65話
翌日の放課後。
終業のチャイムが校舎の喧騒を吸い取り、代わりに静寂が廊下を満たしていく時間帯。
俺は一人、図書室の重厚な木の扉を押し開けた。
目的は情報収集ではない。
昨夜の篠原との一件で実力を見抜かれたことにより、あまり俺の存在が疑われるのはよくない。
組織内で余計な疑念を抱かれないためには、表の顔である「模範的で無害な生徒」という姿を強化しておく必要があった。
適当な本を借り、図書室で時間を潰す。
退屈な優等生としてのアリバイ工作だ。
そして、この前会った不破がいたら探ってみるか。あいつは気になる。
一歩足を踏み入れると、図書室の中は、外の世界とは違う時間が流れていた。
西日が巨大な窓から差し込み、舞い上がる埃を黄金色に染め上げている。
幾重にも本棚の影が長く伸び、インクと紙の乾いた匂いが鼻腔をくすぐる。
ここは、知識の墓場だ。静かで、冷たく、心地よい。
俺は目的もなく、巨大な本の迷路へと足を踏み入れた。
天井まで届く本棚には、万の知識が眠っている。だが、今の俺の興味を引くものは何一つない。
裏社会で生き抜くために必要な知識は、すべて血と泥の中で、痛みと共に学んできたからだ。
その時だった。
視界の端に、許しがたい“異物”が映り込んだ。
移動用の木製梯子だ。
高い場所にある本を取るための、重厚なアンティーク調の代物。レールに沿って滑るその梯子が、巨大な本棚の中央付近で停止している。
――ズレている。
俺は眉をひそめた。
誰かが使った後なのだろう。その梯子の位置が、壁全体の構図に対して、ほんの少しだけ中途半端な場所に停止していた。
本棚の縦のライン、床の板目、そして窓枠の影。
それらが織りなす幾何学的な美しさの中に、その梯子だけが半端な角度で割り込んでいる。
普通の人間なら気にも留めない誤差だ。
だが、今の俺の神経は、昨夜の命のやり取りと、張り詰めた二重生活の中で極限まで研ぎ澄まされている。
その微細な「不協和音」が、視界に入るだけで生理的な不快感を呼び起こした。
まるで、整った顔面に泥が付着しているかのような、あるいは完璧な数式に不要な項が混じっているかのような、許しがたいノイズ。
(……気持ち悪いな)
俺は歩みを止めなかった。梯子を使うつもりもない。ただ、その横を通り過ぎる瞬間。
無意識に、左手が動いた。
指先で梯子のフレームを捉え、歩く勢いを殺さずに、スッ、と横になぞる。
抵抗なく滑る車輪。
カタン。
乾いた音が響き、梯子が止まる。
俺は振り返りもしない。だが、背中の感覚でわかる。
梯子は今、壁全体の黄金比の分割点、最も美しく安定する座標に収まった。
視界のノイズが消え、世界があるべき姿に戻る。
「……チッ。」
俺は小さく舌打ちを漏らし、ネクタイの歪みを直す程度の感覚で、そのまま書架の奥へと消えた。
数分後。
適当な歴史書を一冊手に取った俺は、貸し出し手続きのためにカウンターへと向かった。
そこには、いつものように不愛想な図書委員――不破蓮が座っていた。
以前、少し言葉を交わしただけの関係。
だが、今日はどこか空気が違った。
彼女は俺が近づくと、読んでいた本をゆっくりと閉じた。その動作一つにさえ、何らかの儀式めいた重みがある。
「……貸し出しね」
感情の起伏を感じさせない、平坦な声。
だが、俺が本を差し出すと、それを受け取る彼女の白く細い指先が、ほんの一瞬、微かに震えたのを俺は見逃さなかった。
(……なんだ?)
