと存じますが」
加賀なりの配慮だろう。
未成年の俺に、人が死ぬ瞬間を見せたくないという良識。
だが、俺は首を横に振った。
「いや。……俺が前に進むために、必要な儀式だ」
俺は淡々と答えた。
残酷趣味で見に行くわけじゃない。
俺の道を塞いでいた敵が消える瞬間を確認し、この手でピリオドを打つ。
そうすることで初めて、俺は「次」へ行ける。
クジョウへと続く道へ。
「……左様でございますか」
加賀はそれ以上何も言わず、エンジンをかけた。滑らかに車が動き出す。
窓の外を流れる景色は、いつも通りの街並みだった。
彼らは誰も知らない。
今日、この街の片隅にあるコンクリートの箱の中で、一人の男が合法的に殺されることを。
そして、それが俺にとっての「始まり」であることを。
俺はポケットの中でスマホを握りしめた。黒鉄からの追加連絡はない。つまり、問題なく進行しているということだ。
俺は目を閉じた。今日、一つの壁が消える。
その向こう側に潜んでいる本丸を、必ず引きずり出してやる。
車は速度を上げ、拘置所へとひた走る。
車は、コンクリートの高い塀に囲まれた東京拘置所の裏門へと滑り込んだ。
事前に話が通っているのだろう。
検問の警備員は加賀の顔を見るなり、無言で敬礼し、重厚な鉄扉を開放した。
車を降りると、そこにはひんやりとした無機質な空気が漂っていた。
案内役の刑務官に連れられ、俺たちは一般の面会ルートとは異なる、関係者専用の通路を進んでいく。
足音が響かないリノベーションされた床。
白すぎる蛍光灯。
壁には時計もなく、ここだけ時間の流れが止まっているかのような錯覚を覚える。
まるで病院のようだが、ここにあるのは治療のための設備ではない。
命を、システムとして処理するための場所だ。
「こちらです」
案内されたのは、廊下の突き当たりにある「特別立会室」だった。
加賀がドアを開け、俺を促す。
部屋の中は薄暗かった。
空調の低い唸り音だけが響く静寂の空間。
部屋の中央には革張りの椅子が置かれ、正面の壁一面が巨大なガラス張りになっている。
俺は吸い込まれるように歩み寄り、椅子に深く腰を下ろした。目の前に広がるのは、死の世界だ。
清潔で、何もない空間。
中央の床には赤い枠線が引かれ、その真上に太いロープが垂れ下がっている。絞首台だ。
「マジックミラーになっております」
背後で加賀が静かに告げた。
「こちらの声も姿も、向こうには届きません。……本来、部外者の立ち入りは絶対に許されない場所ですが、今回は『特例』中の特例です」
「……感謝するよ」
俺は短く答え、視線をガラス面に固定した。暗い室内と、明るい処刑室。
その光量差のせいで、ガラスには俺自身の顔が薄く亡霊のように映り込んでいた。
それが一瞬、向こう側のロープの下に立っているように見えて、俺は微かに眉をひそめた。
俺は頭を振り、その残像を振り払う。
「それではアキラ様。私は先に屋敷でお待ちしております」
加賀が一礼して、踵を返した。
「……見ないのか?」
「私の役目は、お嬢様をお守りすること。処刑を見届ける趣味はございませんので」
淡々とした言葉を残し、加賀は静かに部屋を出て行った。
カチャリ、とドアが閉まる音が響く。
完全な静寂。
この薄暗い密室には、俺一人だけが残された。
(……ふぅ)
俺は背もたれに体を預け、大きく息を吐いた。
