77話
翌朝。
通学路は、いつものように喧騒に満ちていた。
あくびを噛み殺す男子生徒、スマホ片手に談笑する女子生徒の群れ。
平和で、退屈で、無防備な日常。
俺はその中を、周囲に溶け込む「ただの高校生」の仮面を被り、足音を殺して歩いていた。
その時だった。
ポケットの中のスマートフォンが、奇妙な振動を起こした。
着信でも通知でもない。まるで内部の回路が痙攣しているような、不規則で鋭い震え。
(……来たか)
俺は立ち止まることなく、自然な動作でスマホを取り出し、画面に視線を落とす。
ロック画面がノイズのように歪み、一瞬だけ、無機質な文字列が表示された。
『カードキーのテストだ。Target: Warehouse 04 / 20:00 / Cleaning / Level-B』
表示時間はわずか二秒。
すぐに画面は元の時計表示に戻った。
周囲の誰も気づいていない。
俺だけが、その一瞬で日常から切り離された。
発信元は篠原美琴。
伊集院家・暗部の教官であり、今の俺の上官だ。
「カードキーのテスト」
つまり、この任務を完遂すれば、組織の深部へアクセスする権限が与えられるということだ。
ターゲットは港湾地区に巣食う半グレ集団。
「レベルB」は、相手が武装しており、かつ「殲滅(後腐れなく処理)」を求めていることを意味する。
(……了解)
俺はスマホをポケットに戻し、何食わぬ顔で歩き出した。
心臓の鼓動が、わずかに熱を帯びる。
退屈な授業の予習などではない。
今夜行われる「狩り」のシミュレーションが、脳内で高速回転を始めていた。
◇
放課後のチャイムが鳴ると同時に、校内の空気が緩む。
だが、俺の緊張は逆に張り詰めた。
教室を出て、特別棟の最上階へ向かう。
目指すは生徒会室。
そこには、俺が昨日撒いた「種」の結果が待っているはずだ。
重厚な扉をノックもせずに押し開ける。
西日が差し込む部屋の中央、執務机に座る生徒会長・不破蓮が、顔を上げた。
その顔を見て、俺は口元を吊り上げた。
酷い顔だ。
目の下にはクマがあり、髪もいつもの完璧な整い方をしていない。
だが、眼鏡の奥にある瞳は、異様なほど爛々と輝いていた。
それは、難解な数式を解き明かした数学者のような、あるいは禁忌の味を知った中毒者のような、狂気じみた知的好奇心の色だった。
「……遅いわよ」
彼女は挨拶もなしに言った。声が少し掠れている。
その手には、俺が昨日渡したレポート用紙――警察の事故資料のコピーが握りしめられていた。
「呼び出しておいて随分だな、会長。……で? 答えは?」
俺がソファに深く腰を下ろすと、彼女は一枚の写真をデスクの中央に滑らせた。
深夜の交差点で大破したバイクと、トラックの衝突現場写真。アスファルトに散乱した破片と血痕が生々しい。
「結論から言うわ。……このリストの中で、『本当の事故』はこれだけよ」
正解だ。
だが、俺が求めているのは結果ではない。その「深度」だ。
「根拠は?」
「確率論と、物理法則の矛盾」
不破は立ち上がり、勢いよく語り始めた。
「他の事故……ガス爆発、駅の転落、ビルの火災。どれも一見すると偶発的な悲劇に見える。けれど、変数をすべて計算すると、ありえないほどの『作為』が浮かび上がるの」
彼女は空中にグラフを描くように手を動かす。
「ガス爆発の配管劣化係数、駅転落時の防犯カメラのノイズ、被害者の動線……すべてが『その瞬間に死ぬ』ように調整されている。確率論的に、自然発生はありえない。誰かが変数を操作し、結果を完璧に誘導した、美しいまでの殺人計画よ」
彼女の頬が紅潮する。
「対して、このバイク事故だけは違う。信号のタイミング、路面凍結、トラック運転手の疲労度……あらゆる要素が無秩序に、無慈悲に衝突した結果。ここには何の意図もない。ただの、純粋なカオス。……これこそが、本当の『事故』だわ」
完璧だ。
警察の捜査官ですら見落とす「殺意の有無」を、彼女は数字の羅列から嗅ぎ分けたのだ。
この女の眼は、世界の解像度が違う。
「……合格だ」
俺が短く告げると、不破は深い充足感と共に椅子に背を預けた。
「認めるわ、アキラ。あなたは私と同じ……いいえ、私以上に世界を『正しく』見ている」
彼女は身を乗り出し、机越しに俺へと迫る。
その瞳が、俺の仮面の下にある本性を暴こうとギラついている。
