14話 平穏
「アキラ、朝よ。起きなさい」
まぶた越しに、柔らかい声が耳に届いた。
目を開けると、母親がカーテンを開け、窓から差し込む光が部屋を照らした。
「ん……」
体を起こすと、布団がまだほんのり温かい。母親の声は穏やかで、顔には笑みさえ浮かんでいる。
――“いつも通りの朝”。
「ほら、早く顔を洗ってきなさい。ご飯できてるわよ」
いつも通り。変わらない日常。けれど、その「変わらなさ」が、今はどこか奇妙に思えた。
(……昨日、あんなものを見たのに)
養子縁組の書類。自分が“本当の子どもではない”と証明された証拠。
けれど、母親の様子はこれまでとまったく同じだった。
優しさも、気遣いも、何も変わっていない。
朝食の席に着くと、湯気の立つ味噌汁と焼き鮭、卵焼き。きっちり整えられた和食。
箸が横向きに揃えられていて、小皿の漬物は俺の好みに合わせて種類が変わっていた。
たぶん、これまでもずっとそうだったのだろう。
でも、気づかなかった。気づこうともしていなかった。
母親は向かいに座り、俺が箸を動かすのを確認してから、自分の朝食に手をつけた。
その一連の動作に、どこか作られた丁寧さが混じっている気がした。けれど、それでも。
「……いただきます」
小さく呟いて、箸を取った。
味噌汁の出汁は優しく、卵焼きはほんのり甘い。たしかに“母親の味”だった。
(たとえ……俺が“本当の子”じゃなくても)
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
(この朝を、否定してしまうのは……ちょっと、もったいないかもしれない)
心のどこかで、そう思った自分に、戸惑いを覚える。
けれど、それを否定できないのもまた事実だった。
けれど、それと同時に――どうしても拭えない感覚もあった。
母親の顔をちらりと見る。
笑っている。優しげな、まるで絵に描いたような母の表情。
でも――その目だけは、信じられなかった。
にこやかに細められたその目の奥に、感情がないように見えた。
光がないわけじゃない。
むしろ、よく通った目をしている。
けれど、その“通っている”ことが逆に怖い。
まるで、こちらの内側まで覗かれているような、不気味な透明さ。
(あの人は、俺の何を見ている?)
その「何か」が、目の奥に潜んでいる気がしてならなかった。
食事を終え、茶碗を重ねながら、そっと視線を下げる。
できるだけ目を合わせないようにして、自然に、静かにその場を離れる。
優しさは確かにある。でも、だからこそ危うい。
(……忘れるな。俺は、この家にとって“本当の子”じゃない)
背を向けた瞬間、母親の視線を感じられた。
食事を終えた後、母親はいつも通りに食器を片づけていた。
俺ははランドセルに教科書とノートを詰めながら、母親の背中を盗み見た。
いつもと変わらない動作。変わらない沈黙。
昨日見た封筒の中身が、頭を離れない。
歯を磨いて、制服の裾を整え、上履きを袋に入れた。
玄関に向かうと、すでに母親が上着を持って待っていた。
「ほら、まだ肌寒いからこれを着て」
ふわりとコートを肩にかけてくる手は、優しくて、あたたかい。
それでも俺の心の中には、わずかな“疑い”が根を張ったままだった。
(優しいのに……信じられない)
「いってらっしゃい、アキラ」
玄関先で、母親が笑って手を振る。
朝の光が差し込む中、その姿はまるで理想の“母親像”をなぞったようだった。
優しさも、声のトーンも、身振りも、完璧すぎて逆に不安になる。
俺は小さくうなずき、靴を履いた。
ふと顔を上げると、視線がぶつかる。
母親は何も言わず、微笑を浮かべたままだ。
「……いってきます」
ぎこちない声を残して、ドアを開ける。
玄関を出ると、風の匂い、少し湿った地面の感触、遠くで聞こえる車の音――
そのすべてが、なぜか“本物”に感じられた。
家の中にいたときとは違う、外の世界。嘘の皮が剥がれたような、冷たさすら心地よかった。
転生してから何日が経ったのか、現実の時間と自分の感覚が、まだ一致しきっていない。
体もまだしっくりきていない感覚がある。
