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伯爵夫人は夫に平手打ちされたい

 ああ、夫に平手打ちされたい――

 この私マノン・アディッカはこう願うようになった。


 といっても、私が痛いのが大好きとか、男に支配されたい性癖持ちとか、ダメージを受ければ受けるほど強くなるスキル持ちだとか、そういうわけではない。


 きっかけは婦人仲間と観た演劇だった。


 内容は幼少期からの経験で“人の愛”というものを信じられない主人公の貴族女性が、理想的といっていい男性と出会う。

 しかし、人の愛を信じられない主人公は優しい夫と過ごすうち疑心暗鬼に陥ってしまう。

 ついには、夫の目の前で瓶に入った毒薬を飲もうとする――


『私はこれを飲んで死ぬわ』


『バカなことはやめるんだ!』


『いいえ、あなたは私を愛してなどいない。世間体のため私に優しくしているだけ……私が死ねばあなたはきっと喜ぶ。そうに決まってる!』


 自害を強行しようとする主人公に、夫が平手打ちを浴びせる。


『ああっ……!』


『そんなことはない! 私は君を愛している!』


 そのまま力強いハグ。

 これで主人公は夫からの愛を確信し、二人は真の夫婦になる――


 観終わった私は、猛烈に感動してしまっていた。

 これよ、これ。これこそ愛なのよ、と拳を握り締めていた。


「最後の平手打ち、あれがよかったわぁ。優しい夫が死のうとする妻にあえて厳しい一発! あの一発に“愛とはなんたるか”という真理が込められている気がしたわ」


 婦人仲間が引いてしまうレベルで、私は劇の感動を語り尽くした。


 まあ、少し冷静になると――

 本当に死にたいならわざわざ夫の前で毒飲まないでしょ、とか。

 人が毒を飲もうとしたら大抵の人間は止めるでしょ、とか。

 毒を飲むほどに病んでいる主人公がたかがビンタ&ハグで改心するかなぁ、とか。

 シナリオの細かい粗をつつこうと思えばいくらでもできる。


 だけどね、そういうことじゃないの。

 そんな無粋なツッコミを吹き飛ばすくらいのパワーがあの演劇にはあった。

 だから私はこの感動を自分でも味わいたいと思ってしまった。


 つまり、夫に平手打ちされたい、と――



***



 私たちは今、王都にお屋敷を構えている。

 夫ゲイル・アディッカは陛下を補佐する重臣の立場で、忙しい日々を送っている。

 夫は銀髪で優しい顔立ち。性格も見た目そのまま。とても平手打ちする姿なんて想像できない。

 だからこそ、夫が平手打ちする姿を見てみたくもなってしまう。

 一度でいいから見てみたい。夫が平手打ちするところ。

 さて、どうしましょうか――


「あなた、私に平手打ちしてちょうだい!」


 と頼んでみるか。

 ……Mだこれ!

