81話
放課後の生徒会室。
西日が長く伸びる室内には、PCの冷却ファンの音だけが低く響いていた。
不破蓮が、目の前のモニターから視線を外し、眼鏡の位置を直した。
「……無理ね」
彼女は短くそう告げた。
投げやりな響きはない。
ただ、計算式の結果を淡々と述べるような口調だ。
「私の論理で暗号化パターンは解析できたわ。でも、物理的なセキュリティの壁を突破する『手』が足りない。……理論上は可能でも、実行するには別の才能が必要よ」
俺はソファに深く腰掛けたまま、無言で頷いた。
伊集院家のサーバー深層。
そこは、俺が持つ「レベルC」のカードキー程度では本来、触れることすら許されない聖域だ。
机上の空論だけで突破できるほど甘くはない。
「で? 代案はあるのか?」
俺が問うと、不破は口元に薄い笑みを浮かべた。
「ええ。だから呼んだのよ。……私のお気に入りをね」
その時、ドアが乱暴に開かれた。
「れーちゃん! 呼んだ!?」
飛び込んできたのは、南雲ミナだった。
息を切らし、水色の髪を揺らしている。
だが、ソファに座る俺の姿を認めた瞬間、その表情が一気に曇った。
「……げ。またあんた?」
露骨な嫌悪感。
俺の予想だが、彼女にとって俺は、大切な不破蓮を「こちらの世界」へ引きずり込もうとする疫病神でしかない。
「邪魔するぞ」
俺が軽く手を上げると、南雲は「はぁ?」と威嚇するように唸った。
「帰ってよ。ここ生徒会室なんですけど? 部外者立ち入り禁止!」
「ミナ、落ち着いて。……彼を呼んだのは私よ」
不破が静かに制すると、南雲は不満そうに口を尖らせながらも、大人しく不破のそばへ歩み寄った。
それはまさしく忠犬そのものだ。
「お願いがあるの。……この『壁』を、こじ開けてほしい」
不破が指し示したのは、モニターに映し出された無機質なログイン画面だった。
ただの黒い背景に、カーソルが点滅しているだけのシンプルな画面。
だが、南雲はそれを一目見た瞬間、表情を変えた。
「……なにこれ。変なポート」
彼女は俺たちを無視して、椅子を引き寄せ、キーボードに指を走らせた。
カタカタと軽い音が響く。
最初の数行のコードを打ち込んだだけで、彼女の手が止まった。
「……ちょっと待って。これ、どこのサーバー?」
南雲の声色が、警戒の色を帯びる。
俺は懐から、一枚のカードキーを取り出し、デスクの上に滑らせた。
「伊集院家の内部サーバーだ。……そのカードが裏口の鍵になる」
南雲が目を見開いた。
カードと、画面と、俺の顔を交互に見る。
「はぁ!? あんたバカなの!? 伊集院家って……あの!? 捕まったら退学どころか人生終わるよ!?」
「嫌なら帰っていいぞ」
俺は冷たく言い放った。
「ただし……不破はもうやる気だ。お前がいなければ、彼女一人で突っ込むかもしれないな」
卑怯な脅しだとはわかっている。
だが、効果はあった。
南雲は不破の方を見た。
不破は、何も言わずにただ静かに南雲を見つめ返している。
その瞳にあるのは、「あなたならできる」という絶対的な信頼と、抑えきれない知的好奇心。
南雲は大きなため息をつき、頭をガシガシとかいた。
「……あーもう! わかったわよ! やればいいんでしょ、やれば!」
彼女はカードキーをひったくり、端末のリーダーに通した。
スイッチが入る。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、彼女の纏う空気が鋭利なものへと変わった。
「……3分。それ以上かかったら強制切断するからね。逆探知されたら終わりだから」
宣言と同時に、南雲の指が舞った。
目にも止まらぬ速さでコマンドが打ち込まれていく。
