54話 脱出
微かに耳元で誰かの声が響いた。
「……アキラ……アキラ……」
懸命に、必死に呼ぶ声。沈む意識の底から、俺はゆっくりと浮かび上がっていった。
まぶたを開けると、焦げた匂いとともに目に映ったのは、這いつくばるようにして俺に手を伸ばす母親の姿だった。
「……母さん……?」
俺はガスが噴出した直後に伏せていたおかげか、吸い込んだガスの量が少なかったらしい。
頭は鈍く痛むが、体は動く。
俺は咄嗟に咳き込みながら、周囲の空気を確認するように浅く息を吸い、辺りを見渡した。
――熱い。
壁が、床が、赤く明滅している。
揺らめく炎がリビングの一角を包み込み、家具の一部はすでに炭のように黒く焦げている。
視界の端には倒れた母親の姿。近くには、うっすらと煙が立ち上っていた。
これは……火事だ。
だが、ただの偶発的な火災じゃない。もっと悪質な――意図的な炎。
鼻に刺さる強烈な臭い。ツンとした、乾いた刺激。
(……ガソリンの臭い?)
火の勢いと、この不自然な臭気。
ガスだけじゃ終わらせないという意図が、嫌というほど伝わってくる。
つまりこれは――焼き殺すための罠だ。
考えるより先に、心臓が跳ねた。
ここにいたら、確実に死ぬ。
俺は歯を食いしばり、這うようにして母親の元へ向かった。
熱気が肌を刺し、床の板はじわじわと熱を帯びている。
吐き出す息すら重く、酸素が薄れていくのが分かる。
炎はすぐそこまで迫っていた。壁紙が焼け、家具が崩れ落ち、焦げた煙が視界を霞ませる。
息を止め、必死に前へ進む。焦げた空気の中で、母の姿を視界に捉えた。
「母さん!」
倒れた身体はかすかに震えていた。髪の先が煤にまみれ、唇は青白い。
その目はかろうじて開いていて、俺が近づくのを確かに捉えていた。
俺は膝をつき、母親の肩を抱きかかえるようにして起こした。
「大丈夫か……!? 聞こえるか!」
母親の目がゆっくりと瞬き、小さく唇が動いた。
「アキラ……飲んで……これを……」
震える手が、俺の胸元に押し当てるように差し出してくる。
そこには、小さなアンプルのようなガラス瓶が握られていた。
震える手でそれを必死に支えている。
「お父さんが……計画のために持ってきたもの……万が一の時にって……でも、一つしか……」
母親は言葉を繋ぐだけでも精一杯の様子だった。
肺を焼くような咳が口から漏れ、細い指が瓶を落とさないようにと、必死に力を込めているのが分かった。
「母さん……!」
俺はその手から素早く瓶を受け取る。火の光を反射して、瓶の中の液体が鈍く揺れていた。
見た目は透明だが、嫌な予感しかしない。
一瞬ためらいかけたが――迷っている暇はない。
「……ッ!」
瓶の封を歯で引きちぎるように開け、そのまま口の中へと流し込む。
液体は想像をはるかに超える辛さと刺激を伴い、喉を焼きながら胃へと落ちていった。
「くそっ……なんだこれ……!」
舌が痺れ、視界が一瞬白く弾けた。
だが、その直後、脳の奥にこびりついていた霞が晴れ、体中に電流が走るような感覚が広がる。
意識が、感覚が、鮮やかに戻ってくる――まるで、眠っていた肉体が強制的に叩き起こされたようだった。
「アキラ……」
母親の声がまた届く。さっきよりも、さらに弱くなっていた。
「逃げなさい……早く……私のことはいいから……」
俺の声はかすれていた。
目の前の母親は、うつろな瞳でそれでも必死に俺を見ていた。
唇は乾き、言葉を搾り出すたびに微かに震えている。
「母さん……何言って……」
周りを確認すると、背後では天井が一部崩れ、炎がもう目と鼻の先にまで迫っていた。
壁は焦げ、空気は焦げ臭さと熱気で満ちている――ここに、長くはいられない。
母親の顔を確認すると母親の目が涙で滲んでいた。
唇は震え、声は弱々しい。それでも、その瞳だけは確かに俺を見据えていた。
「私の計画が……甘かったの……お父さんはきっと気づいてた……だから、私ごと……あなたを……」
その瞬間、何かが音を立てて崩れた気がした。
心の奥の、ずっと抑えつけていたものが爆ぜる。
喉の奥が熱くなり、胸を突き上げる怒りが一気に身体を突き動かした。
(ふざけんな。俺の計画を邪魔ばかりしやがって)
「……逃げない。母さんを置いていけるわけないだろ」
言葉が自然と口を突いて出た。選んでいる余裕なんてなかった。
火の熱気が肌を焼き、立っているだけで意識がぐらつく。
けれど、その中で母親の手が俺の袖を弱々しく掴んできた。
「無理よ……小さな体で……そんな……」
その声は、まるで諦めをそのまま吐き出したようだった。
でも、それが何だ。無理かどうかなんて、やってみなきゃわからない。
「黙ってろ……絶対に助ける」
歯を食いしばった。
腕に力を込めて、母親の身体を抱き上げる。
火傷するほど熱い空気が肌を刺し、視界が歪んでいく。
だけど、母親の体温が確かに腕の中にあった。
俺は……俺は……守らなきゃいけない。
小学生の体では重すぎる母親の身体。
だが、俺は諦めなかった。
床を這いながら、燃え広がる家の中を進んでいく。
煙が目に染み、視界が揺れる。それでも、一歩一歩前へ。
玄関が見えた。だが――火の手がまわっている。
(間に合え……間に合ってくれ……)
玄関のドアノブに手をかけた瞬間、
「熱っ……!」
火傷しそうなほど熱を持ったノブに咄嗟に手を引っ込める。
俺は傍に転がっていた靴を両手に取り、それを介してドアノブを回す。
「くそっ……開けっ……!」
ガチャン、と音がして、扉が少し開いた。
「母さん、しっかりつかまってろ……!」
全身に力を込めて、母親をもう一度抱え上げる。
そして、炎と煙の中を突き抜けて、外へ――。
夜風が肌を撫でる。炎の中とはまるで別世界。
だが、そこで俺の体は軋み、がくりと膝をつき、母親と共に地面に倒れ込む。
ゼェゼェと呼吸を繰り返す中、
『カチリ』
何かが、俺のこめかみに当たった。
「……よくここまで生き残ったな」
聞き覚えのある、凍るような声。
見上げると、そこに立っていたのは――父親。
銃を構え、無表情のまま、俺を見下ろしていた。
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