恐怖か? いや、違う。
彼女の視線は、俺の手元ではなく、俺の目、いや、もっと奥にある思考そのものを探ろうとしているように見えた。
まるで、難解なパズルを前にした探求者のような目だ。
「ああ。頼む」
彼女は黙々と手続きを進める。
バーコードを読み取る電子音だけが、静寂を切り裂く。
モニターの光が彼女の眼鏡に反射し、表情を読み取らせない。
「……あなた」
不意に、彼女が口を開いた。視線は手元の端末に向けられたままだ。
「この図書室は、静寂を旨としているの。……無駄な『音』は立てないでくれるかしら」
それは、ただの注意喚起のようであり、もっと深い意味を含んでいるようにも聞こえた。
“世界にノイズを生むな”
“私の領域を乱すな”
あるいは“お前なら、私の求めている静寂を理解できるはずだ”という、試すような響き。
俺は彼女の横顔を一瞥する。
氷のような冷たさの中に、奇妙な熱量を孕んだ瞳が、ガラス越しにこちらを盗み見ている。
(……さっきの梯子か?)
俺の些細な行動を見ていたのかもしれない。
だとしたら、目ざとい女だ。
凡百の生徒とは、見ている解像度が違う。
俺の「神経質さ」をただの癖と取るか、それとも別の意味を見出すか。
だが、どちらにせよ好都合だ。
「こだわりが強く、神経質な優等生」というレッテルは、俺の隠れ蓑として悪くない。
「善処するよ。……アンタの完璧な城を汚すつもりはない」
俺の言葉に、彼女の口角がミリ単位で上がったように見えた。
それは、共犯者に向けるような、薄く冷たい笑みだった。
「……そう。期待しているわ」
手続きを終え、俺は図書室を後にした。
背後で重い扉が閉まる音が、現実世界への帰還を告げる。
だが、背中には確かに突き刺さっていた。
不破蓮という才女の、粘り着くような視線が。
屋上へと続く階段を上るにつれ、風の音が強くなっていく。
重い鉄の扉を押し開けると、夕暮れの空が視界いっぱいに広がった。
茜色と青混ざり合う空の下、フェンスに背を預けて立っている少女の姿があった。
伊集院桜。
風に揺れる長い黒髪を押さえながら、彼女はこちらを向いた。
その表情は、いつもの明るい幼馴染のものではない。
硬く、そしてどこか切羽詰まったものを湛えていた。
「……遅いよ、アキラ」
「悪かった。野暮用でな」
俺は短く答え、彼女の隣に並んだ。
眼下には、学園の広大な敷地と、その向こうに広がる街並みが見渡せる。
平和な景色だ。だが、この足元にはどす黒い闇が広がっていることを、俺たちは知っている。
「それで? 大事な話ってのは何だ」
俺が切り出すと、桜は少しの間、沈黙した。
言葉を選んでいるというよりは、口にするのを躊躇っているようだった。
フェンスを握る指が白くなっている。
やがて、彼女は意を決したように顔を上げた。
「……この前、生徒会室に呼ばれたの」
その言葉に、俺の警戒レベルが一気に跳ね上がった。
生徒会。
この学園における表の権力機構であり、情報収集の中枢。
「何の話だ?」
「不破会長から、直々にね。……私のことじゃないわ。」
桜の声がわずかに震える。
「『一年生が、夜の街での目撃情報があるけれど、あなたは何か知ってる?』って聞かれた」
俺は内心で舌打ちをした。
不破……。図書室のあいつが生徒会長か。
あの独特のオーラはそういうことか。
俺の個人名は出なかったようだ。だが、それは時間の問題だ。
夜に学生が動いていることは勘付かれている。
それが「俺」だと特定されるのは、そう遠くない。
「……適当に誤魔化したか?」
「ごまかしたけど、会長の目は笑ってなかった。あっちには、何か確証があるみたいな口ぶりだった」
桜が俺の制服の袖をギュッと掴んだ。
すがるような、それでいて逃さないという意思を感じる強さで。
「アキラ。あなた、今、何をしてるの?」
その問いかけは、悲鳴にも似ていた。
「以前とは違う。もっと危険で、もっと深い場所に……自分から飛び込もうとしてるでしょ」
俺は答えなかった。
答えるわけにはいかない。
俺の復讐に、彼女を巻き込むつもりはない。
彼女は「光」の世界で生きるべき人間だ。伊集院家の令嬢として、表の世界で輝くべきだ。
