22話 スマホ
窓の外から射し込む朝の光が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
目を閉じたまま、アキラは微かに眉をひそめた。眠りは浅く、心のどこかがずっと緊張をほどけずにいた。
「アキラ、起きなさい。朝よ」
ドアの向こうから聞こえるのは、柔らかい声だった。
母親の声――それが現実を引き戻してくる。
俺はゆっくりと瞼を開き、天井を見上げた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。けれど、それもほんの一瞬だった。
この家、この部屋、この体。すべては、もう“俺の舞台”だ。
布団をはねのけ、無言で立ち上がる。冷たい床が素足に触れる感覚だけが、少し現実味を与えてくれた。
階下に降りると、母親が台所で朝食を準備していた。
焼きたてのトーストと、インスタントながらも温かいスープ。整えられた食卓が並んでいた。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「……ちゃんと寝られたよ!」
テーブルにつくと、母親が少し躊躇うようにこちらを見つめる。そして、手にしていた小さな箱――新品のスマートフォンを俺の前に差し出した。
「これ……持ってなさい。今日から使って」
「……なんで?」
思わず警戒が先に出る。だが、母親の返事はあくまで優しかった。
「心配だから……。何かあったらすぐ連絡しなさい。どこにいるかも分からないのは、不安でしょう?」
不安、ね。
その言葉をきいても、なお俺は警戒をした。
母親の目は、確かに何かを案じているようだった。けれどそれが、どこか“見張る者”の目にも思えてしまうのは――単なる気のせいか。
「……わかった。もらっとく」
スマホを手に取ったその重みは、機械の質量だけじゃない。
母親はほっとしたように微笑むと、テーブルの向こうに腰を下ろした。
「冷めないうちに食べなさい」
俺は黙って、トーストに手を伸ばす。バターの香りと、スープの湯気。
目の前に並ぶのは、ありふれた朝食。
母親の笑顔も、作られたように整っている。
――演技か、それとも本心か。
どちらにせよ、信用するには材料がまだ足りない。
ただ黙々と食べて、時間だけが流れていく。
やがて、時計の針が登校の時間を告げる。
俺は立ち上がり、服を整えて、カバンを肩にかけた。
「いってきます」
その言葉に、母親は少しだけ目を見開いて、すぐに微笑み返す。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
玄関のドアを開けると、冷たい空気が肌を撫でた。
まだ少し眠たげな街の景色が広がっていて、遠くから登校する子どもたちの声が聞こえる。
俺は一歩、外に踏み出した。
登校の道を歩いていると、見慣れた黒い車がゆっくりと角を曲がってきた。
その佇まいに、立ち止まる。
――やっぱり来たか。
静かにドアが開き、中から現れたのは、いつもと変わらぬ無表情の男。
伊集院家の執事――加賀だった。
「おはようございます、アキラ様。少々、予定を変更させていただきます」
相変わらずの丁寧な口調。しかし、そこに込められた“通告”のような響きは健在だった。
「乗っていただけますか。学校までお送りします」
一瞬だけ逡巡したが、俺は無言のまま車に乗り込んだ。
扉が閉まると、車内には加賀の香水とも整髪料ともつかない、微かで無機質な香りが漂っていた。
静かな発進。車は滑るように道路を進み出す。
しばらくの沈黙ののち、加賀が口を開いた。
「本日は、桜様は登校されません」
「……体調不良?」
俺が探るように聞くと、加賀はほんのわずかに視線をこちらに向けた。
「――いえ。理由は“警戒強化”です。組織が明確なアクションを起こしました」
「前回の襲撃の件だね」
「はい。これまで桜様の位置は秘匿されていましたが、何らかの経路で足取りを掴まれた可能性があります。本来、身を隠す目的で学校の場所も家の近くに設定しておりましたが……それも、もう安全とは言い切れません」
加賀の声に、焦りや動揺はなかった。むしろ、すでに“計画”を進行している側の冷静さだった。