一人の方がいい。
勝利の瞬間に、誰かの視線を気にする必要はない。
存分に、このカタルシスを味わえる。
(さあ、始めようか)
俺が心の中で合図を送った、その時だった。
向こう側の重い鉄扉が、軋んだ音を立てて開いた。
数人の刑務官に囲まれ、一人の男が入ってくる。
ターゲットだ。
俺の道を塞ぎ、俺の組織を模倣し、目障りなほどスマートに裏社会を支配していた新興組織のリーダー。
男は頭を垂れ、足を引きずっていた。
抵抗する気力も残っていないのか、あるいは薬で鎮静されているのか。刑務官たちに両脇を抱えられ、引きずられるようにして歩を進める。
その顔は、伸びた前髪に隠れてよく見えない。だが、全身から漂う敗北者のオーラが、俺の嗜虐心を微かに刺激した。
(……あんなものが、俺の敵だったのか)
拍子抜けするほどに、脆い。俺が築き上げた包囲網の前では、どんなカリスマもただの肉塊に過ぎないということか。
刑務官たちが、男を赤い枠の中へと誘導する。手慣れた動作だ。事務的で、感情のない作業。
一人が男の足を縛り、もう一人が手錠を確認する。
そして、最後の一人が天井から垂れるロープを手に取り、その輪を広げた。
男の首に、縄がかかる。
終わりだ。これで、俺の復讐の第一幕が閉じる。
刑務官が位置を調整し終え、一歩下がる。まるで「準備完了」と告げるように、静寂が落ちた。
その時。
うなだれていたターゲットの男が、ふと何かを感じたように、ゆっくりと顔を上げた。
長い前髪が揺れ、その下にある素顔が露わになる。
照明の光を浴びたその顔が、
虚ろな目を向けた先は――。
何も見えないはずの、マジックミラーの方角だった。
俺と、目が合った気がした。
(……拝ませてもらおうか。敗者の顔を)
俺は余裕の笑みを浮かべたまま、身を乗り出してその男の顔を覗き込んだ。
――その瞬間。
俺の心臓が、凍りついた。
ガラスの向こう側。
死刑台の上に立たされた男が、虚ろな目でこちらを見つめている。
マジックミラーの特性上、向こうからはこちらの姿など見えないはずだ。
あいつが見ているのは、自分自身の顔が映った鏡面に過ぎない。
だが、俺は確かに目が合ったと感じた。
そして、その顔を認識した瞬間、全身の血が逆流するような悪寒が走った。
(……なんだ、あいつは?)
俺は椅子から身を乗り出し、ガラスに張り付くようにして凝視した。
照明に照らされたその男の顔。
長く伸びた前髪の隙間から覗く、痩せこけた頬。無精髭に覆われた顎。
生気を失った土気色の肌。
まるで死人のような面構えだ。
だが、その骨格、目鼻立ちの配置、唇の形――。
既視感が、津波のように押し寄せてくる。
どこかで見たことがある。
いや、知っている。
あまりにも、よく知っている。
(……まさか)
俺の脳裏に、今朝の記憶がフラッシュバックする。
洗面所の鏡。
ネクタイを締め、自信に満ちた笑みを浮かべていた自分の顔。
目の前の男は、やつれている。髪型も違う。
雰囲気もまるで違う。
だが、そのパーツの一つ一つが、不気味なほどに一致していた。
右目の下にある、小さな泣きぼくろ。眉間の、微かな傷跡。
そして何より、あの目つき。
――俺だ。
そこにいるのは、「俺」だった。
「……は?」
乾いた音が、喉から漏れた。
意味がわからない。理解が追いつかない。
なぜ、俺が向こうにいる?
