89話 桜
深夜。
私の部屋は、カーテンを閉め切ったまま、わずかな常夜灯の明かりだけが灯っていた。
広いベッドの上、私は膝を抱えて座り、耳に押し込んだイヤホンからの「音」に全神経を集中させていた。
――ザザッ……というノイズの向こう側。
アキラの声が、鼓膜を震わせる。
『……そうだ。奴を追い詰める準備は整った』
アキラの声。
低く、冷たく、そしてどこか切迫した響き。
彼が誰かと話している。おそらく、不破さんか南雲さんあたりだろうか。
『あの組織のリーダー……必ず、俺の手で終わらせる』
彼の声には、深い憎悪が滲んでいた。
ただの敵対心ではない。もっと個人的で、粘りつくような執着。
まるで、その「リーダー」という存在が、アキラの世界のすべてを黒く塗りつぶしているかのようなそんな響きだった。
私は、膝に顔を埋めたまま、小さく溜息をついた。
(……また、あの男の話)
最近のアキラは、ずっとそうだ。
私といても、心ここにあらず。
彼の視線の先には、いつも「見えない敵」がいる。
新興組織を統べるという、正体不明の男。
アキラはその男を憎んでいる。
それと同時に、その男のことばかり考えている。
(……嫌だ)
胸の奥で、黒い濁りのようなものがぷくりと泡立つ。
嫉妬? いいえ、もっと純粋な憤りだ。
あのアキラをここまで苦しめ、悩ませ、私を見る時間すら奪っている「誰か」。
そんな邪魔者が、この世界に存在していること自体が許せなかった。
『……奴さえいなければ、全てが終わる』
イヤホン越しのアキラが、独り言のように呟く。
その声の、なんと苦しげなことか。
私はゆっくりと顔を上げ、暗闇の中で微笑んだ。
そうね、アキラ。
あなたがそんなに苦しんでいるなら、私が楽にしてあげる。
手を汚す必要なんてないわ。
邪魔をするものは、私が全部、綺麗にお掃除してあげるから。
私は耳からイヤホンを外し、スマホを手に取った。
画面をタップし、たった一人の男を呼び出す。
コール音は鳴らない。即座に繋がる。
『……お嬢様。いかがなさいましたか』
加賀の静かな声。
私は、甘えるような、けれど絶対的な命令を含んだ声で告げた。
「加賀。……お願いがあるの」
◇
本邸の執務室。
加賀は、私の言葉を聞いて、珍しく絶句していた。
いつも鉄仮面のような彼が、目を見開き、困惑の色を隠せずにいる。
「……お嬢様。今、なんと仰いましたか?」
私はデスクに頬杖をつき、退屈そうに繰り返した。
「だから、死刑にして、って言ったのよ。あの男を」
アキラが敵対している組織のリーダー。
彼は今、警察の手によって拘置所にいる。
アキラたちが仕組んだ証拠によって逮捕され、裁判を待っている状態だ。
でも、それじゃ遅い。
裁判なんて悠長なことをしていたら、いつまでもアキラの心は晴れないわ。
「……法的手続きを無視しろと仰るのですか。それはあまりにも……」
「伊集院家の力があれば、できるでしょう?」
私は加賀の言葉を遮った。
「司法省、検察庁、拘置所の所長……コネクションはいくらでもあるはずよ。『超法規的措置』。あるいは『特例』。何と呼んでもいいわ。とにかく、あの男の判決を急がせて。そして、即刻、執行させるの」
加賀は苦渋の表情を浮かべた。
「リスクが高すぎます。それに、そこまでする理由が……」
「理由?」
私は立ち上がり、加賀の目の前まで歩み寄った。
彼を見上げ、まっすぐに見つめる。
「アキラのためよ」
その一言で、加賀が息を呑むのがわかった。
「あの男がいる限り、アキラはずっと苦しみ続ける。縛られ、あいつの対応に囚われ続ける。……見ていられないのよ。あんなに辛そうな彼を」
私の目から、自然と涙がこぼれ落ちた。
演技じゃない。
アキラが苦しむ姿を想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。
「私が……アキラを守るって決めたの。彼を脅かすものは、たとえ神様だって許さない。……お願い、加賀。私のワガママを聞いて」
涙声で懇願する私を見て、加賀の瞳が揺れた。
彼は知っている。
私が一度こうと決めたら、絶対に引かないことを。
そして何より、彼自身もまた、アキラという少年に恩義を感じていることを。
長い沈黙の後。
加賀は深く、深く溜息をつき、そして跪いた。
「……御意。すべては、お嬢様の御心のままに」
忠誠の誓い。
私は涙を拭い、満足げに微笑んだ。
「ありがとう、加賀。……それと、もう一つ」
