70話
廃駅での密会を終え、俺は夜道を歩いていた。
冷たい夜風が火照った思考を冷やしていく。
ポケットの中のスマホを強く握りしめ、俺は伊集院家の敷地内にある「離れ」へと足を向けた。
一度部屋に戻り、制服から動きやすい服に着替える。
表向きの高校生活は終わりだ。ここからは、伊集院家の影として動く時間――暗部の訓練へと向かう手筈だった。
だが、離れの玄関を出た瞬間、俺は足を止めた。
空気が、おかしい。
いつもなら静寂という名の規律に守られているはずの広大な庭が、ざわついていた。
砂利を乱暴に踏みしめる複数の足音。
木々の間を忙しなく行き交う懐中電灯の光束。
そして、風に乗って微かに聞こえる、押し殺したような怒号と、無線機のノイズ。
(……何だ?)
ただの訓練ではない。通常の警備体制の変更でもない。
屋敷全体が、得体の知れない混乱に叩き起こされたような、ピリついた異臭に包まれている。
俺は闇に目を凝らし、慎重に歩き出した。
その時、母屋の方角から早足で歩いてくる人影があった。
加賀だ。
いつもなら氷のように冷静で、衣服の乱れ一つ許さない彼が、ネクタイを緩め、額に脂汗を滲ませている。
「加賀さん」
俺が声をかけると、加賀は弾かれたように肩を震わせ、鋭い視線をこちらに向けた。
俺だと認識した瞬間、その強張った表情がわずかに緩むが、すぐにまた険しいものに戻る。
その瞳には、隠しきれない動揺が走っていた。
「……アキラ様。今夜の訓練は中止です。すぐに離れに戻り、決して外に出ないでください」
拒絶の言葉。
だが、その声音には命令というよりも、切羽詰まった懇願に近い響きがあった。
「何かあったのか? ただ事じゃない雰囲気だけど」
この屋敷で、あの加賀がこれほど取り乱す事態など、記憶にない。
組織の抗争か?それとも警察の大規模な介入か?
加賀は一瞬、迷うように口を結んだが、周囲を警戒するように見回してから、声を極限まで潜めた。
「……緊急事態です。ですが、まだ公にはできません。とにかく、戻って――」
その会話を切り裂くように、悲痛な叫び声が夜気に響いた。
「嫌だッ!!」
聞き間違えるはずもない。桜の声だ。
屋敷の母屋の裏手からだ。
俺は加賀の制止を聞かずに駆け出した。
手入れされた砂利を蹴散らし、植え込みを強引に飛び越え、声のした方へ向かう。
背後で加賀が俺の名を呼んだが、構わなかった。
たどり着いたのは、母屋のさらに奥。
そこには、普段は厳重にロックされ、誰も近づくことを許されない「開かずの扉」がある。
伊集院家の当主――桜の父親だけが入ることを許された、地下最深部への入り口だ。
その重厚な鉄扉が、今は無惨に半開きになっていた。
周囲には警備兵たちが立ち尽くし、青ざめた顔で中を覗き込んでいる。
彼らの手にする銃口は、どこにも向かう場所がなく、ただ力なく垂れ下がっていた。
そして、その入り口の前で、桜がへたり込んでいた。
「嘘よ……そんなわけない……お父様が……」
桜は震える手で口元を覆い、目を見開いたまま一点を凝視していた。
その瞳からハイライトが消え、映しているのは底知れぬ絶望だけだ。
「桜!」
俺が駆け寄ると、彼女は縋るように俺の腕を掴んだ。
指先が、死人のように冷たい。
「アキラ……お父様が……お父様が、いなくなったの」
「いなくなった?」
俺は眉をひそめた。
伊集院家の当主が、失踪?
