76話
図書室を出て、校舎を背にする頃には、空はすでに群青色に沈んでいた。
夕方の喧騒は遠ざかり、代わりに冷たい夜気が足元から這い上がってくる。
俺は帰宅路を外れ、人気の少ない路地裏へと足を向けた。
古びた自販機のモーター音だけが響くその場所で、スマホを取り出し、短縮ダイヤルをタップする。
コール音は二回。すぐに繋がった。
『……どうしたの?少年』
澪の声は、少し呆れたような響きを含んでいた。
彼女もまた、俺が今どこで何をしているか、ある程度は把握しているらしい。
「確認だ。……外はどうなってる?」
俺は単刀直入に問うた。
昨夜、伊集院家の当主が消えた。
その事実は、この街の裏側にとって巨大な爆弾だ。
もし導火線に火がついていれば、今頃どこかで爆発音が聞こえていてもおかしくない。
『……静かね。気持ち悪いくらいに』
澪の声が、一段低くなる。
『ハイエナたちが鼻をひくつかせているのは感じるわ。色々な組織が妙にソワソワしてる。何かが起きていると勘付いてはいるみたい』
「だが、確証は掴めていない?」
『ええ。情報の壁が厚すぎるわ。伊集院家の本邸からは、鼠一匹漏れ出していない。……正直、不気味よ。トップが消えたっていうのに、組織としての脈拍が一切乱れていないんだから』
その言葉に、俺は口元を緩めた。
やはり、そうか。
「さすがだな。……澪は気づいているんだな。」
『誰だと思ってるの?逆に煽りに聞こえるんだけど』
「とりあえず、状況が知りたかった。ありがとう」
『はいは~い。あんたのおかげで、情報を得られているからこの前の依頼の件調べておくから』
短く言って通話を切る。澪が何か言いたげだったが、折り返し
スマホをポケットに滑り込ませ、俺は路地を抜けた。
伊集院家は揺らいでいない。
少なくとも、外からはそう見えるように完璧に装っている。
だが、その張り詰めた糸がいつまで保つか。それは中にいる人間にしかわからない。
(……帰るか)
俺は伊集院家の敷地へと向かう坂道を登り始めた。
重厚な正門が見えてくる。
いつもなら静寂に包まれているその場所に、今日は数台の高級車が停まっていた。
門の前には、スーツを着た数人の男たち。分家の人間か、あるいは提携企業の幹部か。
その表情には隠しきれない焦燥と、苛立ちが滲んでいる。
「だから、一目だけでも会わせてくれと言っているんだ!」
「急ぎの決済がある。当主の承認がなければ動かせない案件なんだぞ!」
男たちの怒号が、夜気に響く。
その前に立ちはだかっているのは――加賀だった。
いつもの執事服。背筋を剣のように伸ばし、微動だにしない。
「申し訳ございません。当主は現在、体調不良につき療養中です」
加賀の声は、氷のように冷徹だった。
「医師の指示により、ご家族を含め一切の面会は謝絶となっております。決済案件につきましては、規定通り、代行の承認を経て処理されます」
「代行だと!? 桜お嬢様にか? あんな子供に何がわかる!」
「お言葉ですが」
加賀が一歩、前に出た。
ただそれだけの動作で、男たちが気圧されて後ずさる。
「当主の決定は絶対です。……これ以上騒がれるようであれば、不法侵入として対処させていただきますが」
加賀の背後で、警備員たちが無言で配置につく。
男たちは顔を見合わせ、舌打ちを残して車へと戻っていった。
俺は木陰からその様子を見ていた。
完璧だ。綻びひとつ見せない鉄壁の守り。
だが、俺には見えた。車が去った後、加賀がふっと小さく息を吐き、一瞬だけ疲労の色を見せたのを。
(……無理をしているな)
俺は加賀に声をかけることなく、裏口から敷地内へと入った。
離れに戻ると、温かな光と匂いが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、アキラ」
キッチンから母さんが顔を出す。
テーブルには、湯気の立つ煮物と焼き魚が並べられている。
「ただいま。……いい匂いだね」
俺は鞄を置き、洗面所で手を洗って食卓につく。