 確かに私の名前はマノンで、Mだけど……。

 うーん、これはダメね。他の方法を考えよう。


 ならいっそ、演劇を再現してみるのはどうだろう。

 「あなたは私を愛してなどいない」と毒薬を飲んでみるの。

 しかし、いきなり毒薬はハードルが高すぎる気がする。

 入手方法も知らないし、万が一止めてもらえなかったら、ホントに飲んで死ぬはめになる。さすがにまだ死にたくない。


 ……というわけで、ものすごく苦いとされる青汁を飲んでみることにした。

 青汁。ケールを始めとした野菜をふんだんに含んだ飲料で、苦いけど健康にいいと評判なの。

 これをコップに入れて、朝、夫の前で飲んでみる。


「何を飲んでるんだい?」


「青汁よ」


 ここで「バカなことはやめろ!」と夫から平手打ちされれば大成功だけど、


「へえ、健康にいいって聞くもんね」


 当然そんな展開になるはずがなく、私は青汁を飲むはめになった。


「……ッ!」


 初めての青汁は苦かった。

 だけど、癖になる苦さ。体の隅々に良薬が染み渡る感覚を味わう。


「……もう一杯!」


 二杯目も飲んでしまった。


 こうして毎朝二杯の青汁は私の習慣になり、私の白い肌と髪の毛は艶やかになっていくのであった。

 ……って、健康になってどうする。

 夫に平手打ちされたいという当初の目的をすっかり忘れてしまっていた。


 次に考えたのが“蚊作戦”だ。

 頬に蚊が止まれば、夫も私に平手打ちをしてくれるはず。

 というわけで蚊を探すことにした。

 私は地方出身で自然豊かな土地に育ったから虫には殆ど抵抗がない。

 以前、ある夜会に蛾が迷い込んできた時、会場がパニックになったけど、私はあっさり蛾の羽根をつまんで屋外に逃がしてやった。

 あの時はみんなからヒーロー扱いされてなかなか気分がよかった。


 私は蚊を探すために、町を歩いた。

 しかし、季節外れなのもあってこういう時に限って蚊はいない。


「残念……」


 私はこうつぶやき、ふと花壇を見る。

 まるで虹のような七色の羽根を持つ蝶を見つけた。

 私が手を差し伸べると、蝶は私を気に入ったのか、指に着地した。

 せっかくなので、そのまま知人の昆虫学者の家へ向かう。

 すると――


「アディッカ夫人、これは新種ですよ!」


「新種?」


「新種の蝶です! ぜひ名前をつけましょう!」


 こうしてこの七色の蝶には『ナナイロマノンチョウ』という名がつけられることになった。

 私もちょっとした取材を受け、昆虫業界に名が知れ渡ることとなった。

 これを知った夫は喜び、


「おめでとう! よくあんな蝶を見つけられたね!」


 さすがに「あなたに平手打ちされたいと思ってたら見つけたの」とは答えられなかった。


 作戦はことごとく失敗し、こうなったら……最後の手段。

 夫を怒らせよう。それしかない。

 しかし、どうすればあの人は怒るんだろう。怒ったところを見たことがないから、そんなシチュエーションを想像できない。

 だけど例えば、あの人愛用の品を壊したりすれば、さすがに怒るはず。


 夫の留守中、私は書斎に忍び込んだ。

 そう、今の私はスパイ。気持ちだけはレオタード姿になっている。

 あまり夫の書斎には入らないようにしてるけど、綺麗に整理されている。本棚には難しそうな本が何冊も並んでいる。


 机を見ると、何やら書類を書いている途中だった。

 愛用の万年筆を壊してしまえば、あの人も平手打ちくらいするはず。

 もしかしたら、グーパンかも……。

 グーが来てもかまわない。私にはその覚悟がある。奥歯を噛み締めて、受け入れてみせる。


 書類の横に、古びた万年筆が置いてあった。

 あまり高級品じゃなさそう。正直もっといいやつを使ってるのかと思った。

 その時、私は気づく。


「これは……!」


 まだ出会ったばかりの頃、私がプレゼントであげた万年筆だった。

 あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。

 筆記具のお店で、一番いい万年筆をプレゼントしようとしたけど、私の想定より桁が二つは違って、結局自分のお小遣いで買える範囲の万年筆にしてしまった。

 私はガッカリされることを覚悟して、この万年筆を渡したのを覚えている。

 だけど――


『ありがとう、大切にするよ』


 こう言って微笑んでくれたあの人の笑顔が、まるで太陽のようで、今でも忘れられない。

 もうとっくにあんな万年筆は使ってないと思っていたのに……。

 この万年筆を壊す? できるわけがない。もし、そんなことしたら、平手打ち百万回でも足りないぐらいの大罪だ。


 それにしてもこの万年筆、いつもあの人に使ってもらってるのよね。

 いいなぁ、羨ましい。

 私も万年筆になりたい。

 この瞬間、私の最大の恋敵は万年筆になった。

 果たしてマノン・アディッカは、万年筆から最愛の夫を奪い返せるのか――ちょっと待って、これはおかしい。