(ありえない……)
あれは、本物だ。
肉のつき方、骨の形。
作り物ではない、「生きた人間」としての説得力がそこにはあった。
混乱する思考の端で、俺は必死に材料を探す。
誰だ。あの男は、一体何者なんだ。
ガラスを隔てた向こう側で、執行の準備は淡々と進んでいく。
処刑人を務める刑務官が男の背後に回った。
彼は事務的な手つきで、男の首にかかった縄の結び目を調整する。
その動作には、躊躇いも、感傷もない。
ただの「作業」として、俺と同じ顔をした男の命を絶とうとしている。
刑務官の首筋から覗く、鷹のタトゥー。
それが、皮肉なほど鮮明に目に焼き付く。
「……待て」
俺は無意識に呟いていた。
「おい、待てよ。」
声が震える。
何かがおかしい。
決定的に、何かが間違っている。
このまま進めてはいけない。
本能が、サイレンのように警鐘を鳴らしている。
だが、俺の声は届かない。
防音ガラスの向こう側は、完全なる無音の世界だ。
刑務官が一歩下がり、直立不動の姿勢を取る。
準備完了の合図だ。
ターゲットの「俺」の顔をした男が、ふっと目を伏せた。
その表情に、恐怖はなかった。
あるのは、深い諦念と、どこか安堵したような静けさ。
まるで、この結末をずっと前から知っていたかのような。
あるいは、ようやく終わることができると、救いを求めていたかのような。
その横顔を見た瞬間。俺の心臓を、鋭い痛みが貫いた。
ズキンッ!!
頭が割れるように痛む。視界が明滅し、ノイズが走る。
(……ぐっ!)
俺は頭を抱え、前のめりになった。
なんだ、この頭痛は。
いつもの「違和感」とはレベルが違う。
脳みそを直接かき回され、無理やりこじ開けられるような激痛。
記憶の底から、何かが溢れ出してくる。
封印されていた、どす黒い何かが。
耳鳴りがキーンと響き、その奥から、懐かしい声が聞こえ始めた。
『……よぉ、アキラ』
違う。そうじゃない。その声は、本当はなんて言っていた?
歪んだ認識の皮が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
パズルが、音を立てて組み変わる。
目の前の男の顔。刑務官のタトゥー。そして、俺自身の存在。
すべての整合性が取れ始めたとき、俺の世界は音を立てて崩壊を始めた。
世界が、グニャリと歪んだ。
平衡感覚が消失し、自分が椅子に座っているのか、それとも床に転がっているのかさえわからなくなる。
視界が魚眼レンズのように湾曲し、目の前のガラスも、床の赤線も、死刑台の男も、すべてが渦を巻いて混ざり合っていく。
「ぐ、ぅ……あ……ッ!」
吐き気がした。胃の中身をぶちまけるような生理的なものではない。
脳味噌を直接鷲掴みにされ、裏表をひっくり返されるような、魂の拒絶反応。
キーン、という耳鳴りが、頭蓋骨の内側で反響する。その高周波のノイズが、脳の奥底に張り付いていた「蓋」を、内側から弾き飛ばした。
――せきを切ったように、記憶が溢れ出す。
それは、これまで俺が見て、聞いて、知っていたはずの景色。
だが、決定的に「何かが」違っていた。
俺の脳が、勝手に都合よく書き換えていた「真実の音」が、再生される。
『よお、アキラ!』
……違う。そうじゃない。
あいつは、ショウタは、あの日なんて言った?
脳内のノイズが晴れる。音声がクリアになる。
『よお、クジョウ! 今日こそ遅刻じゃないな~!』
クジョウ?俺が?
『ねえ、九条くん。今日の放課後、空いてる?』
桜の声。小学校で出会ったあの日から、彼女はずっとそう呼んでいたのか?
俺の耳が、脳が、勝手に「アキラ」だと誤認していただけで。
フラッシュバックが止まらない。
映像が、高速で切り替わる。
家の押し入れで見つけた茶封筒。
養子縁組の書類。
あの時、俺は「名前」を見たはずだ。
文字が歪み、正しい配列へと再構築される。
『養子縁組届』『養親: ……』『養子:九条 アキラ』
「……ぁ、あ……」
喉から、空気が漏れる。そして、決定的な記憶が突き刺さる。
転生直後の朝。壁にかかっていたカレンダー。
俺は「死刑執行の翌日だ」と認識して、それ以上深く考えなかった。
だが、その「数字」は?