足を動かしているうちに、前方から元気な声が飛んできた。
「よっ、アキラ! 今日こそ遅刻じゃないな~!」
ショウタだった。
ランドセルを背負い、寝癖を直しきれていない髪を風になびかせながら、こっちに手を振ってくる。
何も知らない無垢な顔。その存在が、アキラの中の何かをぐらつかせた。
(……ショウタ)
明るく、まっすぐで、善良な、世界の象徴。
それが“嘘”ではないことを、アキラは本能的に感じていた。
だからこそ――その無防備さが、怖い。
「昨日さー、テレビでまたアレやってたよ。ヒーローがさ、裏切られて、でも最後は逆転して勝つやつ!」
「……へえ。そうなんだ」
ショウタは歩きながら、昨日のテレビ番組の話を延々と続ける。
俺はそれを適度に聞き流しながらも、どこかほっとしていた。
この“日常”が、自分にとって本当に必要かどうかは、まだわからない。
でも――その笑顔に、何か懐かしい感覚が戻ってくるのを感じていた。
校門をくぐると、いつものようにざわついた朝の空気が広がっていた。
騒がしく挨拶を交わす声、誰かが走る靴音、風に揺れる旗の音。
それら全てが昨日までと変わらない“日常”の風景に見える――
だが、アキラの中では何かが確実に変わっていた。
教室の前で一瞬だけ深呼吸し、ドアを引く。
「……ん?」
自分の席に目をやると、そこに既に俺の席の隣に座っている人物がいた。
桜だ。
髪が朝日に照らされ、まるで光を弾くように柔らかく揺れていた。
俺の姿を見つけると、桜はにっこりと微笑んだ。
「おはよう、アキラくん」
その声は軽やかで、少し弾んでいた。だが、それ以上に目の奥の光が強烈だった。
まるで、“知りたいことがたくさんあるの”とでも言いたげな、抑えきれない好奇心がにじみ出ていた。
俺は一拍置いてから静かにうなずき、自分の席に腰を下ろす。
「……おはよう」
桜はそれ以上は何も言わず、ただ口元に小さな笑みを浮かべたまま前を向いた。
けれど、その横顔はまるで、「話しかけるタイミングを待っている」ようにも見えた。
やがてチャイムが鳴り、教師が入ってくる。
授業が始まると、教室の空気は一変し、生徒たちは教科書を開く音と鉛筆の走る音だけを残した静寂に包まれる。
(……昨日の襲撃のことは、桜は知らないだろう)
俺は教科書をめくるふりをしながら、頭の中で情報を整理する。
加賀のことだ。昨日の件を桜に話してはいないだろう。
伊集院家の内情に迫るには、桜と加賀――この二人とは、うまくやっていく必要がある。
加賀の強さには、正直、心惹かれるものがある。
もし取り入れることができれば、俺にとって貴重な“戦力”になるだろう。
今後、裏切り者を炙り出し、排除していくにあたっては、俺自身が表に出ない方針で動くべきだと考えている。
なぜなら、相手は転生前の俺を潰せるほどの力を持っていた。
主犯の“におい”を少しでも感じ取られれば、同じ結末をたどる可能性が高い。
だからこそ、俺の代わりに動ける“手足”が必要になる。
その点で、加賀は極めて魅力的な存在だ。
あの忠誠心、戦闘能力……桜との主従関係を維持しながらも、俺の命令に従う。
――そんな状況をどうにかして作り出さなければならない。
簡単にはいかない。加賀のような男が、俺の言葉に従うとは思えない。
だが、それでも手に入れる価値がある力だ。
――思考を巡らせていると、午前の授業を告げるチャイムが鳴った。
教室内にざわつきが広がり、空気が一変する。
俺はノートを閉じ、何気なく桜のほうへ視線を向けた。
すると、目が合ったその瞬間、彼女は待ってましたと言わんばかりに声をかけてきた。
「ちょっと、いいかしら!」
その声には、好奇心とともに鋭い探求心が滲んでいる。
ただの挨拶のつもりでないのは明らかだ。
俺は桜の好奇心の追求を巧妙にかわしながら、
伊集院家の秘密、そして加賀との関係を探る方法を考える。
すべての答えを手に入れるために、どう切り返すべきか。
思考が加速する中で、俺は桜を屋上に呼び出し、次の一手をじっくりと練っていた……。
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