私は彼の耳元で囁く。
「対応する人は、私が選ぶわ」
◇
地下訓練場。
深夜の静寂の中、サンドバッグを叩く重い音だけが響いていた。
汗に濡れた背中。獣のような息遣い。
黒鉄牙。
アキラが拾い、育て上げた狂犬。
私が近づくと、彼は拳を止め、振り返った。
その目には、私への敬意など欠片もない。あるのは、アキラへの絶対的な服従だけだ。
「……何の用だ、お嬢様」
不機嫌そうに吐き捨てる彼に、私は一枚の書類を黒鉄へ見せつけた。
「お仕事よ、黒鉄くん。……いえ、看守さん」
黒鉄は眉をひそめ、書類を受け取る。
そこには、偽造された経歴書と、とある拘置所への配属命令が記されていた。不破さんが手配した、彼の潜入ルートの証拠だ。
「……あぁ? よく調べたな。俺の仕事の事を……」
「アキラのためよ」
その名前を出した瞬間、彼の目の色が変わった。
「アキラが狙っている『敵』がいるわね? 今、檻の中にいるあの男よ」
私は、アキラが憎んでいる相手。
新興組織のリーダーの写真を見せた。
黒鉄の喉が鳴る。
「全て知っているってことか?」
「ええ。アキラはこの男の死を望んでいる」
私は黒鉄の腕に触れた。
筋肉が鋼のように硬直している。
「刑務官として潜入してるでしょ。私が色々細工したから、近々動きがあるわ。……あの男は、法の手によって裁かれる。私がそう決めたの」
「……へぇ…お嬢様は無茶苦茶だな」
「ただ、一つ問題があってね」
私は声を潜め、もう一枚の写真を見せた。
拘置所の面談申込をしている姿が映り込んだ写真。
「ネズミよ。……アキラの周りを嗅ぎ回る、目障りなのが一匹。どうやら、処刑される前のリーダーと接触しようとしているみたい」
黒鉄の目が、獲物を見つけた獣のように細められた。
「……なるほどな。そいつがボスの邪魔をするってか」
「そうよ。……あの男が死ぬ瞬間を、誰にも邪魔されたくないの。だから、あなたにしかできない、大事な役目があるわ」
私は彼の目を見据え、甘く囁くように命じた。
「このネズミを、排除して。……徹底的に」
黒鉄の口元が、三日月形に歪んだ。
凶悪で、歓喜に満ちた笑み。
「……へっ、上等だ。死刑囚のお守りより、害獣駆除の方が性に合ってる」
「頼んだわよ」
そして、私は彼の首元へと視線を移した。
制服の襟に隠れる位置。
そこには、彼が暗部に入った際に、暗部から彫られた消えない刻印があるはずだ。
「それと……その首のタトゥー、見せて」
黒鉄は無造作に襟を広げ、肌に刻まれた紋様を晒した。
翼を広げた「鷹」。
伊集院家の紋章を上下反転させたもの。
伊集院家の暗部、その中でも汚れ仕事を請け負うものだけが持つことを許される識別印。
「……あぁ? これか。もう馴染んだぜ」
「そう。……その『鷹』の紋章こそが、あなたがアキラの『代行者』である証よ」
私は指先で、その紋章をなぞるふりをした。
「汚い仕事は、そのタトゥーが引き受けてくれる。……だから、遠慮なく殺りなさい」
黒鉄はニヤリと笑い、襟を戻した。
「了解だ。……ボスへの最高のプレゼントにしてやるよ」
◇
数日後。
私の部屋のモニターに、一枚の報告書が表示された。
『執行日時、確定。……明日、午後二時』
早すぎる死刑執行確定。
異例中の異例。
法治国家の原則すらねじ曲げた、伊集院家の力の証明。
窓の外を見ると、空は抜けるように青かった。
アキラは今頃、何をしているだろうか。
何も知らず、ただ憂鬱な顔をして、空を見上げているかもしれない。
(……ふふ)
私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、かつてないほど穏やかで、幸福そうな笑顔が浮かんでいた。
アキラに、メッセージを送ろうか迷った。
『あなたの邪魔者は、もうすぐいなくなるわ』と。
でも、やめた。
スマホを握りしめ、首を振る。
いいえ。言わなくていい。
私がやったなんて知られたら、彼は怒るかもしれない。
彼には、綺麗なままでいてほしい。
汚れ仕事は、全部私が背負うわ。
アキラ。
あなたの敵は、私が全部消してあげる。
あなたを縛るすべての敵を、私が断ち切ってみせる。
そうすれば、あなたはきっと……。
――私だけを見てくれるはずだから。
私は閉ざされたカーテンの隙間から差し込む光に目を細め、恍惚としたため息をついた。
さあ、終わらせましょう。
そして、始めましょう。
私たちだけの、永遠の楽園を。