西暦の数字が、網膜に焼き付く。
『20xx年』
……違う。
俺が生きていた時代、俺が死刑になった……。
あの年よりも――数年前だ。
俺は現代にそのまま転生したんじゃない。
過去へ、戻っていたんだ。
そして――最後の一撃。
昨日、死んだ「ネズミ」。
猛の最期の言葉。
『……クジョウ……』
あの日、面会室で。毒に侵され、薄れゆく意識の中で、あいつは俺を真っ直ぐに見ていた。
あれは、黒幕の名前を告げていた。
あいつは気づいていた。
俺が、自分たちのボス(影山)を陥れようとしている黒幕だと気づいて、それを伝えようとしていた。
なのに、俺は……。
「……う、そだ……」
俺は椅子から転げ落ち、床に這いつくばった。
指が絨毯を掻きむしる。
俺が、九条。
俺が、自分を陥れた黒幕。
じゃあ、向こうにいるのは?
首に縄をかけられ、今にも殺されようとしているあの男は?
過去の、俺だ。
俺は、俺自身を殺すために、ここまで来たのか?
復讐だと思って積み上げてきたすべてが、自殺のための準備だったというのか?
思考が焼き切れる寸前。
背後から、氷のような冷気が漂ってきた。
ぞわり、と総毛立つ感覚。
振り返ることもできない俺の耳元で、楽しげな、甘い囁きが響く。
「……ふふ。ようやく気付いたのね」
聞き覚えのある声。
この狂った舞台を用意した、脚本家。
死神。
彼女の細い指が、俺の耳元に伸びる。
「目覚めの時間よ、アキラ」
パチン。
乾いた指の音が、鼓膜を弾いた。
その瞬間。歪んでいた世界が、残酷なほど鮮明な「現実」へと固定された。
目の前のガラスの向こう。死刑台に立つ男の顔が、はっきりと見えた。
それは、紛れもなく――数年前の、俺自身の顔だった。
理解した瞬間、思考が爆発した。
俺が……俺を殺す?
この数年間、俺が積み上げてきたすべては、復讐のためじゃなかった。
ただ、過去の自分を追い詰め、破滅させるための、あまりにも手の込んだ自殺行為だったのか?
そして――猛。あいつは知っていたんだ。「クジョウ」の正体を。
猛を、俺は「邪魔だ」と言って、ゴミのように排除した。
「……あ、あぁ……ッ!」
喉の奥から、獣のような呻き声が漏れた。
足がもつれ、椅子を蹴り倒す。
革張りの椅子が床を転がる音が、静寂を切り裂いた。
俺はガラスに向かって飛び込んだ。
ドンッ!!
全身をガラスに叩きつける。
厚さ数センチの強化ガラスは、びくともしない。痛みなど感じなかった。
「やめろッ!!」
叫んだ。喉が張り裂けるほどの声量で。
「やめろ! そいつは俺だ!!」
拳でガラスを殴りつける。
一度、二度、三度。ガン、ガン、と鈍い音が室内に響くが、向こう側には何一つ届かない。
完全防音。
こちらの世界とあちらの世界は、絶対的に隔絶されている。
ガラスの向こう。刑務官は、俺の声など聞こえていないかのように、淡々と作業を進めていた。
彼の手が、床のレバーに伸びる。
その指には、ためらいがない。
涙なのか、脂汗なのか、視界が滲んでよく見えない。
「殺すな……頼む、殺さないでくれ……!」
祈るような言葉が漏れる。
誰に祈っている? 神か? 悪魔か?いや、俺自身にだ。
俺が蒔いた種が、今、俺を殺そうとしている。
刑務官の手が、レバーを握った。
金属の冷たい質感が、目に見えるようだ。
ターゲットの男――過去の俺が、目を閉じるのが見えた。
その顔は、すべてを諦めていた。
冤罪を着せられ、仲間に裏切られたと思ったまま、絶望の中で死んでいく。
その絶望を作ったのは、全部、未来の俺だ。
「やめろおおおおおおッ!!」
俺は拳が砕けるのも構わず、渾身の力でガラスを殴った。
血が飛沫を上げ、ガラスに赤い花を咲かせる。
だが、届かない。
刑務官の指に力がこもるのが見えた。
間に合わない。
殺される。俺に。