そんな馬鹿な話はない。
あの男は、この国の影の支配者の一人だ。それに、ここは要塞のように守られた伊集院の本拠地だぞ。
遅れて追いついてきた加賀が、苦渋に満ちた顔で俺たちの横に立った。
呼吸を整えようとしているが、その手は微かに震えている。
「……アキラ様。見たことは、他言無用でお願いします」
そう言って、加賀は顎で扉の奥を指し示した。
俺は桜の肩を支えながら、その「開かずの間」の中へと足を踏み入れた。
鼻をついたのは、濃厚な鉄錆の臭い。 そこは、異様な空間だった。
コンクリート打ちっぱなしの冷たく無機質な部屋。
壁一面には見たこともない複雑な紋様が刻まれ、床には幾何学的な図形が描かれている。
部屋の中央には、巨大な機械のような、あるいは祭壇のようなものが鎮座していた。
最新鋭の電子機器の冷却音と、何か古い儀式的な装置の威圧感が混ざり合う、不気味な光景。
だが、俺の目を釘付けにしたのは、それらではなかった。
――血だ。あまりにも、多すぎる。
部屋の中央。祭壇のような場所を中心に、大量の血液がぶち撒けられていた。
床に広がる赤黒い水たまりだけではない。
壁、天井、そして精密機器の隙間に至るまで、何かを内側から破裂させたような飛沫がこびりついている。
それなのに。
誰も、いない。
死体はおろか、肉片ひとつ落ちていない。
ただ、大量の血痕だけが、つい先ほどまでそこに「生きた人間がいた」という事実を残酷に証明していた。
「……これは」
俺は息を呑んだ。
この出血量だ、助かるはずがない。人間の致死量を優に超えている。
だが、死体がない。運び出された形跡も、引きずった跡もない。
まるで霧のように消滅している。
「密室、か」
俺が呟くと、加賀が重く、沈み込むように頷いた。
「はい。この部屋のセキュリティは、伊集院家の最高機密です。生体認証、虹彩スキャン、物理的な厚さ五十センチの鋼鉄製扉。内側からしか開けることはできず、外部からの侵入は、物理的にも電子的にも不可能です」
加賀の声は、事実を述べながらも、現実を受け入れ難いという響きを含んでいた。
「当主様は、今夜ここでお一人で入られました。モニターでバイタルは確認していましたが……突如、反応が消失。慌ててセキュリティを強制解除して踏み込んだところ……この惨状です」
俺は、血だまりの中央に目をやった。
そこには、主を失った一丁の拳銃と、破り捨てられたような数枚のレポート用紙が、赤く染まって落ちていた。インクが血に滲み、判読不能な文字の羅列と化している。
(……何があったんだ)
桜の父親。
冷徹で、合理的で、圧倒的なカリスマ性を持つ男。
その男が、こんな訳のわからない状況で蒸発した?
誘拐?暗殺? いや、誰ができる?
日本のトップに君臨する男を、この厳重な要塞の、さらに深層の密室から、跡形もなく消し去るなんて芸当が。
俺の思考は空転する。
理解できない。俺がこれまでに培った裏社会の常識や「知識」では、説明がつかない現象だ。
桜が、ふらりと血だまりの方へ歩き出した。
「お父様……どこ……?」
夢遊病者のように呟きながら、高価なドレスが汚れることも厭わずに、血塗れの床に膝をつこうとする。
「桜! やめろ!」
俺は慌てて彼女の腕を掴み、強く引き留めた。
「離して! お父様が……まだそこにいるかもしれないの! 探さなきゃ……!」
桜は半狂乱で叫んだ。
いつも気丈で、凛としていた「伊集院の令嬢」の姿はどこにもない。
ただの、父親という絶対的な庇護者を失った、無力な少女がそこにいた。
「いないんだよ! 見ろ、この状況を!」
俺は彼女の両肩を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「落ち着け。今、お前が取り乱してどうする。……お前は、伊集院家の娘だろ」
残酷な言葉だとは思った。
だが、今ここで彼女が崩れれば、この場を収める人間がいなくなる。
当主が消えた今、この巨大な組織を繋ぎ止めることができるのは、その血を引く彼女しかいないのだ。
桜は、涙で濡れた瞳で俺を見つめた。
唇を血が滲むほど噛み締め、呼吸を整えようと必死にあがく。
「……っ……うぅ……」
嗚咽を漏らしながら、彼女は俺の胸に顔を埋めた。
俺は、その小刻みに震える背中を抱きとめることしかできなかった。
加賀が、痛ましげに目を伏せる。
周囲の警備兵たちも、動揺を隠せずに立ち尽くしている。
主の不在。
それは、この絶対的な帝国にとって、終わりの始まりを意味していた。
俺は、桜の髪を撫でながら、血なまぐさい部屋の中央を見つめ続けた。
(……何が起きたかはわからない。だが)
背筋を走る冷たい直感が告げていた。
この事件は、俺の計画にも致命的な影響を与える。
黒鉄や荒川組どころの話ではない。
伊集院家の当主が消えたことで生まれる巨大な空白。
そこに流れ込んでくる混沌は、俺の復讐の計画をも、根底から覆すだろう。
あるいは――好機となるか。
俺は、腕の中の桜を少しだけ強く抱きしめた。
彼女を守るという約束。
それは今、これまでにない重さと危険を孕んで、俺にのしかかっていた。
この瞬間から、伊集院家は変わる。
そして俺の立ち位置も、それにあわせて変わらざるを得ない。
濃厚な血の匂いが充満する密室で、俺は静かに覚悟を決めた。
当主の座が空いたこの巨大な力を、どう利用し、どう生き抜くか。
混沌の幕開けだ。




