66話 不破 蓮
この話は非常に悩みました……。書き上げて2日くらい悩みました。この悩みについてはいずれ語りたいところではあります。
世界は、退屈な数式でできている。
私には、そう見えてしまう。
風の吹く角度、木の葉が落ちる軌道、廊下ですれ違う生徒たちの歩幅、交わされる会話の予測可能なパターン。
すべてが物理法則と確率論の支配下にあり、変数はあれど、解は常に「想定の範囲内」に収束する。
驚きがない。
未知がない。
私の脳は、目に入る情報を瞬時に解析し、数秒先の未来を演算してしまう。
だから、世界はいつも、ネタバレされた映画のように色あせている。
「……つまらない」
図書室の窓際。ここだけが、私の安息の地だ。
古い紙の匂いと静寂。ここにある知識だけは、私を裏切らない。
既に確定した過去の記録か、あるいは純粋な論理の世界だけが、私に平穏を与えてくれる。
手元の洋書をめくる。
『カオス理論』。
複雑系、非線形、予測不能な挙動。
学者はそれを「カオス」と呼ぶけれど、私にはそれすらも、美しい規則性の一部に見えてしまう。
(……どこかにいないかしら)
ふと、視線を本のページから外し、窓の外を見る。
(私の計算を狂わせる、バグのような存在が)
思い出すのは、この前のこと。
生徒会室で、極秘に入手した入学試験のデータを見た時の衝撃だ。
ある一人の受験生。
全教科満点。
それだけなら、たまにいる秀才で済む。
だが、その数学の解答用紙は異常だった。
記述式の最終問題。
学校側が用意した模範解答はもちろん、大学レベルの別解まで、余白にびっしりと書き込まれていたのだ。
しかも、その筆跡には迷いが一切なかった。
まるで、「こんな問題、退屈しのぎにもならない」と言わんばかりの、傲慢で、冷徹な知性。
私は戦慄し、そして歓喜した。
――いる。
この学園のどこかに、私と同じ景色を見ている人間が。
あるいは、私以上の解像度で世界を認識している「同類」が。
けれど、入学式でその姿を見ることはなかった。
新入生代表として挨拶したのは、伊集院家の令嬢、桜さんだった。
彼女も優秀だ。けれど、あの答案用紙を書いた人間とは違う。
あの狂気じみた論理の飛躍は、彼女のような「光」の側の人間が持つものではない。
彼は隠れている。
能ある鷹が爪を隠すように、凡庸な生徒の群れに紛れ込み、息を潜めている。
(見つけ出してみせる。……私の退屈を殺してくれる、未知数を)
そんなことを考えていた、その時だった。
図書室の扉が開き、一人の男子生徒が入ってきた。
少し気だるげな足取り。整っているが特徴のない顔立ち。
制服の着こなしも普通。
データ上は、どこにでもいる「モブ」の一人。
私は興味を失い、視線を本に戻そうとした。
だが――彼が、書架の横を通り過ぎる瞬間。
スッ。
彼が何気なく、そこに置かれていた移動用の梯子に手をかけた。
歩くスピードを緩めることもなく、流れるような動作で、梯子を横にスライドさせる。
カタン。
乾いた音がして、梯子が止まった。
彼は振り返りもせず、そのまま奥へと歩いていく。
私は、息を呑んだ。
ズレていたのだ。
さっきまで、その梯子は、本棚の縦のラインに対して微妙に角度が狂っていた。
私にはそれが、美しい絵画に泥がついているような「ノイズ」として見えていた。
直そうかと思っていたけれど、席を立つのが億劫で放置していたノイズ。
それを、彼が直した。
いや、ただ直しただけじゃない。
私は震える手で眼鏡の位置を直し、その梯子を凝視した。
本棚の高さ。床の幅。窓枠の比率。
その梯子が止まった位置は、空間全体を構成する要素の中で、最も美しく、最も安定する一点。
――黄金比。
完璧だった。
ミリ単位の狂いもなく、その座標に収まっている。
(……嘘でしょ?)
彼は、メジャーも使わず、計算もせず、ただ通りすがりに手を触れただけで、その「解」を導き出したの?
無意識に?
感覚だけで?
私の脳内で、彼に対する評価関数がエラーを吐き出し、再計算を始める。
凡庸な生徒? いいえ、違う。
あの歩き方、あの視線の配り方、そして今の空間把握能力。
世界が、色を取り戻していくような感覚。
灰色の数式で埋め尽くされていた視界に、鮮烈な「赤」が差す。
心臓が、早鐘を打ち始めた。
こんな高揚感は、生まれて初めてだ。
彼だ。
間違いない。
彼こそが、私が探し求めていた「あの答案用紙」の持ち主。
名前は知っている。書類上のデータも頭に入っている。
だけど、そんなものはただの飾りだ。
彼の本質は、もっと深く、暗く、底知れない場所にある。
私は本を閉じた。
もう、知識などいらない。
目の前に、解き明かすべき最大の「謎」が現れたのだから。
私は立ち上がる。
彼が向かった書架の奥へ。
逃がさない。
絶対に、この退屈な檻から私を連れ出してもらう。
唇の端が、自然と吊り上がった。
これが「楽しい」という感情なのだと、私は初めて知った気がした。
さあ、答え合わせをしましょう。
……ふふ。




