72話
部屋の空気が凍りついている。
闇の中に佇む死神は、楽しそうに目を細めたまま、俺を見下ろしていた。
「……久しぶりだな。何の用だ」
俺は警戒心を隠さず、低い声で問う。
最後に会ったのは数年前。
それ以来、気配はすれども姿を見せることはなかった。
それが、伊集院家の当主が消えたこの夜に、突然現れた。
タイミングが良すぎる。
俺の問いに、死神は肩をすくめてみせた。
「あら、つれない挨拶ね。せっかく顔を見せに来てあげたのに」
「質問に答えろ。……なぜ今、ここに来た?」
俺が重ねて問うと、彼女はふわりとベッドの縁に腰を下ろした。
重さを感じさせない、幽霊のような動作。
「私だって色々あるのよ。……わかる?死刑囚さん?」
その声は、冷たく、甘く、そしてどこまでもふざけていた。
まるで、こちらの深刻さなど嘲笑うかのように。
「……色々、ね」
俺は鼻で笑った。
相変わらず、食えない存在だ。
だが、その言葉の裏には、「お前の知る由もない次元で動いている」という傲慢さが見え隠れする。
「それで? ただの気まぐれで来たわけじゃないんだろ」
俺が睨みつけると、死神は面白そうに口角を上げた。
「ええ。少し、舞台の様子を見に来たの」
彼女は顔を近づけ、冷たい吐息がかかるほどの距離で囁く。
「主役が退場して、席が空いたわね。……どうするの? あなたが座る?」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
やはり、知っている。
伊集院家の当主が消えたことを。そして、その混乱を。
「……あそこで何が起きたのか、知ってるのか?」
俺はカマをかけた。
もしかすると、この混乱を作り出したのはコイツなのかもしれない。
だとしたら、俺を試すための演出か?
だが、死神はくすりと笑うだけだった。
「さあ、どうかしらね。……でも、混沌とした舞台の方が、踊り甲斐があるでしょう?」
肯定も否定もしない。
ただ、この状況を楽しんでいることだけは確かだ。
「……ふざけたこと言ってる暇があったら消えろ。俺は忙しいんだ」
俺は吐き捨てるように言った。
死神の意図がどうあれ、やることは変わらない。
この混乱を利用し、のし上がる。
「うふふ。いいわ、その目。……期待しているわよ、アキラ」
死神は満足そうに頷くと、音もなく立ち上がった。
「また来るわ。……そう遠くないうちにね」
その言葉を残して、彼女の姿は闇に溶けるように消えた。
後に残ったのは、冷え切った空気と、俺の早鐘を打つ鼓動だけ。
(……クソが)
結局、何をしに来たのかはわからない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
この事件は、俺にとっての「合図」だ。
死神が煽るように、席は空いた。
伊集院家という巨大な力が、主を失って漂流し始めている。
(……いいだろう)
利用できるなら、この状況も、死神の言葉すらも利用してやる。
お前が期待する以上のやり方で、この力を我が物にしてやる。
俺は一度ベッドに腰を下ろしたが、すぐにまた立ち上がった。
眠気など、欠片もない。
神経が研ぎ澄まされすぎて、じっとしていられなかった。
それに――まだ、夜明けまでにやっておくべきことがある。
俺は上着を羽織り、音もなく部屋を出た。
冷たい夜風の中、母屋の方角へと歩を進める。
警備の配置は頭に入っている。
混乱の最中とはいえ、厳重な警戒網が敷かれているはずだが、今夜に限っては指揮系統が乱れている。
その一瞬の隙間を縫うことは、内側の人間である俺には容易い。
目的の場所は、二階の角部屋。
桜の部屋だ。
木々を足場に、身軽な動作でバルコニーへと飛び移る。
カーテンの隙間から、薄い明かりが漏れていた。
窓ガラスを軽く、リズムをつけて叩く。
コン、コン。
静寂を破る小さな音が、部屋の中の空気を揺らしたのが分かった。
数秒の沈黙。ためらいがちな気配が窓に近づいてくる。
やがて、シャーッという音と共にカーテンが引かれた。
窓ガラス越しに現れたのは、驚きに見開かれた桜の顔だった。
目は泣き腫らして赤く縁取られ、豪奢なパジャマの上からガウンを羽織っただけの姿は、いつもの凛とした「伊集院桜」とは別人のように、脆く、頼りなく見えた。
鍵が開く音がして、窓がゆっくりと押し開けられる。
「……アキラ……?」
信じられないものを見るような、かすれた声。
夜風が吹き込み、彼女の髪を乱暴に揺らすが、彼女はそれを直そうともしない。
「……どうして……」
「眠れそうにない顔をしてたからな」
俺は許可も取らず、バルコニーから部屋へと足を踏み入れた。
部屋の空気はどこか寒々しい。
主を失ったこの屋敷の空気が、ここまで浸透しているのか。
桜は俺の姿を目で追ったまま、力なく後ずさり、ベッドの縁に崩れ落ちるように座り込んだ。
膝の上で握りしめた手が、小刻みに震えている。
俺はゆっくりと歩み寄り、彼女を見下ろした。
「……お父様のこと、夢じゃ……なかったんだね」
ポツリと漏れた言葉は、問いかけというより、確認を拒む祈りのようだった。
彼女はまだ、認めたくないのだ。
朝になれば、あの厳格な父親が食堂に座っているのではないか――そんな幻想を追っている。
だからこそ、俺は断ち切る。
「ああ。現実だ」
短く、冷徹に。
その言葉が刃物のように彼女に刺さるのを見た。
