82話 桜
深夜二時。
伊集院家本邸の執務室は、静寂というよりも、重苦しい沈黙に支配されていた。
広すぎる部屋。重厚な机。
その向こう側にある革張りの椅子は、私にはまだ大きすぎる。
座っているだけで、背負ったものの重みで押し潰されそうになる感覚。
「……はぁ」
私はペンを置き、眉間を揉んだ。
目の前には、決済を待つ書類の山。
父が消えてから組織の動揺を抑え込むため、私は「当主代行」として、寝る間も惜しんで働き続けていた。
弱音を吐くことは許されない。
私が揺らげば、伊集院という巨船は沈む。
わかっている。……わかっているけれど。
(会いたいなぁ……)
ふと、窓の外を見る。
広大な敷地の向こう、闇に沈む「離れ」の方角。
そこには、アキラがいる。
彼と過ごす放課後だけが、私が唯一、呼吸のできる時間だった。
でも、それも最近は減っている。
彼は忙しそうだ。私の知らないところで、何かを追いかけている。
その背中が、少しずつ遠ざかっていくような気がして――怖い。
コン、コン。
控えめだが、硬質なノックの音が響いた。
私は慌てて背筋を伸ばし、「当主代行」の仮面を被り直す。
「……入りなさい」
扉が開き、加賀が入ってきた。
その表情は、いつもの冷静な執事のものではない。
微かに眉を寄せ、手には一枚のタブレット端末を持っている。
「夜分に申し訳ございません、お嬢様。……緊急のご報告が」
加賀の声色に、嫌な予感が走る。
外部からの攻撃?
それとも、父に関する情報?
「何? 手短に頼むわ」
加賀は私のデスクまで歩み寄ると、無言でタブレットを差し出した。
画面に映し出されていたのは、セキュリティシステムのログデータだった。
赤い警告文字が、不気味に点滅している。
「……本日の夕刻。当家のメインサーバー深層領域に対し、不正なアクセスが検知されました」
私は息を呑んだ。
伊集院家のサーバーは、国家機密レベルの堅牢さを誇る。
そこへ侵入を試みるなど、命知らずにも程がある。
「侵入者は?」
「……未遂に終わりましたが、痕跡は残っていました」
加賀は言い淀み、苦渋に満ちた顔で告げた。
「使用された認証コードは……以前、篠原がアキラ様に発行した『レベルC』のカードキーを偽装したものです」
心臓が、とくんと跳ねた。
「……アキラが?」
「発信源の特定も完了しています。……聖条学園、生徒会室周辺。時刻は、アキラ様が下校される前です」
加賀の声が、静かな怒りを帯びる。
「お嬢様。これは看過できません。アキラ様は、我々の目を盗んで『何か』を探ろうとしています。……もしや、彼もまた、当家の混乱に乗じて利益を得ようとするハイエナの一匹だったのかもしれません」
加賀の言葉は、論理的で、正しかった。
状況証拠は真っ黒だ。
アキラが私を裏切り、伊集院家の秘密を盗もうとした――そう判断するのが、当主代行としての正しい振る舞いだろう。
けれど。
私は、震える指先でログデータをスクロールした。
画面に並ぶのは、洗練されたプロの犯行手口ではない。
壁にぶつかり、迂回し、何度も弾かれながら、それでも必死に食らいつこうとした、泥臭い「もがき」の跡だった。
(……違う)
私には、わかってしまった。
(……アキラも、戦ってるんだ)
この痕跡は、悲鳴に似ていた。
見えない敵に囲まれ、手札もなく、それでも生き残るために必死に道を切り開こうとする、孤独な獣の爪痕。
どうして? どうして、私に言ってくれないの?
胸が、きゅっと締め付けられた。
私はもう、ただ守られるだけの子供じゃない。
伊集院家の力を使えば、あなたを助けることだってできるのに。
なのに、あなたは私に何も言わず、一人でこんな危険な橋を渡って……。
(……私じゃ、頼りない?)
寂しさが、潮のように押し寄せてくる。
恐らくアキラの事だ……私のことは巻き込みたくないと思っているのかもしれない。
その優しさが、今はたまらなく悔しくて、痛い。
私たち、背中を預けるって、約束したじゃない。
目頭が熱くなるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
今、ここで泣いてはいけない。
私が彼を疑えば、加賀は動く。アキラは排除される。
そんなこと、絶対にさせない。
私は顔を上げた。
寂しさを、不安を、全て仮面の下に隠して。
冷徹な「女帝」の顔を作る。
「……加賀。あなた、何を勘違いしているの?」
冷ややかな声で告げると、加賀が怪訝そうに顔を上げた。
「勘違い、とは?」
「このアクセスは、私が許可したことよ」
さらりと、嘘をついた。
息をするように自然に。
「アキラ君に頼んだの。『正規のルートを使わずに、どこまで深層に迫れるか』ってね。うちのセキュリティの脆弱性をテストするための、演習よ」
加賀が目を見開く。
「……お嬢様が? しかし、そのような報告は……」
「思いつきで頼んだ極秘任務だもの。あなたに報告するわけないでしょう?」
私はタブレットを机に放り投げ、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「結果は……まあ、未遂なら合格点ね。篠原の教育も悪くないみたい」
心臓が早鐘を打っていた。
加賀は優秀だ。
私の嘘なんて、見抜かれているかもしれない。
それでも、私は引かなかった。
長い、長い沈黙があった。 加賀は私の瞳をじっと見つめ、何かを探るように視線を巡らせた。
やがて、彼は深く溜息をつき、静かに頭を下げた。
「……左様でございましたか。出過ぎた真似をいたしました」
彼は、私の嘘を飲み込んだ。
いや、嘘だと気づきながらも、私の「覚悟」を汲んでくれたのかもしれない。
「ログは消去しておきます。……ですがお嬢様、あまり過激な『演習』は控えていただけますよう。心臓に悪いもので」
「ええ、気をつけるわ」
加賀は一礼し、部屋を出ていった。
重厚な扉が閉まる音が、裁判官の木槌のように響いた。
一気に力が抜けた。
私は椅子に崩れ落ち、天井を仰いだ。
「……バカ」
ポツリと、言葉が漏れた。
「水臭いよ、アキラ……」
誰もいない部屋で、強がりが溶けていく。
机に突っ伏し、腕の中に顔を埋める。
あなたが私を遠ざけようとしても、無駄よ。
あなたが一人で泥を被ろうとしても、私は絶対に離れない。
あなたが私に見せないようにしているその「爪痕」を、私が全部、後ろから消してあげる。
あなたが自由に暴れられるように、私がこの場所を守り続ける。
それが、二人で約束した道だから。
「……絶対、逃がさないんだから」
涙混じりの声で呟き、私は顔を上げた。
窓ガラスに映る自分の顔は、泣き出しそうなくせに、どこか笑っていた。
共犯者。
その言葉の鎖を、私は自分からもっと強く、きつく巻き直す。
アキラ。あなたがどんな闇を見ているのか、私にはまだ全部は見えないけれど。
それでも私は、あなたの隣に立つ資格を手に入れてみせる。
夜明けはまだ遠い。
けれど、この暗闇の中で、私の中の想いだけは、確かに熱く燃えていた。




