88話
洗面台の蛇口を捻ると、冷たい水が勢いよくほとばしった。
両手ですくい、顔に叩きつける。
冷気が皮膚を刺し、思考の熱を強制的に奪っていく。
顔を上げ、鏡の中の自分を見る。
水滴が滴るその顔は、若さを保ちつつも、瞳の奥だけが冷たく、酷く静かだった。
報告によれば不破と南雲による工作は完了した。
ターゲットへの包囲網は、もはや逃げ場のないところまで狭まった。
警察のデータベースにねじ込まれた決定的な証拠。
カネの流れ、人の動き、すべてを遮断し、孤立無援の状態で檻に叩き込む準備は整った。
(……終わるな)
タオルで顔を拭きながら、俺は無感情に確認する。
俺の美学を模倣する不愉快な偽物。
そいつを社会的に抹殺し、すべてを奪い取る。
そのことに高揚感はない。
ただ、長く続いた作業に一つ、終止符を打つだけの事務的な感覚だ。
鏡の中の俺は、微動だにせずこちらを見返していた。
そこにあるのは、復讐という目的のために研ぎ澄まされた、ただの機能としての「俺」だけだった。
◇
夕刻。
伊集院家の広大な敷地内にある日本庭園。
手入れの行き届いた松の枝が、夕陽を背負って黒いシルエットを描いている。
俺は、桜の数歩前を歩いていた。
並んで歩くような距離感ではない。
砂利を踏む音だけが、不自然なほど大きく響く。
ここ数日、俺は彼女とまともに言葉を交わしていなかった。
避けていたわけではない。
ただ、語るべき言葉がなかった。
俺の目はすでに「敵」しか見ておらず、彼女のいる日常は、遠い背景のように霞んでしまっていたからだ。
「……アキラ」
背後から、ぽつりと名前を呼ばれた。
俺は足を止め、ゆっくりと振り返る。
桜は、数メートル離れた場所に立ち尽くしていた。
夕陽が彼女の表情を逆光で隠している。
だが、その立ち姿からは、張り詰めた糸のような緊張感が伝わってきた。
「なんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
桜は一歩も動こうとしない。
ただ、じっと俺を見つめている。
その視線は、俺という人間を見ているようで、その実、俺の輪郭の向こう側にある「空虚」を見透かしているようだった。
「……遠いね」
彼女の声が震えた。
「すぐそこにいるのに。……アキラが、どこにもいないみたい」
俺は眉をひそめた。
「何を言ってる。俺はここにいる」
「ううん。違う」
桜は首を横に振った。
拒絶ではなく、確信を持った否定。
「私には何も教えてくれない。何をしてるのかも、何を考えてるのかも。……でも、わかるの。アキラは今、何かを決めて、どこかへ行こうとしてる」
彼女の勘は、時として論理を飛び越える。
俺が計画していること、組織のこと、敵のこと。
彼女は何ひとつ知らないはずだ。
それなのに、俺が「終わり」へ向かおうとしている気配だけを、正確に嗅ぎ取っている。
桜が一歩、踏み出してきた。
すがるように、俺の袖を掴む。
「ねえ。……いなくならないよね?」
子供のような問いかけ。
だが、その瞳は悲痛だった。
「全部終わったら、戻ってくるよね? また、普通に話して、笑って……私のそばにいてくれるよね?」
俺の心臓が、冷たく収縮した。
全部終わったら。
敵を消し、クジョウを見つけ復讐を遂げたら。
そこに残るのは何だ?
俺という存在は、転生と復讐という矛盾の上に成り立っている。
その矛盾が解消された時、俺はここに立っていられるのか。
答えは、俺にもわからない。
だから、俺は……。
「……ああ。どこにも行かない」
俺は、袖を掴む彼女の手に、自分の手を重ねた。
温かい。
血の通った、生きている人間の温度だ。
俺がこれから捨てようとしている、日常の温度。
「お前を守るって約束しただろ。……俺はそのために動いてるだけだ」
桜は、俺の手を見つめたまま、動かなかった。
俺の言葉を信じたのか、それとも、信じたふりをしたのか。
彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の目を見た。
その瞳に映っていたのは、安堵ではなかった。
諦めにも似た、深い悲しみだった。
「……嘘つき」
蚊の鳴くような声。
風が吹けば消えてしまいそうなほど、儚い響き。
桜は、重ねられた俺の手を、ぎゅっと握り返した。
痛いほど強く。
まるで、今こうして繋ぎ止めておかなければ、俺が煙のように消えてしまうとでも思っているかのように。
「でも、いいよ。……アキラが決めたことなら」
彼女は無理に口角を上げ、笑ってみせた。
それは、泣き顔よりもずっと痛々しい笑顔だった。
「行ってらっしゃい。……でも、絶対に、帰ってきてね」
俺は何も言えなかった。
肯定も、否定もできなかった。
ただ、彼女の頭に手を置き、一度だけポンと撫でた。
それが、俺のできる精一杯の答えだった。
俺は背を向け、歩き出した。
背後で、桜が立ち尽くしている気配を感じる。
だが、もう振り返らなかった。
これ以上、彼女の顔を見てしまえば。
この温もりに触れてしまえば。
俺の決意が……復讐のために研ぎ澄ませた刃が、鈍ってしまう気がしたからだ。
空を見上げると、一番星が白く光っていた。
覚悟は決まった。
もう、後戻りはできない。
俺はポケットの中で拳を握りしめた。
誰のためでもない。俺自身のために。
過去という呪いを断ち切るために。
嵐の前の、最後の静寂。
俺はただ一人、来るべき「断罪」の時へと歩を進めた。