母さんと向かい合って食べる夕食。
いつもなら他愛のない会話が続く時間だが、今日の母さんは箸を動かす手が遅かった。
時折、窓の外――本邸の方角を気にするように視線を向けている。
「……何かあったの?」
俺が水を向けると、母さんは少し迷うように口を開いた。
「ねえ、アキラ。……桜お嬢様のことなんだけど」
声を潜め、心配そうに眉を寄せる。
「最近、本邸の雰囲気がすごく重いの。分家の方や、背広を着た怖い顔の人たちがひっきりなしに出入りしていて……使用人の休憩室でも、みんな不安がっているわ」
「……そうなんだ」
「それに、加賀さんも……いつもよりピリピリしているわ。昨日なんて、新人のメイドさんがお茶を出すタイミングを間違えただけで、叱責されていたって」
母さんの目は、裏社会の末端にいたからこその「不穏な空気」を敏感に感じ取っていた。
「一番心配なのは、桜お嬢様よ。……厨房の子が言ってたんだけど、ここ数日、お食事をほとんど残されているみたい。お部屋に篭りきりで、顔色も優れないって噂よ」
母さんは、祈るように両手を組んだ。
「あんなに小さな体で……何か、大変なことを背負い込んでいらっしゃるんじゃないかしら」
俺は味噌汁を口に運びながら、心の中で冷静に分析する。
(……思ったより限界が近いな)
加賀が使用人に当たるなんて珍しい。それだけ余裕がない証拠だ。
桜も、気丈に振る舞ってはいるが、悲鳴を上げ始めている。
本邸という密室の中で、彼女は孤立し、摩耗している。
「そっか……。最近忙しそうだったからな。俺もそれとなく様子を見てみるよ」
俺はあくまで心配する友人の顔でそう答えた。
だが腹の底では、焦燥感が燻り始めていた。
伊集院家が崩れる前に、俺が外堀を埋める必要がある。
加賀の手が回らなくなる前に、俺が別の手を用意しなければならない。
食事を終え、自室に戻った頃には日付が変わろうとしていた。
部屋の明かりを消し、ベッドに横たわる。
枕元のスマホが、短く震えた。
通知を確認する。表示された名前は『桜』。
『まだ、起きてる?』
短いメッセージ。
俺は迷わず返信を打った。
『ああ。起きてるよ』
すぐに既読がつき、入力中のマークが表示される。
しばらくして届いた言葉は、母さんの言っていた通りの状況を物語っていた。
『……会議が終わったわ。今日は、なんとか乗り切れた。でも、やっぱりまだ実感がわかない』
弱音。
当主代行としての仮面を外せるのは、俺の前だけだ。
俺は体を起こし、カーテンを少しだけ開けた。
暗闇の中に浮かぶ本邸。その二階、角部屋の窓に、微かな明かりが灯っているのが見える。
俺は小さく息を吐き、指先を動かした。
『俺はここにいる。離れから見てるよ。……そっちから明かりは見えてるか?』
送信と同時に、部屋の電気を一瞬だけ点け、また消した。
合図。
闇の中で瞬いたその光は、確かに彼女の元へ届いたはずだ。
しばらくして、返信が来た。
『……うん、見えた。ありがとう、アキラ』
文字だけのやり取り。
けれど、この冷たいガラス板を通した繋がりが、今の彼女にとっては唯一の安らぎなのだろう。
俺はスマホを置き、天井を見上げた。
桜のケアも十分じゃないが、今俺が会いに行くのはリスクが高くなる。
どうにか安定して会えるようにしないとな。
それに明日の放課後には、もう一つの「戦い」が待っている。
不破蓮。
学園を支配する頭脳。計算高き女王。
今頃、彼女は血眼になって俺の出した「宿題」と格闘しているはずだ。
「 不破蓮……」
暗闇に向かって、やつの名前をつぶやく
「お前の自慢の脳みそで、この世界の裏側にあるノイズに気づけるか?」
もし彼女が正解に辿り着けたなら――その時は、彼女もまた「こちらの世界」の住人になりえる資格がある。
桜を守り、組織を掌握するための布陣。
そのピースが、明日一つ埋まるかもしれない。
俺は深く息を吸い込み、眠りへと落ちていった。
静寂の檻の中で、獣たちが目を覚ます時を待ちながら。