桜の肩がビクリと跳ね、顔が歪む。
俺は慰めの言葉などかけない。
ただ事実を突きつけ、彼女の前に立ちふさがる。
「桜。泣いている暇はないぞ」
低い声で告げると、桜が弾かれたように顔を上げた。
その瞳には、深い悲しみと、そして俺への非難めいた色が混じっていた。
「……ひどいよ。こんな時に……お父様がいなくなったばかりなのに……」
涙が溢れ、頬を伝う。
彼女は唇を噛み締め、俺を睨みつけるようにして嗚咽を堪えた。
その弱々しい抵抗すら、今の彼女には精一杯なのだろう。
「ひどくても言う。今、伊集院家は揺らいでいる」
俺は一歩、彼女に近づいた。
俺の影が、彼女の華奢な体を飲み込むように覆い隠す。
「主を失った組織なんて、血の匂いを嗅ぎつけた獣の群れに放り込まれた肉同然だ。お前が弱みを見せれば、ハイエナどもが群がってくるぞ。……骨までしゃぶり尽くされる」
残酷な未来予想図を突きつける。
桜は青ざめ、首を横に振った。
「無理よ……私には、まだ……何もわからないのに……」
「だが、守らなきゃならないんだろ?父親が戻ってくる場所を」
俺の言葉に、桜の動きが止まる。
「もし、お父さんが生きているのであれば、この家が食い荒らされる前に、お前が守り抜く必要がある」
「っ……」
恐怖で震える声。
拒絶。逃避。
彼女はまだ、ただの女子高生だ。
父親という巨大な傘の下で守られていただけの存在。
一人では立てない。
だから、俺が必要になる。
俺は彼女の前にしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。
そして、膝の上で震えているその細く冷たい手を、両手で包み込むように強く握った。
びくり、と桜の手が強張る。
俺は逃がさない。体温を無理やり叩き込むように、力を込める。
「お前が立つんだ。この家の“主”として」
「っ……!」
桜が息を呑む。
至近距離で、俺の瞳を見つめ返してくる。
その瞳の奥で、恐怖と依存心が揺れ動いているのが見えた。
「無理じゃない。お前には俺がいる」
その言葉に、時が止まったような静寂が落ちた。
俺は彼女の瞳の奥を覗き込むようにして、低く、優しく、呪文のように囁く。
「俺が支える。汚れ仕事も、面倒な交渉も、全部俺がやってやる。……だからお前は、ただ堂々と立っていればいい」
それは、忠誠の誓いであり、甘い毒のような、依存への誘いだ。
俺なしでは立っていられないように、彼女の心を縛り付けるための、美しい鎖。
桜の瞳が揺れる。
迷い、戸惑い、そして――すがりつくような光が灯る。
やがて、彼女の手が、俺の手を握り返してきた。
最初は弱々しく、次第に強く。爪が食い込むほどに。
「……本当に? ずっと、そばにいてくれる?」
震える声で、言質を求めてくる。
俺は、最も安心させる表情を作って、頷いた。
「ああ。約束する」
嘘ではない。
俺の目的のためには、彼女が必要だからだ。
絶対に離さない。
桜は、糸が切れたように体の力を抜いた。
安堵したように小さく息を吐き、そのまま俺の肩に額を預けてくる。
「……アキラ……」
微かに震えるその身体を、俺は軽く抱き寄せた。
華奢な肩。甘いシャンプーの香り。 俺の胸元で、彼女が小さく鼻をすする音が聞こえる。
(……馬鹿な奴だ。俺も……お前も)
心のどこかで、冷めきった自分がそう呟く。
こんな得体の知れない男に、人生ごと預けようとするなんて。
孤独と不安に漬け込めば、心なんて容易く掌握できる。
――だが。
俺の腕の中にいる彼女の体温が、シャツ越しにじわりと伝わってくる。
その熱を、妙に心地よく感じている自分もいた。
この震える背中を、この温もりを、守りたいと――錯覚しそうになるほどに。
(……いいだろう。全部、背負ってやる)
俺は奥歯を噛みしめ、無意識に彼女の背に回した手に力を込めていた。
利用するなら、最後まで責任を持つのが俺の流儀だ。
泥を被るのも、血を見るのも俺だけでいい。
お前はただ、その綺麗な場所で咲いていればいい。
俺は自分の矛盾に気づかないふりをして、俺は彼女の髪を一度だけ、優しく撫でた。
「もう寝ろ。明日は忙しくなるぞ」
しばらくして身体を離すと、桜は素直に頷いた。
赤く腫れた瞳だが、そこには先ほどまでの絶望的な色はなく、少しだけ、生きようとする生気が戻っている。
俺という“支え”を得たことで。
「……ありがとう、アキラ。おやすみ」
「おやすみ」
名残惜しそうな視線を受け流し、俺はバルコニーへと戻る。
手すりに足をかけ、闇夜へと躍り出た。
背後で、窓が閉まる音が聞こえる。
鍵をかける音。そして、カーテンが引かれる音。
着地し、振り返りもせずに歩き出す。
手応えは十分だ。
これで桜は、俺を頼るはずだ。
加賀も、当主となった桜の意志を無視して俺を排除することはできなくなるはずだ。
(……重いな)
掌に残る、彼女の体温の感触を握りしめる。
その重さは、復讐の道具としてはあまりに不釣合いだった。
だが、その重さごと引き受けると決めたのは俺だ。
見上げれば、雲の切れ間から月が冷ややかに覗いていた。
明日からは、いよいよ本格的に動き出す。
桜を支え、加賀を説得し、黒鉄を手に入れ、伊集院という巨人を掌握する。
その先に待つのが、死神との決着だとしても。
俺は目を閉じ、暗闇の中で静かに牙を研いだ。




