71話
離れに戻った時、時計の針は午前1時を回っていた。
シャワーを浴びて体にこびりついた鉄錆のような血の匂いを洗い流しても、鼻の奥にはまだ、あの密室の澱んだ空気がへばりついている気がした。
タオルで髪を拭きながら、俺は自室の椅子に深く腰を下ろした。
窓の外は漆黒の闇。
屋敷の方角からは、未だに微かなざわめきと、時折行き交う車の音が聞こえてくる。
混乱は続いている。
伊集院家の当主が消えた。
生死不明。痕跡なし。
残されたのは、主を失った巨大な組織と、震える少女、そして動揺する忠臣たち。
普通なら、絶望する場面だろう。
あるいは、巻き込まれることを恐れて逃げ出す場面かもしれない。
だが――俺は、鏡に映った自分の顔を見て、口角が微かに吊り上がるのを抑えられなかった。
手で顔を覆う。だが、指の隙間から漏れる熱は冷めない。
脳内で弾けるシナプスは止まらない。
思考が加速する。
崩壊したパズルのピースが、音を立てて俺のために組み変わっていく。
パズルのピースが、音を立てて組み変わっていく。
これは、チャンスだ。
千載一遇の、とびきりの好機だ。
伊集院家という組織は、あまりにも巨大で、あまりにも完成されすぎていた。
外部の人間である俺が、ただの「見習い」や「お嬢様の友人」という立場から中枢に食い込むには、途方もない時間と労力が必要だったはずだ。
どんなに才能を示そうが、壁は厚い。
だが、その頂点が、突然消滅した。
「王」の不在。
それは組織にとって最大の危機だが、野心を持つ者にとっては、空席になった玉座へ続く階段が現れたことを意味する。
俺は目を閉じ、脳内に相関図を描き出す。
まず、桜。
彼女は今、精神的に極限状態にある。
父親を失った喪失感と、突然の事態に対する恐怖。
だが、彼女は伊集院の血を引く唯一の後継者だ。
組織を維持するためには、彼女が「象徴」として立つしかない。
しかし、今の彼女にその覚悟も準備も足りていない。
ならば――誰かが支えなければならない。
誰かが、彼女の代わりに判断し、彼女の代わりに手を汚し、彼女を「女帝」として仕立て上げる必要がある。
その「誰か」に、俺がなる。
次に、加賀。
彼は優秀な執事であり、最強の護衛だ。
だが、彼は「守る」ことに特化しすぎている。
主を失った今、彼の判断基準は「桜の安全」のみに収束するだろう。
組織全体の運営や、敵対勢力との政治的な駆け引きにおいて、彼は迷う場面が出てくるはずだ。
そこを俺が補う。
桜を守るためという大義名分があれば、加賀は俺を利用することに同意するだろう。
俺という異物を飲み込んででも、彼は桜を守ろうとするはずだ。
そして、組織。
トップダウンで動いていた巨大組織は、頭を失えば必ず混乱する。
派閥争い、離反、外部からの侵食。
その混乱を鎮める過程で、俺は自分の「手駒」を増やしていけばいい。
力や頭脳。
俺の息がかかったやつを組織の隙間に配置し、俺だけが動かせる「私兵」として機能させる。
俺は、伊集院家を乗っ取るつもりはない。
そんな面倒な名誉はいらない。
俺が欲しいのは、復讐のための「力」だ。
伊集院家という巨大なシステムを、影から操るフィクサー。
桜を玉座に座らせ、その背後で糸を引く黒子。
それが、最短ルートだ。
そのためには、まず情報を確定させなければならない。
今回の失踪劇が、単なる誘拐や暗殺なのか、それとももっと異質なものなのか。
スマホを取り出し、澪の番号を呼び出す。
こんな真夜中だ。普通なら出ないだろうが、あいつなら起きている気がした。
コール音は三回。すぐに繋がった。
『……珍しいわね、こんな時間に。愛の告白以外なら手短に頼むわよ』
眠気を含んだ気だるげな声。
だが、その奥には常に覚醒している情報屋の鋭さがある。
「悪いな。どうしても確認したいことがあって」
俺は声を潜めて切り出した。
「単刀直入に聞く。……伊集院家と、正面から戦争をして勝てる組織は、この国にあるか?」
電話の向こうで、衣擦れの音が止まった。
澪の気配が変わるのがわかる。
『……どういう意味?』
「仮の話だ。もし伊集院家を潰そうとする勢力がいるとしたら、それはどこだ?」
少しの沈黙。
恐らく澪が頭の中にある膨大なデータベースを検索している間だ。
『……ないわね』
断定的な答えだった。
『部分的なら、あるわよ。例えば、金融資産だけで言えば外資系のファンドとか、武力だけで言えば海外のマフィアとか。特定の分野で拮抗する勢力はいくつかある。でも、“総合力”で伊集院家と全面戦争をして、勝算がある組織なんて存在しないわ』
「……やっぱり、そうか」
『伊集院家は、この国のインフラみたいなものよ。政治、経済、裏社会……根が深すぎる。彼らを潰そうとすれば、国ごと共倒れになるリスクがある。相互確証破壊ってやつね。だから、まともな頭をしている組織なら、手を出そうなんて思わない。精々、おこぼれを貰おうと擦り寄るくらいよ』
『……ふーん。まあいいわ。何かあったら、一番に教えなさいよ。』
澪の言葉で、状況は絞り込まれた。
外部からの攻撃ではない。あんな芸当ができる組織は、この国には存在しない。
ならば、残る可能性は――内部犯行か。
伊集院家の内部に、当主を消し去るほどの力を持った裏切り者がいる?
あるいは、派閥争いの果てに起きたクーデターか?
加賀の動揺を見る限り、彼ら正規の護衛部隊も予期していなかった事態だ。
だとすれば、もっと深く、もっと暗い場所に潜む何者かの仕業ということになる。
だが、それでも引っかかるところがある。
あの密室。
血痕だけで死体がなく、侵入の痕跡すらないあの状況。
『……ねえ、アキラくん』
澪の声が低くなる。
『何か、あったの?伊集院家の周辺で、奇妙なノイズを拾った気がするんだけど』
さすがだ。情報の断片から、違和感を嗅ぎ取っている。
だが、今はまだ言えない。
「……いや、ちょっと嫌な予感がしただけだ。確認できて安心したよ。ありがとう、澪」
『……ふーん。まあいいわ。何かあったら、一番に教えなさいよ。それじゃ』
通話が切れる。
俺はスマホを放り投げ、天井を見上げた。
外部犯ではない。
俺は立ち上がり、窓の外を見た。
夜明けはまだ遠い。闇は深く、世界を覆っている。
思考を切り替え、ベッドに入ろうと振り返った。
その時だった。
――ゾワリ。
背筋を、氷の指で撫でられたような感覚。
気温が下がったわけではない。
空気が、変質したのだ。
重く、粘りつくような、それでいて絶対的な静寂が部屋を支配した。
この感覚を、俺は知っている。
忘れるはずがない。
部屋の隅。
月明かりも届かない闇の中に、その影は立っていた。
黒い外套。
フードの下から覗く、この世のものではない美貌。
そして、すべてを見透かすような赤い瞳。
――死神。
小学生の頃、俺の前に現れて以来、気配はすれども姿を見せることはなかった「契約者」。
それが今、なぜ。
言葉を失う俺の前で、死神は楽しそうに目を細めた。
音もなく一歩、俺の方へ踏み出す。
それは、混沌の本当の始まりを告げていた。