「あなた、何者なの? ただの高校生がこんなリストを持っているはずがない。……裏で『何か』をしているのね?」
核心を突く問い。
だが、その声に恐怖はない。
あるのは「私もそこへ連れて行け」という、渇きにも似た欲望だけだ。
俺はニヤリと笑った。
その笑みは、生徒に向ける優等生のそれではない。
獲物を檻へ誘い込む、悪魔の笑みだ。
俺はソファから立ち上がり、ゆっくりと彼女のデスクへと歩み寄る。
革靴が床を叩く音が、静寂な生徒会室に不穏なリズムを刻む。
「退屈か? この予定調和の世界は」
問いかけながら、俺は両手をデスクにつき、彼女の顔を覗き込んだ。
ガラス越しの西日が俺の背中を焼き、逆光となった俺の影が彼女を覆い尽くす。
不破は逃げなかった。
眼鏡の奥で揺れる瞳が、俺の影の中に潜む「何か」を見ようと、必死に焦点を合わせている。
彼女の細い指が、無意識にブラウスの胸元を握りしめた。
「……ええ。ヘドが出るほどにね」
彼女は唇を湿らせ、乾いた声で答える。
その瞳には、隠しきれない高揚感が渦巻いていた。
「朝起きて、学校へ行き、予測通りの会話をして、予測通りの答えを出す。……私の計算式に収まるような日常なんて、死んでいるのも同然よ」
吐き捨てるような言葉。
それは彼女が抱え続けてきた、天才ゆえの孤独な絶望だった。
世界が見えすぎるがゆえに、どこにも熱を感じられない冷え切った地獄。
俺は片手を伸ばし、彼女の頬を滑り落ちていた一筋の髪を、指先ですくい上げた。
ビクリ、と彼女の肩が跳ねる。
だが、拒絶はない。
むしろ、その冷たい指の感触を確かめるように、わずかに頬を寄せてくる。
「なら、特等席を用意してやる」
俺は指先を彼女の耳元へと滑らせ、囁くように告げた。
「……俺が壊す世界の、最前列だ」
その瞬間、不破の瞳孔が開いた。
計算式が崩壊し、論理が焼き切れる音。
彼女の中で「退屈」が死に、「狂気」が産声を上げた瞬間だった。
俺は懐からスマホを取り出し、画面を見せずに言った。
「今夜20時。港湾地区の第4倉庫へ来い。……面白いショーを見せてやる」
不破が息を呑む。
荒い呼吸が、静かな部屋に響く。
常識的な生徒会長なら、ここで拒絶するか、警察に通報する場面だ。
だが、彼女は違った。
退屈という病に侵された彼女にとって、その誘いは致死量ギリギリの劇薬のような魅力を放っていた。
彼女は震える手で眼鏡の位置を直し、上気した顔で俺を睨み上げた。
「……何があるの?」
「授業参観だ。俺がどうやって『計算式』を書き換えているか、その目で確かめろ」
俺は冷たく言い放つ。
彼女の瞳の奥にある理性の壁を、言葉のハンマーで叩き壊すように。
「ただし、警告しておく。……一度その席に座れば、もう元の綺麗な世界には戻れない。吐き気がするほど汚くて、残酷な現実を見るハメになる」
それは脅しであり、選別だった。
覚悟のない者はここで弾く。
不破は唇を血が滲むほど噛み締め、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳に宿ったのは、恐怖を押さえ込むような意地と、強烈な自尊心。
そして「もっと深い場所へ連れて行け」という、倒錯した懇願だった。
「……行くわ。私が、そんな脅しに屈すると思わないことね」
彼女の声は震えていたが、芯があった。
俺はその答えに満足し、口角を吊り上げる。
「いい度胸だ。……楽しみにしているぜ、共犯者」
俺はQRコードを表示し、彼女の目の前に突き出した。
彼女は慎重な手つきでスマホを取り出し、それを読み取る。
電子音が鳴り、契約が成立した。
その時、ドアが爆発したかのように勢いよく開いた。
「れーちゃん! お茶入れたよー!」
南雲ミナがトレイを持って飛び込んでくる。
重苦しく、濃密だった空気が一瞬で霧散した。
不破がハッと我に返り、慌てて居住まいを正す。
だが、その頬の赤みは引いていない。
俺は出された紅茶を一気に飲み干し、カップを置いた。
南雲の底抜けに明るい声と、不破の背中に張り付いたまま離れない粘りつくような視線。
(……こいつ……どこからか見ているのか?)
俺は南雲を一瞥し、無言で生徒会室を後にした。
廊下に出てもなお、指先には不破の髪の感触と、彼女が放っていた熱気が微かに残っていた。