その時。背後で見ていた死神が、くすりと笑った気配がした。
「……かわいそうに。声が届かないなんて」
冷ややかな憐憫。そして、残酷な提案。
「特別に、届けてあげるわ」
死神の白い指先が、目の前の防音ガラスに触れた。
ただ、それだけだった。何かを壊したわけでも、呪文を唱えたわけでもない。
だが、その指先を中心にして、分厚いガラスが水面のように波紋を広げた。
「……ッ!?」
俺が驚愕に目を見開く中、彼女は楽しげに囁いた。
「サービスよ。……最期の別れくらい、ちゃんと伝えてあげなさい」
波紋が広がりきると同時に、俺と彼を隔てていた「世界」の境界が消失した。
物理的なガラスはそこにある。
だが、音と、認識だけが――繋がった。
「やめろぉぉぉッ!!」
俺の絶叫が、今度こそ向こう側に突き刺さった。
その声に反応して、処刑台の上の過去の俺が、ハッとしたように顔を上げ、こちらを見た。
目が、合った。
今度は錯覚じゃない。
鏡の反射でもない。
彼は、確実に「俺」を見ていた。
マジックミラーの向こう側で、血塗れの拳でガラスを叩き、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んでいる、未来の自分を。
俺は息を呑んだ。
(……恨んでるのか?)
当然だ。俺がハメたんだ。
俺が殺すんだ。罵ってくれ。
「お前のせいだ」と叫んでくれ。
そうすれば、少しは楽になれるかもしれない。
だが――違った。
過去の俺の瞳に映っていたのは、憎悪でも、恐怖でもなかった。そこにあったのは、静かな「納得」と、深い「哀れみ」だった。
彼は、ガラスの向こうで発狂している俺を見て、ふっと小さく微笑んだように見えた。その唇が、音もなく動く。
『……なんだ。泣いていたのは、お前(俺)だったのか』
その言葉が、直接脳内に響いた気がした。
処刑のあの時。
死刑台の俺が聞いた「誰かの泣き声」。
見つめた「黒い影」。
あれは、死神でも悪霊でもなかった。未来で絶望し、自分自身を殺してしまった、俺自身の慟哭だったんだ。
「あ……、あぁ……」
俺の喉から、言葉にならない音が漏れた。
叫び声は、もはや意味を成さない。
ただの、ひび割れた嗚咽となって、静寂な処刑室に響き渡る。
過去の俺は、もう俺を見ていなかった。
彼は前を向き、刑務官に背を預けた。その背中は、「やれ」と語っていた。
「やめ……ろ……」
俺のか細い制止の声は、無慈悲な金属音にかき消された。
――ガシャンッ!!
床板が外れる、乾いた音。
ドスンッ、という重い落下音が響き、太いロープがピンと張り詰める。
キチキチと、縄が軋む音。
俺の目の前で。俺と同じ顔をした男が、宙に吊り下げられ、揺れていた。
痙攣する手足。苦痛に歪む顔など見たくないのに、俺の目は釘付けにされたまま閉じることができない。
ゆらり。ゆらり。
まるで振り子のように。俺の犯した罪の重さを刻むように、死体は揺れ続けた。
終わった。本当に、終わってしまった。
俺はガラスに手をついたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
世界が、灰色に塗り潰されていた。
目の前で揺れている物体が、自分自身であるという事実。
それを殺したのが、自分自身の命令であるという事実。
そして、助けようとしていた部下を、自らの命令で葬ったという事実。
許容量を超えた絶望は、もはや感情として認識できなかった。
ただ、内臓が裏返るような嘔吐感と、魂が凍りつくような寒気だけが、そこに残っていた。
「…………」
俺は床に突っ伏し、胃液を吐き戻した。
酸っぱい臭いが鼻をつくが、それを拭う気力すらない。指一本動かせない。
俺の中の「生きようとする力」が、完全に枯渇していた。
