75話 不破 蓮
重厚な扉が閉まる音が、静まり返った図書室に響いた。
残されたのは、西日に染まる埃の粒子と、テーブルに放置された一枚の薄汚いレポート用紙。
そして彼に「試された」という事実を突きつけられた、私だけ。
「……なによ、あいつ」
声が震えた。
それは屈辱への怒りではない。
私の知らない「計算式」が存在していたことへの、猛烈な知的興奮だった。
『会長の調査能力には敬意を表しますよ』
あの言葉は、賛辞ではない。
「ここまで辿り着けるか?」という、遥か高みからの挑戦状だ。
私の完璧な計算式に、彼という特異点が喧嘩を売ってきたのだ。
「……上等じゃない」
私はテーブルの上のレポート用紙をひったくるように掴んだ。
逃がさない。
私の世界に土足で踏み込んで、ただで帰れると思うな。
私はファイルを抱え、足音高く図書室を後にした。
帰宅したのは、日が落ちて街が光の海に沈んだ頃だった。
都心の高層マンション、最上階。
防音扉を閉ざし、外界の雑音を遮断する。
ここが私の城だ。
壁一面のサーバーラックが唸りを上げ、六枚のマルチモニターが冷たい青光を放つ。
制服も着替えず、私はメインモニターの前の椅子に滑り込んだ。
手元には、彼が残した「宿題」。
『○月×日 港区 ガス爆発事故 死者1名』
『○月△日 駅ホーム転落事故 死者1名』
殴り書きされた事故のリスト。
警察が「事故」として処理し、世間が「不運」として消費した悲劇の数々。
『この中で、たった一つだけ“本当の事故”が混ざっている』
彼の問いが、脳内でリフレインする。
私は不敵に笑い、キーボードを叩いた。
アクセス開始。
警察の捜査資料、現場付近のNシステム、監視カメラのアーカイブ、SNSの情報、被害者の金融資産の動き。
表層ウェブから深層ウェブまで、あらゆるデータに潜り込み、情報を吸い上げる。
解析が進むにつれ、私の瞳孔が開いていくのがわかった。
カチ、カチ、と乾いたタイプ音だけが、部屋に響く。
「……なるほどね」
モニターに映し出される数値が、私の常識を否定していく。
だが、恐怖などない。あるのは「真実」を暴く快感だけだ。
『ガス爆発』――配管の劣化係数が、直前の点検データと矛盾している。
作為的な数値の改竄痕跡あり。
確率論的に、自然発火の可能性はゼロに等しい。
誰かが意図的に爆発させた「必然」だ。
そして、『転落事故』。
被害者が落ちた瞬間の防犯カメラ映像。
コマ送りで解析する。
……ここだ。
被害者の背後にいた人物が手を伸ばした瞬間、映像がコンマ数秒だけ飛んでいる。
ノイズじゃない。編集だ。
あまりにも精巧な映像加工。
誰かが「押した瞬間」を意図的に削除し、事故に見えるよう時間を接続している。
黒。
これも、黒。
あれも、黒。
次々と弾き出される解析結果が、私の知っている「平和な日本」を侵食していく。
ただのニュースだと思っていたものが、皮を一枚めくれば、ドス黒い「作為」と「殺意」で満ちている。
美しい数式でできた私の世界が、汚泥のような悪意で汚されていく?
いいえ、違う。
これこそが、本当の「世界」の姿。
私が今まで見ていたのは、誰かに整えられた退屈な誰かが編集した模範解答に過ぎなかったのだ。
ドクン、と心臓が跳ねた。
(……面白い)
この完璧に隠蔽された犯罪計画。
警察さえ欺く、芸術的なまでの死の演出。
そのすべてを、あの一年生は知っていた。
この底知れぬ闇の深淵を覗き込みながら、彼は平然と、退屈そうに学校に通っていたのだ。
私が「退屈だ」と嘆いていた箱庭の外側に、こんなにも鮮烈で、複雑怪奇なパズルが広がっていたなんて。
「……見つけた」
深夜三時。
膨大なリストの最後。一件のデータを解析し終えた時、私は確信を持って呟いた。
『○月□日 交差点バイク事故 重傷者1名』
信号無視。路面凍結。ブレーキ痕。
すべての変数が、ランダムに、無慈悲に、そして無意味に重なった結果。
そこには何の作為もない。
ただの、純粋な不運。
正解は、これだ。
私は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。
脳が焼き切れるほど回転し、熱を持っている。
解けた。
だが、これは終わりじゃない。始まりだ。
彼は私を試したのだ。
「お前の目は、世界の表面しか見ていない節穴か? それとも、裏側にある真実を見抜ける眼球か?」と。
ナメられたものね。
これくらいの問題、私にかかれば造作もない。
「……ふ、ふふふっ」
笑いが込み上げてくる。
止まらない。
私のプライドを刺激し、ここまで本気にさせた責任は取ってもらう。
私はペンを取り出し、レポート用紙の「バイク事故」の欄を乱暴に丸で囲んだ。
解いたわよ。
あなたの出した悪趣味な宿題、満点でクリアしてあげた。
これで証明された。
私は、あなたの見ている「世界」を、解読できる人間だと。
私はペンの先を走らせ、さきほどつけた丸の横に、たった一言だけ殴り書きした。
『解けた。明日放課後、生徒会室へ来なさい』
インクの滲んだ紙を見つめ、私は好戦的な笑みを浮かべる。
明日、これを彼に叩きつけてやる。
これは回答用紙じゃない。私からの「挑戦状」だ。
私の退屈な世界を壊したのなら、その続きを見せなさい。
あなたという混沌を、私がどう乗りこなすか、見せてあげるわ。
窓の外が明るくなり始める。
徹夜明けだというのに、眠気など微塵もない。
だって、こんなにもワクワクするのは――生まれて初めてなのだから。




