30話 決心
アキラの寝息が聞こえなくなって、しばらくリビングで一人、静寂に耳を澄ませていた。
昼間の喧騒が嘘のように遠い。食卓に残った食器を片付けながらも、思考は止まらない。
扉が開く音。
振り返ると、彼が立っていた。
偽造された書面上での夫であり、そして──私をここに置いた『組織』の人間。
隙のない佇まい。その顔は整っているけれど、目が笑っていないのも同じだった。
部屋の空気が、一瞬で張り詰める。
「寝たのか?」
低く、感情の読めない声。
「はい。もう」
私は小さく答えた。
無意識に、指先が震えるのを感じる。
彼は無言でソファに腰を下ろした。
テーブルの上にあった新聞にざっと目を通している。
その横顔からは、何も読み取れない。
何を考えているのか、何を感じているのか。
この数年、共に過ごしているはずなのに、何も分からない。
今回の任務。
私にとって、初めての『仕事』だ。
それも、これほど重要な、異例の抜擢だと聞いている。
──なぜ、私が選ばれたのだろう。
疑問が、胸の奥で渦巻く。私には、何もないのに。
アキラと同じ、孤児だった。
施設で育ち、成人してからも、社会のどこにも居場所を見つけられずにいた。
誰も私を見てくれなかった。誰からも必要とされなかった。
あのままなら、きっと、どこかでひっそりと消えていただろう。
そんな私を、『組織』は拾い上げた。
衣食住を与えられ、『任務』という名の役割を与えられた。
生きる意味を与えられた。
だから、従ってきた。逆らうという選択肢は、思いつきもしなかった。
でも、なぜ、この任務に?
他にもっと、優秀な人間はいくらでもいるはずなのに。
私のような、何の取り柄もない人間を。
──アキラと、同じ境遇だから?
そんな単純な理由なのだろうか。
何か裏があるような気がする……。
「準備が済んだら、計画を実行する」
突然、彼が新聞から目を上げて言った。
声には、一切の迷いがない。決定事項を告げる、冷たい響きだった。
計画。アキラのことだ。保険金。
事故に見せかけて保険金を受け取る計画。
関係者との調整や書類など全て準備が整ったということだ。
胸が、締め付けられる。
(このまま……私は、できるのだろうか)
アキラと過ごして、心が揺れている。
あの無邪気な笑顔。
時折見せる、年不相応な落ち着き。
そして、私に気を遣うような、あの優しい視線。
あれは、私を気遣っての演技なのだろうか。それとも──。
私には、分からない。けれど、彼を見ていると、胸の奥が痛くなる。
守りたい、と思ってしまう。
任務だと、自分に言い聞かせても、感情が、理性を追い越していく。
(私は……私は……)
言葉にならない葛藤が、喉の奥に張り付く。
彼に、今のこの気持ちを知られたら、私は、きっと。
「しかし新人がデリケートな案件に抜擢とは、甘くなったもんだな。失敗が許されないことがわかっているのか。こういうところから足がつく可能性があるってのに」
彼がそう言いながら、私の沈黙を気にする様子もなく、再び新聞に視線を落とした。
まるで、私の存在など、どうでもいいかのように。
この冷たい関係性の中で、私はただ一人、アキラ君への想いを抱え、震えていた。
(失敗は許されない……)
私は理解した……。
失敗したら私が切られるのであろう。
もし失敗したら組織はどうするのか。
「ねぇ……失敗は許されないとは分かっているんだけど、もし失敗したらどうなるのかしら」
私はもしもの事を考えていた。
もし、すべてがうまくいかなかったら。
彼は再び新聞に視線を落とし、淡々と答えた。
まるで、私の質問が、彼の思考を遮る価値もないかのように。
「失敗することは考えるな。ただ、一つ言えることは俺達はトカゲの尻尾だよ。切られて終わり。もし捕まって組織の事を喋ったりしたら消されるだろうな」
その声に、温度はない。
ただ事実を述べる機械のような響き。
恐怖も、絶望も、そこには見えない。
慣れているのだろうか。あるいは、私と同じように、感情を押し殺しているだけなのだろうか。
「それで警察から逃げられたら?」
どうしても確認したいことがある。
もし、組織から切り捨てられても、生き残る道はあるのだろうか。
彼は新聞を閉じて、テーブルの上に置いた。
指先が、わずかにテーブルを叩く。
「警察に追われている以上組織は必要以上に干渉はしてこないだろうな。俺らは兵隊だ。ただ俺達が助かるには、警察から逃げつつ、落ち着き次第組織に戻るような形になるだろうな」
その声には、何か計算しているような声を感じた。
彼は、常に先を見ている。戦略だけを考えている。
「そう。それじゃあ失敗したときようの事も考えないとね」
私は、努めて冷静な声を出した。
感情に流されてはいけない。
彼は私の顔をじっと見た。その目が何を映しているのか、私には分からない。
けれど、その視線に、私の心の奥底にあるものが、見透かされているような気がして、ゾッとした。
「大丈夫だ。もし何かミスが起きてもフォローが出来るように全て調整済だ。恐らくうまくいけば警察からも追われることはないだろう。ただし組織に戻れるかは怪しいがな」
彼はそう告げると新聞に目をやりながら歪な笑みを浮かべた。
その笑みを見た瞬間に私の心が警鐘を鳴らした。
孤児として育ってきた他人を信用してはいけないという生存本能がこれでもかというほど反応した。
(彼にも私には言えない計画がある)
彼の笑いを見て、私は決心した。
アキラと接して、初めて感じた感情を信じる。
もう迷わない。
もしもの時のために、私も準備をしておかなければ。
アキラを、守るために。
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