パチ、パチ、パチ。
静寂な部屋に、乾いた拍手の音が響いた。
ゆっくりと、リズムよく。まるで、素晴らしい喜劇を見終えた観客のように。
「ブラボー」
艶やかな声が、頭上から降ってくる。
「最高よ、アキラ。……いえ、今は『九条』と呼ぶべきかしら?」
顔を上げることもできない俺の視界に、黒いハイヒールが入ってきた。
彼女は俺の横にしゃがみ込み、まるで愛しいペットを見るような目で、壊れた俺を覗き込んだ。
「……な、ぜ……」
俺は掠れた声で、問いを絞り出した。
喉が血の味がする。
「なぜ、こんな……ことを……」
「あら、心外ね」
彼女はくすりと笑い、俺の髪を優しく撫でた。その指先は氷のように冷たかった。
「私がさせたんじゃないわ。……全部、あなたが望んだことよ」
「……あ?」
「思い出してごらんなさい? 契約の時、あなたは言ったわ。『力が欲しい』『復讐したい』って」
彼女は歌うように続ける。
「だから、叶えてあげたの。あなたは過去に戻り、強大な力を手に入れ、自分を陥れた敵対組織のボスを追い詰め、そして殺した。……完璧な復讐劇じゃない?」
「ふざ、けるな……! そいつは、俺だ……! 過去の、俺自身だぞ……!」
「ええ、そうね。それが『ウロボロス』よ」
彼女は恍惚とした表情で、ガラスの向こうの死体を指差した。
「自らの尾を食らう蛇。……あなたは、あなた自身を殺すことでしか、復讐を完成させられなかった。だって、あなたを一番苦しめていたのは、いつだって『あなた自身の選択』だったんだから」
詭弁だ。
だが、今の俺にはそれを否定する論理すら組み立てられない。
俺が選んだ。俺が命じた。俺が見に来た。
すべて、俺の選択の結果だ。
「……あ、ああぁ……」
俺の体から、力が抜けていく。
指先一つ動かせない。
思考すら、灰になって崩れ落ちていく。
その時。
背後から、ぬるりとした感触が俺の首筋を這った。
氷のように冷たい腕が、背後から俺の首に回される。
抱擁。
まるで恋人にするような、甘く、そして拘束するような抱擁だった。
「……んっ、はぁ……」
耳元で、熱っぽい吐息が漏れる。
死神だ。
彼女は俺の耳を甘噛みするような距離で、恍惚とした声を上げた。
「素晴らしいわ、アキラ。……今のあなた、最高に綺麗よ」
彼女の指が、俺の頬を伝う涙をすくい取る。
そして、その指を自身の口に含み、陶酔したように目を細めた。
「……味がするわ。後悔、自己嫌悪、無力感。……数千、数万の魂を啜ってきたけれど、自分の過去を殺した男の絶望ほど、芳醇な蜜はない」
俺は振り払おうとしたが、金縛りにあったように体が動かない。
彼女の存在そのものが、俺という「個」を侵食してくる。
「……ふざ、けるな……!」
絞り出した声は、嗚咽に混じって消えた。
「ふざけてなどいないわ。私は、あなたを賞賛しているの」
彼女は俺の顔を覗き込み、女神のように慈悲深く、そして悪魔のように残酷に微笑んだ。
「思い出してごらんなさい? 契約のあの日、あなたは私に何を願った?」
彼女の冷たい指先が、俺の唇をなぞる。
「『力が欲しい』『復讐したい』『誰にも負けたくない』……そう叫んだのは、誰?」
逃げ場のない問い。
「私は叶えてあげただけ。あなたは力を手に入れ、誰にも負けず、そして……憎き『敵(自分)』を殺した。完璧なハッピーエンドじゃない?」
「ちがう……! 俺は、こんな結末なんて……!」
「いいえ、あなたが選んだの。一つ一つの選択が、この最高の喜劇を作り上げたのよ」
彼女は俺の胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、彼女の掌を通じて直に伝わってくる。
「この高鳴る心臓も、流れる血も、すべてはこの瞬間のためにあった。……ああ、愛おしい。あなたのその『虚無』が、私を満たしていく……」