「それで……伊集院さんは?」
「当面の間、登校を見合わせます。“ほとぼりが冷める”まで、との判断です」
なるほど――それはつまり、しばらく“会えない”ということ。
俺は窓の外を見ながら、軽く息をついた。
伊集院家との繋がりは情報交換の場であり、観察の舞台でもある。
桜との接触は、単なる興味では済まない重要な意味を持っていた。
「……じゃあ、放課後、伊集院さんと話がしたい」
加賀の指がわずかにハンドルを締める音がした。
「申し訳ありません。基本的には外部との接触は制限されています。ですが、内容によっては検討の余地もあるかと」
「なら伝えておいて。“話したいことがある”って。それだけでいい」
数秒の間を置いて、加賀は静かにうなずいた。
「承知しました」
会話はそれだけだった。だが、アキラの脳裏にはすでに別の思考が渦巻いていた。
桜が狙われている。その背後には“組織”がいる。そして――そこに繋がる何かがある。
俺は目を細めた。
再び、舞台の幕が動き出している気がしてならなかった。
車が止まると、加賀は何も言わずに助手席のドアを開けた。
俺は一礼することなく降り立ち、何事もなかったように校門をくぐる。
朝の校庭には、元気な声が飛び交っていた。
ジャージ姿の教師が注意を飛ばし、教室からは机を引きずる音。
すべてが“平和な小学校”の朝そのものだった。
ただし、自分の内部に流れる空気だけは、明らかに別だった。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が席に着いていた。
アキラは無言で自分の席につき、周囲の様子をさっと確認する。
桜の席は、当然ながら空いていた。
「よっ、おはよーアキラ!」
少し遅れて、明るい声が飛んでくる。
声の主はショウタ――
俺は顔を向けず、声だけで反応した。
「ああ、おはよう」
「昨日、なんか伊集院さん休んでたけど、今日も来てないっぽいなー」
「そうだな」
「また体調崩したのかな? なんか最近、調子悪そうだったし」
ショウタの言葉に、俺は一瞬だけ目線を横に向けた。
その顔に悪意はなく、ただの雑談の一部。――少なくとも、表面上は。
「まあ、そのうち戻ってくるんじゃね」
「だよなー。ってかさ、今日の図工の授業さ、俺のとなりの班、女子ばっかなんだよ。気まずすぎるってマジで……」
「それはお前の普段の行いじゃね」
「ちょ、何だよそれー! ちゃんとやってるし!」
笑いながら肩をすくめるショウタを見て、アキラはふと、思う。
――この会話。この空気。この“日常”。
いま自分が立っているこの場所が、果たしてどこまで“現実”なのか。
チャイムが鳴り、今日もまた、幕が上がる。
午前中の授業は、いつも通りに過ぎていった。
国語では教科書を順番に読まされ、算数では意味もなく“ここに線を引きましょう”と先生が言うたびに、クラスがため息まじりに鉛筆を走らせる。
図工の時間には、ショウタが「なんで俺が班長なんだよ……」とぼやきながら、女子に気圧されていた。
俺はそのすべてを、ただ静かに見ていた。
笑い声。筆記音。教師の咳払い。
教室に満ちる“普通”の音。
――違和感は、ない。
だが、自分がその中に完全には溶け込めていないことを、アキラはよくわかっていた。
目の奥にあるのは、もっと別の色だった。
放課後チャイムが鳴る。
放課後の空気は、途端に軽くなる。
荷物をまとめる音、椅子を引く音、廊下へ駆けていく足音。
机の中に手を入れながら、窓の外に目をやった。
空は晴れていて、風が少し強い。
――桜に、会いに行こう。
今日がダメでも、何かは動かせるかもしれない。
情報。警告。確認。
それらを手に入れるための接触は、早いに越したことはない。
ランドセルを背負い、誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさず、教室を出る。
澪からもらったスマホを見たが着信は入っていない。
それならば、行き先は――伊集院家。
そこで、彼女が待っている。
あるいは、待っていなくても、“何か”があるはずだ。
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