87話 不破
港区のタワーマンション、最上階。
防音扉で閉ざされた一室は、無数のモニターが放つ冷たい青光に満たされていた。
サーバーの駆動音が低く唸る中、不破蓮は紅茶のカップを傾けながら、画面を流れるデータの滝を眺めていた。
「……しつこいネズミね」
彼女が監視しているのは、Cルート・資金洗浄ラインの周辺を嗅ぎ回っている「ネズミ」の動向だ。
アキラが「消せ」と命じ、ネズミは包囲網をすり抜け、潜伏を続けている。
「捕まらないことに関しては天才的ね。……褒めてあげるわ」
不破は冷ややかに呟き、キーボードを叩いて監視レベルを引き上げた。
今のところ、実害はない。
だが、放置すればいずれこちらの足元である「ウロボロス」の存在に辿り着くリスクがある。
その時、サブモニターにポップアップウィンドウが表示された。
暗号化された通信。
例の敵対組織の内部に潜らせていた「モグラ」からの定期報告だ。
『調査報告:組織トップ(ターゲット)の所在および個人情報の特定に成功』
不破の目が細められた。
アキラが執着し、狩ることを望んでいた「敵の王」。
その正体が、ようやく割れたのだ。
「……へぇ。ようやく尻尾を出したわね」
彼女は添付されたファイルを開く。
そこに表示された顔写真とプロフィールを見て、不破はほう、と小さく息を吐いた。
「なるほど……。」
モニターに映っているのは、意外なほど若く、そしてどこか冷めた目をした男だった。
アキラが警戒するのも無理はない。
写真から滲み出る雰囲気は、確かにアキラと同質の「何か」を感じさせる。
(これが、敵のボス……)
だが、次の行に記された報告内容を見て、不破の指が止まった。
『警告:ネズミが、現在、ターゲットとの接触ルートを探っている形跡あり』
思考が加速する。
ネズミと、ボス……。
この二人が接触する?
何のために?
情報交換か、それとも取引か。
どちらにせよ、それは「ウロボロス」にとって計算外のノイズだ。
もし二人がこちらの情報を共有することになればアキラの計画の根幹が揺らぐ可能性がある。
「……会わせるわけにはいかないわね」
不破はインカムに手を当て、アキラへの専用回線を開いた。
判断を仰ぐ必要がある。
『……』
コール音が虚しく響くだけで、応答はない。
GPSを確認すると、信号は伊集院家の本邸にある。
今は晩餐会の真っ最中だ。
アキラは神経を尖らせて「政治」の場に立っているのだろう。
(……繋がらない、か)
不破は通話を切り、椅子に深く体を預けた。
ボスは忙しい。
ならば、参謀である私が、最適な解を用意しておくべきだ。
ネズミを始末するのは難しい。
奴は逃げることに特化している。
ならば……ターゲットの方を動かせなくすればいい。
殺す?
いや、相手は巨大組織のトップだ。
暗殺に失敗すれば全面戦争になり、こちらの正体が露見するリスクがある。
もっと確実で、スマートで、アキラが好むような「手品」が必要だ。
(……物理的に隔離してしまえばいい)
社会的に殺す。
国家権力という最強の暴力を使って、ターゲットを檻の中に閉じ込めてしまえば、ネズミとの接触は物理的に不可能になる。
そして、檻の中に入ってしまえばそこはもう、こちらの庭だ。
「ふふ。……悪くない手だわ」
不破はインカムのチャンネルを切り替え、冷静な声で呼びかけた。
「……ミナ、聞こえる?」
一瞬のノイズの後、やけに明るい声が返ってきた。
『はーい!聞こえてるよ、れーちゃん!どうかした?夜食のデリバリーでも頼む?』
軽薄な口調。
だが、その背後で凄まじい速度のタイピング音が響いているのが分かる。
彼女もまた、この時間の「仕事」中なのだ。
「仕事よ。……警察のデータベースに裏口から入りなさい」
『おっ、警察?また危ない橋渡るねぇ。で、何すればいいの?』
「プレゼントを置いてきてほしいの」
不破は手元のタブレットで、ターゲットの顔写真と捏造された犯罪データを南雲の端末へ転送する。
殺人教唆、資金洗浄、違法取引。
彼がやっていそうな、しかし決して証拠を残さないような犯罪の「完璧な証拠」だ。
「ターゲットのPCから押収されたことにして、この証拠データを警察の重要犯罪捜査ファイルにねじ込んで。……それと同時に、匿名通報のログも生成して」
一瞬、タイピングの音が止まった。
『うわぁ……えぐいねぇ。これ、完全に冤罪工作じゃん。……でも、了解!すぐ終わらせるよ』
再び、より激しい打鍵音が響き始める。
『セキュリティのファイアウォール突破……ログの改竄完了。……はい、送信! 警察のサーバーに、とっても素敵な証拠品をお届けしましたー!』
南雲の報告と同時に、不破のモニターの一つに「警視庁サーバー:データ更新確認」のログが表示された。
仕事が早い。
彼女の指にかかれば、国家権力のシステムなど紙屑同然だ。
「完璧よ、ミナ。……これでターゲットにはいずれ逮捕状が出るわ」
『へへっ、任せてよ!……で、次はどっち?』
「次は黒鉄よ。回線を繋いで」
不破は満足げに頷き、次の駒へと手を伸ばした。
根回しは完了した。あとは、執行するだけだ。
不破は片手でスマホを取り出し、黒鉄への回線を開いた。
『……あぁ? なんだよ』
不機嫌そうな低い声。
背後からは、サンドバッグを叩く重い音が聞こえる。
相変わらず、暗部での訓練に明け暮れているらしい。
「仕事よ、黒鉄。……近いうちに、大きな獲物が檻に落ちるわ」
『檻?』
「ええ。ボスが狙っている『敵の親玉』を、警察に売ることにしたの。……彼は遠からず、拘置所へ送られることになるでしょうね」
黒鉄が鼻を鳴らす音が聞こえた。
『警察任せかよ。つまんねぇな。俺が直接叩き潰しに行ってもいいんだぜ?』
「駄目よ。今回は『隔離』が目的だから。……でも、安心して。あなたの出番はあるわ」
不破はモニターに映るターゲットの顔写真を冷ややかに見つめながら、指示を飛ばす。
「ターゲットが檻に入ったら、あなたも入りなさい」
『……は?』
「伊集院家の『暗部』なら、それくらいの裏ルートは持っているでしょ?看守でも、出入りの業者でもいいわ。潜入する準備だけしておいて」
不破は伊集院家と直接の繋がりはない。
だが、黒鉄がそこで「飼われている」ことは知っている。
あの家の力を使えば、刑務所への潜入など造作もないはずだ。
『……なるほどな。檻の中で、逃げ場のない獲物をいたぶれってか?』
「そういうこと。……ネズミが面会に来る可能性もあるわ。網を張っておくのよ」
黒鉄の喉が、嬉しそうに鳴った。
『へっ、上等だ。……看守の真似事なんてガラじゃねぇが、ボスのためならやってやるよ』
通話が切れる。
不破は満足げに息を吐き、紅茶を一口すすった。
アキラが表の舞台で戦っている間に、裏の盤面は私が整える。
ターゲットを社会から抹殺し、檻の中に閉じ込め、逃げ場をなくしたところでアキラに捧げるのだ。
「……チェックメイトの準備は進めておくわ。ボス」
不破は妖艶に微笑み、エンターキーを叩いた。
南雲が仕込んだ偽造データが、デジタルの海を通って警察のサーバーへと深く根を下ろしていく。
見えない包囲網が、静かに、確実に狭まり始めていた。




