63話
伊集院家の敷地に足を踏み入れた瞬間、外界の喧騒がふっと消える。
塀は高く、門の内側はどこもかしこも手入れが行き届いていて、砂利道を歩くたびに小石が音を吸い込むように沈んでいった。
俺と母さんが暮らしているのは、母屋から少し離れた離れだ。
もとは客人を泊めるために建てられた平屋らしいが、家具も内装も上質で、生活に不自由はない。
むしろ、昔の暮らしを思えば贅沢すぎるくらいだった。
玄関を開けると、キッチンから包丁がまな板を叩く小気味よい音が響いてくる。
靴を脱ぎ、足音を殺して廊下を進むと、エプロン姿の母さんが振り返った。
俺を見るなり、ほっとしたように表情を緩める。
「おかえリ、アキラ。今日は早かったのね」
「ああ。寄り道する気分じゃなかったから」
母さんは小さく笑い、コンロの火を弱める。
「夕飯、あと少しでできるから、荷物を置いてきなさい」
「……ああ」
短いやり取りの中に、言葉にならない遠慮のような空気が漂う。
俺が部屋へ向かおうとすると、背中に柔らかな声がかけられた。
「無理……してないわよね?」
足が止まった。
問いかけの奥にあるのは、母さんなりの不安と、俺を心配する気持ちだ。振り返らず、少し間を置いて答える。
「してない。……慣れてるから」
母さんに余計な心配をかけるつもりもない。
この家で過ごす時間は、俺にとって“表の顔”でいるための時間だ。それを壊すような言葉は吐けなかった。
部屋に戻り、制服を脱いでジャージに着替える。
机の引き出しから訓練用の道具と滑り止め付きの手袋を取り出すと、革の匂いがわずかに鼻をかすめた。
――俺がこの道を選んだのには、理由がある。
① 伊集院家が関わっていた可能性のある事件の情報収集。
転生前、俺を死刑台に送った実行部隊。その背後に、伊集院家の影がちらついていた。
だが今の立場では、組織の中心的な情報に触れることすらできない。
暗部の修行を終え、一人前と認められなければ、真相には辿り着けない。
② 暗部の名簿の調査。
刑務所で俺を監視していた看守の一人――あの男には伊集院家のタトゥーがあった。
ただの公務員ではない。暗部の内部資料を調べることができれば、その顔と名前を突き止められるはずだ。
③ 父親の居場所。
生きているかすら不明だ。再起は不可能だとしても、俺の邪魔になる可能性のある存在は常に把握しておきたい。
④ 伊集院家の中心部へのアクセス。
莫大な資産と情報を握る組織の核。その価値は計り知れず、そこに辿り着くことこそ復讐の第一歩だ。
机の上に鞄を置き、手袋をはめ直す。
窓の外は藍色に染まり始め、庭の端に灯された外灯が足元を淡く照らしている。
キッチンの光に揺れる母さんの横顔が見えたが、声はかけなかった。
――せめてこの時間だけは、母さんにとって“普通の夕方”のまま残してやりたかった。
玄関で靴を履き替え、外へ出る。
夜の風が肌を冷やし、頭が冴えていく。
離れから訓練場までは歩いて十五分ほど。
その間に、表の顔から裏の顔へと、ゆっくりと意識を切り替える。
俺の裏の一日は、これから始まる。
敷地の奥にある古びた物置小屋。
外から見ればただの倉庫だが、内側には暗証番号式の錠と指紋認証が隠されている。
親指をスキャナーに当てると、低い電子音と共に錠が外れた。
扉を開ければ、地下へと続く冷たい階段。
コンクリートの匂いが肺を満たし、外界と切り離された空間へと足を踏み入れる。
地下の広間に出ると、既に何人かの訓練生が準備を始めていた。
笑い声など一つもない。
聞こえてくるのは、靴底が床をこする音と、荒い呼吸の音ばかりだ。