 気を取り直して、私は他の方法で夫を怒らせることにした。

 最もポピュラーな怒らせる方法といえば、やっぱり悪口か。

 悪口を言って夫を怒らせて、平手打ちを頂戴しよう。

 だけど……そういえば、私は人に悪口というものを言ったことがなかった。


 婦人仲間は結構あれこれ悪口を言うのだけど、私はどうもその手の話には乗れない。

 いわば、悪口処女。

 うーん、もっと人の悪口を言って生きればよかった。後悔してる。


 夫が帰ってきた。

 私に向かってにこやかに挨拶してくれる。

 素敵な笑顔。だけどごめんなさいね、まもなくその顔は憤怒の表情に変わるの。

 そして、私に平手打ちを食らわせる。

 さあ、悪口を言おう。


 ……しかし、なんて言えばいいの? 咄嗟に思い浮かばない。

 ええい、こうなったら――


「……バカ」


 言ってしまった。

 夫はきょとんとしている。

 そりゃそう。いきなりバカと言われたら、こうなるに決まってる。


「その通り。私はバカだ」


 しかも、あっさり認めちゃった。


「このところの私は貴族という地位に甘んじて、どこかたるんでいたような気がする。ずっとそんな思いを抱えていたんだ」


 いや、そんなことないって。

 なんか反省会が始まっちゃった。

 私からすれば、あなたほど頑張ってる貴族もそうはいないのに。


「だが、今の君の言葉で目が覚めた。そう、顔に平手打ちを受けたような気分だったよ」


 ちょっと待って。平手打ちを受けたいのは私――


「どうもありがとう。君と結婚して本当によかった」


 感謝までされちゃった。

 どうしよう、感謝される筋合いが何一つとしてない。

 結論、バカは私でした。


 そして、夫に平手打ちされたい――なんてバカな考えは捨てたのであった。



***



 星が綺麗な夜、私たち夫婦はある公爵家の夜会に招待された。

 私もブルネットの髪を編んで後ろでまとめ、白いドレスと手袋でお洒落をし、夫とともに屋敷に赴く。


 和やかなムードの中、夜会は進む。

 ところが――


「このバカ者めが! 私の服を汚しおって!」


「申し訳ありません!」


 給仕役の若い女中が粗相をしてしまったらしい。

 怒っているのはとある壮年の伯爵。

 あまりに気が短いので、“癇癪伯爵”なんて不名誉な異名までつけられている。

 だけど歴戦の勇士でもあり、体つきは逞しく、ひとたび彼が怒ると止めるのはとても難しい。

 周囲も事の成り行きを見守るしかない。

 ところが――


「ええい、こうしてくれる!」


 伯爵が手を振り上げた。女中を平手打ちするつもりだ。

 バシッという音が響くに違いないと、私は思わず目をつむってしまった。

 しかし、そんな音は響かなかった。


 目を開けると、私の夫ゲイルが伯爵の右腕を止めていた。

 その顔つきは珍しく険しいものになっている。


「貴様……!」


「粗相に対し、お怒りになる気持ちは分かります。しかし、強い立場から一方的に叱責し、ましてや暴力を振るう。これもまた粗相ではありませんか」


 夫は青い瞳で伯爵を射抜く。相手の方が体は大きくだいぶ年上なのに、全く引けを取らない。

 伯爵は夫の迫力に息を呑む。


「ぐ……ぬ……。すまなかったな。どうやら私は過ちを犯したようだ……」


 怒りが収まり冷静になったのか、伯爵はとぼとぼと夜会の会場を後にした。

 彼は夫に救われたともいえる。

 公衆の面前で公爵家に勤める女中に暴力を振るっていたら、彼もただでは済まなかっただろう。


「皆さん、お騒がせしました。さあ、歓談を再開しましょう」


 夫の仕切りで場は収まった。

 女中も夫に礼を言い、仕事に戻る。


 私の元に戻ってきた夫は、小声でこうこぼす。


「正直ヒヤヒヤしたよ。向こうから引き下がってくれてよかった」


 そんな夫に私はにっこりと笑う。


「とても素敵だったわ。あなた」


「君にそう言ってもらえると、勇気を出したかいがあるね」


 今後も私が夫から平手打ちをされるようなことはないだろう。

 だけど、私の夫は他人の平手打ちを止めることができる人物だ。

 私の夫はこれでいい。これがいい。






おわり

お読み下さいましてありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
その願望は叶わなくて、良かったんだろうなあ、きっと。 叶ったらそのまま怪しい夜にシーンが変わってしまったかも知れないし。
 夫人が語るラストの3行、グッドな話の結び方。
演劇のシナリオに対するマノン夫人のツッコミがキレキレで的確ですね。 確かに本当に自殺したいなら誰も止めに入らないシチュエーションでやりそうですし、敢えて目の前で服毒しようとするのは「自分の決死の行動に…
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