86話
豪奢なシャンデリアが放つ光の洪水が、会場にひしめく正装の人々を照らし出していた。
伊集院家主催の晩餐会。
表向きは財界人や政界の重鎮を招いた社交の場だが、その実態は、主を失った巨大組織の覇権を争う、血の流れない戦場だ。
グラスが触れ合う軽やかな音と、洗練された会話の端々に、粘着質な欲望が見え隠れする。
「……桜様。少しお疲れの色が見えるようですな」
白髪の老人が、頭を下げながら近づいてきた。
分家の筆頭格の伊集院重蔵だ。
にこやかな笑みを浮かべているが、その目は桜の隙を、あるいは精神的な脆さを値踏みしている。
「当主代行という重責、まだ十代の御身には荷が重すぎるのでは?我々が補佐として実務を引き受けましょう」
補佐とは名ばかりの、実権の剥奪。
桜の肩が微かに強張るのがわかった。
彼女は気丈に背筋を伸ばしているが、ドレスの下で握りしめた拳が震えている。
俺は、無言で桜の半歩前に出た。
無邪気さを装った仮面を被り、ニッコリと笑いかける。
「重蔵様、ご心配には及びませんよ。桜様はすでに旦那様の業務を90%以上こなしております」
老人の目がすっと細められ、不快げに俺を見下ろした。
「……君は、たしか。居候の……」
「ええ。桜様の『友人』です。……ところで重蔵様、先日御社の系列企業で起きた不正会計の件、処理はお済みですか?まだ火消しに追われていると聞きましたが……そんな状態で本家の『補佐』など、手が回るのでしょうか?」
俺は声を潜め、彼にだけ聞こえる音量で囁いた。
これは以前、澪から仕入れたネタだ。
老人の顔色が一瞬で変わる。笑顔が引きつり、焦りの色が浮かぶ。
「な、何を……」
「桜の負担を減らしたいというお気持ちは受け取っておきます。……ご自分の足元が固まってから、またお越しください」
俺は一礼し、桜の手を引きその場を離れた。
背後で老人が立ち尽くしている気配を感じながら、俺は小さく息を吐く。
(……一匹、排除)
だが、これで終わりではない。
会場にはまだ、桜の座る玉座を狙うハイエナたちが無数に潜んでいる。
俺は視線を巡らせ、敵対勢力の配置と動向を読み取る。
「……ありがとう、アキラ」
桜が、俺の袖を掴みながら小声で言った。
「弱みを見せるな。弱みを見せれば、すぐに食い殺されるぞ」
俺は前を向いたまま、冷たく、しかし彼女を安心させるように強く手を握り返した。
「大丈夫だ。この場所は、桜のお父さんが帰ってくるまで誰にも渡さない」
俺の言葉に、桜の手がさらに強く俺を握りしめ返してくる。
その信頼の重みが、まるで伊集院家の掌握が進んでいるかのように感じて、今の俺にとっては心地よかった。
この場所こそが、俺の足場だ。
伊集院家という巨大な力を掌握し、俺の手駒とするための最前線。
誰にも邪魔はさせない。
どんな些細な綻びも、俺が事前に摘み取ってみせる。
その時、耳元のインカムにノイズが走った。
『……ボス、聞こえる?』
不破の声だ。
俺は表情を変えず、グラスを傾けるふりをして口元を隠した。
「どうした。今は取り込み中だ」
『緊急の報告よ。……Cルート、資金洗浄のライン周辺で、妙な動きがあるわ』
不破の声は淡々としていたが、切迫した響きを含んでいた。
『一匹のネズミが嗅ぎ回っている。かなり鼻が利くみたい。……このまま放っておけば、資金の流れを遡って、こちらのウロボロスまで辿り着く可能性があるわ』
俺の眉が、わずかにピクリと動いた。
(……ネズミ?)
今、このタイミングでか。
目の前には、これから会談を行う予定の伊集院家の最重要人物たちが待っている。
ここでの振る舞いが、俺と桜の地位を盤石にするかどうかの分水嶺になる。
一分の隙も、一秒の思考の遅れも許されない状況だ。
そんな時に、足元をすくわれるような真似はさせない。
「……正体は?」
『まだ不明。でも、しつこいのは確かよ。……どうする?特定まで待つ?』
桜が、不安そうに俺の顔を見上げている。
その先には、重鎮たちが座る個室の扉が見えており、加賀が扉の横で待っている。
もう、時間がない。
俺の思考は、冷徹にコストとリスクを天秤にかけた。
(……チッ、面倒な)
俺の計画に水を差すな。
正体がバレれば、伊集院家への潜入も、復讐の準備も、すべてが水の泡になる。
そんなリスクを抱えるくらいなら――。
俺は、吐き捨てるように命じた。
「……消せ」
『……こっちでやっていいの?』
「構わない。やり方は任せる」
それだけを告げ、通信を切った。
インカムから流れるノイズが消え、再び会場の華やかな音楽が耳に戻ってくる。
俺は一度深く呼吸をし、仮面を貼り直した。
俺の道を塞ぐ石ころは、蹴り飛ばすだけだ。
「……行こう、桜」
俺は桜に向き直り、優しく微笑んで手を差し出した。
「ああ、アキラ……」
彼女は安堵したように微笑み、俺の手を取った。
その手は温かく、柔らかかった。
俺たちは並んで、加賀の待つ重鎮たちの待つ扉へと歩き出す。
俺の視界にあるのは、目の前の権力だけだった。