俺のような、一度死んで泥にまみれた亡霊が、その手を引いて地獄へ連れて行くわけにはいかないのだ。
「……考えすぎだ。俺はただ、生き残るために立ち回ってるだけだよ」
俺は彼女の手を優しく、だが拒絶の意志を込めて外しにかかった。
だが、桜の手は離れなかった。むしろ、爪が食い込むほど強く握りしめてくる。
「嘘よ!私の目を誤魔化せると思ってるの!?」
桜が叫んだ。
夕陽に照らされた彼女の瞳には、涙が溜まっていたが、それは弱さの涙ではなかった。
怒りと、決意の光だ。
「私だって、伊集院家の人間よ。裏側で何が起きてるかくらい、肌で感じるわ。……あなたが『あの夜』の続きをやろうとしてるなら、私だけ蚊帳の外になんてさせない」
『あの夜』。
俺たちの運命が狂い、そして結びついた火事の夜。
俺が彼女に助けられた夜。
俺は息を吐き出した。
やはり、この女は侮れない。守られるだけのヒロインでいるつもりはないということか。
「……生徒会が動いてるなら、じきに俺への干渉は強まるだろうな」
俺はフェンス越しに、校舎の最上階――生徒会室がある方向を見据えた。
あそこで、あの女狐が盤面を見下ろしている。
「桜。お前は何も知らなくていい。ただ、もし生徒会長がまた接触してきたら、全て正直に話せ。幼馴染が最近様子がおかしいってな」
「え……? どういうこと?」
「俺を売れってことだ。そうすれば、お前は疑われない。……それに、向こうが俺を『危険因子』だと認識してくれた方が、動きやすいこともある」
俺はニヤリと笑ってみせた。
虚勢ではない。盤面が複雑になるのは歓迎だ。
敵が増えれば、その分、混乱に乗じて暗部の中枢へ潜り込む隙も生まれる。混沌こそが俺の味方だ。
桜は呆気に取られた顔をしていたが、やがて悔しそうに唇を噛んだ。
「……バカ。私があなたを売るわけないじゃない」
彼女は真っ直ぐに俺を睨み返した。
「わかったわ。勝手にすればいい。……でも、覚えておいて。あなたの背中を守れるのは、私だけなんだから」
捨て台詞のように言い放ち、桜は背を向けて走り去っていった。
鉄の扉が閉まる重い音が、再び屋上に静寂をもたらす。
俺は一人、フェンスに肘をつき、眼下に広がる校舎裏を見下ろした。
(……背中、か)
その時だった。
眼下の裏庭――生徒たちが寄り付かない焼却炉の付近に、一人の男が座り込んでいるのが見えた。
着崩した制服。伸び放題の髪。学園指定の鞄を枕にして、死んだように空を見上げている。
その周囲を、数人の教師が通りかかったが、誰も彼に注意しようとしない。
いや、気まずそうに視線を逸らし、足早に通り過ぎていく。
まるで、そこにある「失敗作」を直視したくないかのように。
俺は目を細め、記憶の引き出しを探った。
見覚えがある。
学内報。そこに掲載されていた、整った身なりの模範生。
(確か黒鉄だったか……)
当時、学年主席はおろか、全国模試でも名を馳せた神童。
将来の生徒会長候補とも、謳われた男。
だが、ある日を境に、彼はプツリと糸が切れたように堕ちた。
何があったのかは知らない。過度なプレッシャーか、家庭の崩壊か、あるいはこの学園の「闇」を見てしまったのか。
優等生の仮面を脱ぎ捨てた彼は、今や学園で最も恐れられる「狂犬」へと変わり果てていた。
かつての功績があるからこそ、学校側も容易には切り捨てられず、こうして飼い殺しにしているというわけか。
彼がゆっくりと身を起こした。
その横顔には、かつての面影も見当たらない。
あるのは、すべてを噛み砕きたいという飢えと、深い絶望だけだ。
俺の口元が、自然と歪んだ。
「元・超優等生」の成れの果て。
最高じゃないか。
ただの馬鹿な暴れん坊なら要らない。
だが、一度は頂点を知り、そこから泥の中へ堕ちた人間には、特有の凄みが宿る。
あいつなら、すべて憎んでいるはずだ。
壊したがっているはずだ。
ふらりと立ち上がり、校門の方へと歩き出した。
向かう先は、夜の繁華街だろう。この窒息しそうな檻から逃げ出し、痛みと喧騒にまみれるために。
俺はフェンスを蹴り、歩き出した。
ターゲットは定まった。
あの堕ちた天才の首に、俺の鎖を繋いでやる。
この高校生活は、やはり退屈しそうにない。