画面上の数値が滝のように流れ、赤い警告灯のようなポップアップが出ては消えていく。
俺は黙ってその手際を眺めていた。
速い。
過去に転生前に澪の仕事を見たことがあるが、澪とはまた違うタイプだ。
澪が情報の海を優雅に泳ぐ魚だとしたら、こいつは壁を強引に削り取るドリルのような荒々しさと精密さがある。
第一層、突破。
第二層、突破。
俺の持つ権限(レベルC)を偽装し、システムを騙して深層へと潜っていく。
順調に見えた。
だが――。
第三層、「人事データ」の領域に触れようとした瞬間。
南雲の手が、ピタリと止まった。
「……え?」
小さな、戸惑いの声。
彼女は眉をひそめ、エンターキーを押すのを躊躇った。
いや、押せないのだ。
「……なにこれ」
彼女は呟きながら、別のコマンドを打ち込む。
だが、また止まる。
まるで、見えない壁に指先を弾かれたかのように。
「どうした?」
俺が背後から声をかけると、南雲は冷や汗を拭いながら首を振った。
「……進めない。エラーが出るわけじゃないの。ただ……道が消える」
彼女は焦ったようにキーを叩き続ける。
裏口を探し、迂回ルートを作り、システムの隙間を縫おうとする。
だが、そのたびに彼女の指は空を切る。
「気持ち悪い……」
南雲の声が震えた。
「こっちが『こう来るだろう』って予測して打った手が、実行する直前に塞がれてる。……まるで、こっちの手札が全部透けてるみたいに」
読み合いにすらなっていない。
ただ、圧倒的な「何か」に、静かに拒絶されている感覚。
南雲の額から、大粒の汗が滑り落ちた。
3分が過ぎようとしていた。
「……くっ!」
彼女は舌打ちをし、乱暴にエンターキーを叩いた。
侵入ではなく、撤退のコマンドだ。
ログを消去し、回線を切断する。
画面が暗転し、元のデスクトップに戻った。
静寂が戻る。
南雲は椅子にもたれかかり、天井を仰いで荒い息を吐いた。
「……無理。今は無理」
敗北宣言。
不破が静かに問いかける。
「あなたが解けないの?」
「解けないっていうか……」
南雲は悔しそうに唇を噛んだ。
「このシステムの管理者、性格が悪すぎるわ。……論理の迷路みたいになってる。正解のルートに見せかけて、全部が行き止まりに誘導されてるのよ」
彼女は自分の震える手を見つめ、拳を握りしめた。
「……でも、構造はわかった。癖も掴んだ」
南雲は椅子を回転させ、俺の方を向いた。
その目には、敗北感ではなく、燃えるような闘志が宿っていた。
「諦めるか?」
俺が試すように問うと、彼女は鼻で笑った。
「バカ言わないで。……一度噛みついたら離さないのが私の流儀よ」
彼女は不破を見た。
「れーちゃん。これ、時間かかるよ。……地道に、一枚ずつ皮を剥いでいくしかない」
「構わないわ。……楽しみが長く続くだけよ」
不破は満足げに微笑んだ。
これで決まりだ。
即席の協力関係ではなく、長期的な共犯関係。
南雲ミナは、この「解けないパズル」に挑むために、俺たちの船に乗った。
「……わかった。解析は任せる」
俺はカードキーを回収し、ポケットにしまった。
成果はなかったが、結束の糸は絡まった。
伊集院家の深層。
そこに何が隠されているのかは分からないが、少なくとも、簡単には開かない「扉」があることだけは確かだ。
「よろしく頼むぜ、相棒」
俺が言うと、南雲は「ふんっ」と顔を背けた。
だが、その口元は微かに笑っているように見えた。
俺は生徒会室を後にした。
廊下の窓から見える空は、どす黒く濁っていた。
見えない壁。
俺たちの行く手を阻むシステム。
(……面白くなってきたな)
俺は口元を歪め、闇の中へと足を踏み出した。