ズズズ……ッ。
胸の奥から、何かが引き抜かれる感覚がした。
生きる気力。希望の残滓。
それらが根こそぎ、彼女の掌へと吸い込まれていく。
俺の中が、空っぽになる。
彼女は満たされたように息を吐き、ゆっくりと体を離した。
その顔は、食事を終えた猛獣のように艶やかで、同時に、どこか寂しげでもあった。
「ごちそうさま。……期待以上だったわ」
彼女は立ち上がり、ガラスの向こうで揺れる死体に一瞥をくれた。
「さようなら、アキラ。……いえ、これからは『抜け殻』として、この世界を這いずり回るといいわ」
彼女の姿が揺らぐ。
黒い霧となり、天井の闇へと溶けていく直前、彼女は最期にこう言い残した。
「……永遠に、この痛みを忘れないでね。それが、私とあなたの『契約』なのだから」
その言葉には、嘲笑だけではない、粘着質な執着がこびりついていた。
後には、静寂だけが残された。
俺は、抜け殻になった。
涙も枯れた。声も出ない。
ただ、ガラスの向こうで揺れる「自分」の死体を、虚ろな目で見つめ続けることしかできなかった。
死神が去った後の部屋には、重苦しい静寂だけが残った。
空調の低い唸り音。
自分の荒い呼吸音。そして、ガラスの向こう側から微かに伝わる、ロープが軋む音。
キチ、キチ……。
その音が、メトロノームのように俺の心臓を刻む。
俺は床に座り込んだまま、指一本動かせなかった。
終わった。何もかも。
復讐だと思っていたものは自殺で。
勝利だと思っていたものは敗北だった。
俺の中身は、さっきの死神にすべて吸い尽くされたようだ。
怒りも、悲しみも、後悔すらも湧いてこない。
ただ、胸の真ん中に巨大な風穴が空いて、そこを冷たい風が吹き抜けているだけだ。
(どこかへ消えたい)
そう思った。
どこへ?家に?
いや、俺に帰る場所なんてあるのか?
「九条」としての過去を殺し、「アキラ」としての未来も失った俺に。
静寂を破り、ポケットの中でスマホが震えた。
無機質なバイブレーションの音が、やけに大きく響く。
俺は緩慢な動作で、ポケットに手を突っ込んだ。
震える指で操作をするが指先の感覚がない。
取り出したスマホの画面は、ひび割れているように見えたが、それは俺の涙で滲んでいるだけだったかもしれない。
通知が表示されている。
送信者:澪
その名前を見た瞬間、俺の中で止まっていた時間が、僅かに針を進めた。
澪。
震える指で、メッセージを開く。
『全て終わったようね』
短い一文。慰めも、嘲笑もない、事実だけの確認。
『話があるわ。いつもの場所で待つ』
「いつもの場所」。
「話がある」という言葉だけが、今の俺を現世に繋ぎ止める唯一の蜘蛛の糸のように思えた。
俺はスマホを握りしめ、床に手をついた。
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
生まれたばかりの仔鹿のように膝が震える。
それでも、俺は壁に手をつき、なんとか体を起こした。
ガラスの向こうを見る。吊るされた男は、もう動かない。
彼は静かに、俺の行く末を見下ろしているようだった。
「……あぁ」
さよなら、影山アキラ。
俺はふらつく足取りで、出口のドアへと向かった。
ノブに手をかける。冷たい金属の感触が、俺の手のひらに現実を教える。
ガチャリ。
ドアを開けると、そこには変わらない廊下の明かりがあった。白く、眩しく、何の感情もない光。
俺はその光の中へと、幽鬼のように歩き出した。
地獄の底から這い上がった先には、まだ続きがあるらしい。
それが救いなのか、それとも更なる罰なのかはわからないけれど。
背後で、特別立会室のドアが閉まる音がした。
重く、鈍い音が、俺の過去を永遠に閉じ込めた。




