3話 死神
独房の夜は静かだ。
息を呑むほどの静寂に、時間さえ止まっている気がした。
看守は言った。
明日が、俺の死刑執行日だと。
終わるはずだった。
誰にも看取られず、誰にも悔いを吐けず。
ただ粛々と命を断たれる予定だった。
猛のことが頭に浮かぶ。
あいつが死んだとき、俺は何もできなかった。
猛が死ぬ前に俺に見せた表情を、今も鮮明に思い出す。
弱さを隠していたのか、それとも本当に恐れていたのか。
何もできなかった。
あんなにも近くにいたのに。
俺はただ、何もできないまま見ていることしかできなかった。
これは、あいつの死を無駄にしないためにも、俺が進むべき道だ。
全てを解き明かさなければ、俺は生きている意味がない。
裏切り、あいつが犠牲になった理由。
そしてその先にある真実を、必ず俺の手で掴み取る。
猛の死が無駄にならないよう、復讐の誓いを立てる。
……そのときだった。
独房の空気が、ふと重くなる。
風もないのに、ろうそくの炎が揺れたような――そんな錯覚。
何かが、おかしい。
その夜、“それ”は現れた。
何の前触れもなく、空気が変わった。
異物……。
そうとしか言えない存在感。
背筋を撫でる冷気に、思わず立ち上がった。
「……誰だ」
返事はなかった。ただ、暗闇の中に、黒い影がゆらりと立っていた。
顔は見えない。フードの奥で光るのは、感情のない…否、感情など超越した“目”だった。
「……お迎えか?」
その言葉に、影がゆっくりと動いた。
「そう……死神よ」
女の声だった。
その声音には冷たさと優美さが同居していた。
慈悲でも同情でもない。淡々とした、運命のような声。
全身に鳥肌が立つ。こいつは、本物だ。
「生を終える者の前に現れ、魂を刈り取る。それが私の役目」
冷たい口調で告げる。
「そうか……じゃあ、ここまでってわけだ」
ベッドの縁に腰を下ろし、俺は天井を見上げた。
だが、胸の奥でくすぶる炎が消える気配はなかった。
……納得できるわけがない。
「冤罪だなんて言うつもりはない。俺にも手を汚した過去はある。
だが、今のこれは俺を消すための筋書きだ。そうだろ?」
死神はしばし沈黙し、
黒い煙と共に、空間がひび割れを起こす。
そのひび割れから、一枚の紙がじわりと滲み出すように現れた。
「選びなさい。ここで死を受け入れ、すべてを終えるか。
それとも、別の生を得て……もう一度踊るか」
その紙には、どこか禍々しい光が宿っていた。名前を書くだけ。
ただそれだけで、俺はもう一度、生きる権利を得られるというのか。
その紙を見つめる。指先が微かに震える。
「条件は?」
「その代償として、あなたの魂はいずれ私のものとなる」
その言葉が、俺の心に重く響いた。
魂を奪う……。それだけで、すべてを納得するわけではない。
だが今は、それに賭けるしかない。
「……上等だ」
指先が紙に触れたとき、何かが弾けるように心が決まった。
「生き延びることに意味はない。だが、“辿り着く”ことには意味がある」
死神の目が、ほんの一瞬、揺れた気がした。
「ふふ……楽しませてもらうわ」
死神が手をかざすと、視界が崩れた。
音も、色も、感覚も、すべてが泡のように消えていく。
目を閉じる間際、俺は確かに誓った。
―――絶対に逃さない。
微かな熱と共に、まぶたの裏が明るくなっていく。
遠くで鳥が鳴いている。
……朝が来た。
昨夜の死神の言葉が、頭の奥で静かに響いていた。
『選びなさい。ここで死を受け入れ、すべてを終えるか。それとも、別の生を得て……もう一度踊るか』
恐らく俺は、契約をした……はず。
ただし、現時点では何も実感がない。
(極限状態の妄想か……)
思わず乾いた笑いがこぼれる。
重い扉がきしむ音とともに、看守の足音が独房へと近づいてくる。
鉄の扉が開かれ、無言のまま、俺は連行される。
廊下の空気は異様に静かで、寒さのない冷たさが皮膚にまとわりつく。
処刑室への道は、どこか現実味がなかった。
音が遠い。
足音も、呼吸も、鼓動さえも。
最後の扉が開く。
絞首台。縄。無言の処刑人。
すべてが無機質で、演劇のように整えられていた。
俺は台に立ち、縄を首にかけられる。
観念も、恐怖もない。
ただ――静かだった。
そのとき。
遠くで、誰かの泣き声がした。
嗚咽。
でも確かに耳に触れる、壊れたような声。
一瞬、体がわずかにこわばったが…
処刑人の手が動く。
俺はフードで頭を覆われ、目の前が真っ暗になった。
悔しさも絶望も……。
すべてを超えた先にあったのは……ただの虚無だった。
俺は……負けた。
ただ、その事実だけが俺に重くのしかかる。
裏世界に足を踏み入れてから、俺の人生は常に崖の上だった。
ギリギリを歩き続け、ようやく終点にたどり着いたと思った。
だが、最後の最後で……踏み外した。
いや……後ろから突き落とされたか。
まだ……諦めきれない。
神でも悪魔でも構わない。
命なんて、くれてやる。死神よ――お前でもいい!
(死神……聞こえてるんだろ? 幻覚でも、妄想でもいい。もう一度、チャンスをくれ!)
――でも、返ってきたのは、ただの沈黙だった。
暗闇は変わらず、音も気配も、なにもない。
そこにあったのは、絶望を照らす光すらない、ただの闇だけだった。
俺の思いは空を切った。
『ビーッ!』
唐突に無機質な警告音が鳴る……。
『カチッ』
なんらかのボタン音が暗闇に響く。
その直後……俺の体は宙に跳ねる。
首がもげるような痛み。
息ができない。
すべてが白く、意識が遠ざかる。
そして、世界が途切れた。
だが……終わりは来ない。
俺は死んだ。……のか?
……なのに。
まだ生きている感覚がそこにはあった。
目をあけると先ほどまでは真っ暗だったのに、
そこは真っ白な闇だった。
感覚のない空間に、足音だけが近づいてくる。
その音が止まったとき、女の声が響いた。
「時がきた。そして契約が果たされた」
死神だった。
あの夜、契約を持ちかけた女。
「さて、極上の舞台へ望む覚悟があるなら、私が連れて行ってあげる」
俺は何も迷わずに首を縦に振った。
ぼんやりとした感覚のなか、確かに感じる。
俺の世界は、また始まる実感があった。
――意識が歪み、暗闇に包まれる。
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