――俺も、そちら側に足を踏み入れる。
荷物を棚に置いたとき、低い声が響いた。
「整列」
その声に、全員が一斉に動きを止める。
広間に姿を現したのは、教官――篠原美琴だった。
年齢は二十代後半。すらりとした体つきに黒い訓練用ジャージ。
無駄のない動きと、全員を射抜くような眼差し。
女であることを意識させることすらないほど、戦士としての雰囲気をまとっていた。
「今日の課題は――格闘術。制限はしない。技術も体力も、全部出せ」
静かな声だが、広間全体を震わせるような迫力があった。
訓練生たちが次々にリングへ上がり、互いに組み合う。
打撃、投げ、締め技。
倒れてもすぐに起き上がり、再び構えを取る。
勝敗よりも、タフさと対応力を試す訓練だった。
やがて俺の番が来る。
向かい合ったのは体格のいい男。
開始の合図と同時に突っ込んできた。
打撃の軌道は読める。
避けるのも、受け流すのも簡単だ。
だが――俺はわざと半歩、反応を遅らせた。
わざと攻撃を受け、わざと倒れる。
呼吸を乱し、必死に立ち上がる演技をする。
転生者としての経験と実力は、まだ誰にも晒すつもりはなかった。
ここでは、目立たない平凡な訓練生でいなければならない。
しかし。
「……立て」
低い声が降ってくる。
篠原教官の視線が、まっすぐ俺に突き刺さっていた。
彼女はすでに気づいている。
俺が“わざと”負けていることを。
技の受け方、崩れ方、呼吸の乱し方――すべてが不自然だということを。
冷や汗が背筋を伝う。
隠したつもりの実力を、あっさり見抜かれた。
「もう一度だ」
篠原の声に従い、俺は再び構える。
――ただし、今度は本気の一端を見せるつもりだった。
再び合図が出た瞬間、相手の踏み込みが視界に入る。
先ほどと同じ直線的な突進――だが、今度は反応を遅らせない。
打撃が来る前に腰を捻り、相手の腕を掴む。
そのまま体重を利用して背後に回り込み、一気に重心を崩す。
床に叩きつけることもできたが、寸でのところで力を緩めた。
鈍い音とともに相手は倒れ込み、苦痛に顔を歪めている。
だがすぐに立ち上がり、構え直した。
俺もまた、呼吸を整えるふりをして距離を取る。
――これで十分だろう。
本気の一端を見せたことで、平凡を装う俺の動きにも、少しは説得力が出たはずだ。
だが、篠原の眼はやはり鋭く俺を捉えていた。
それから複数の人間がスパーリングを交わしたところで、教官の声が響いた。
「そこまで」
リングから下り、交代する。
体は汗で濡れ、筋肉が心地よく悲鳴を上げていた。
周囲の訓練生たちはそれぞれ打ち込まれ、倒れ、また立ち上がり――誰も弱音を吐かない。
その後も訓練は続いた。
ロープを使った懸垂、模擬銃を使った照準訓練、重りを背負っての反復横跳び。
肉体を追い込みながら、常に集中を途切れさせないよう求められる。
ここで生き残れなければ、裏の世界で立つ資格はない。
それを全員が理解していた。
やがて篠原の声が広間に響く。
「今日はここまで。……解散」
緊張の糸が少しだけ緩む。
訓練生たちは無言で荷物をまとめ、地下の出口へと散っていく。
俺も荷物を手に取り、退室しようとした、そのとき――。
「アキラ」
名を呼ばれ、振り返る。
篠原がリングの端に立ち、じっと俺を見ていた。
その眼差しは、訓練中よりもさらに冷たく、研ぎ澄まされている。
「お前、残れ」
心臓がわずかに跳ねた。
隠してきたはずのものが、やはり彼女の目にはごまかせなかったらしい。
――仮面をかぶり続けるのも、簡単じゃないな。
そう思いながらも、俺は頷き、静かに荷物を置き直した。




