ep.34 白妙の里(1)
目覚めの良い春朝。
東手の森の狭間から差し込む白光に、野営地が徐々に包まれ始める。
隊員たちが野営地の片付けに動く中、青は西側の森が見下ろせる崖縁へ歩み寄った。
上から森を覗くと、朝霧が薄い雲海となって辺りを包みこんでいる。
「山からの放射冷却の影響か……」
いまだ春眠覚めない藍色に沈んだ西側を見渡し、青は式符を一枚取り出す。
「シユウの名のもとに命ず」
唱えと共に符は、鳶に姿を変え、青の手元から西側の崖から翔び立った。
ピー ヒョロロロ
鳥の声に隊員らが作業の手を一瞬止めて、振り返る。
鳶は崖下の森を包む雲海を一周してくると、再び前方にかざす青の手に舞い戻った。
ピイ
一声残して、符に戻る。青は符を数度、指先で裏表に三回ほどひっくり返し、最後に指先で灯した炎で符を焼き消した。
「おはようさん。さっきのは何を?」
伸びをしながら猪牙隊長がやって来る。その後ろから、キョウも続いた。
「森に朝霧がかかっている様子が見えたので、念の為に有毒性がないかを確認しました」
西方の地理条件に関する資料や情報が少ないため、進みながら確認していくしかないのだ。
「そいつはありがてえ。で、どうだった」
「符に異変が生じませんでしたので、あの霧に毒性は無いようです」
「そうかそうか」
「そんな確認の仕方があるとは」
「お前さん器用だな。気が利くし、かーちゃんみてぇだ」
がはは、と豪快に笑って猪牙が野営側へ一歩を踏み出しかけた瞬間、
「?」
「ん?」
「おんや?」
西側の森で何か白い影が渦巻いた――ように見えた。三人が同時に反応し、そして顔を見合わせる。西の森を覆う靄の波に、何かが飛沫を上げたのだ。
「隊長、今のは??」
「何かでっかいのが見えましたけど!」
出立準備をしていた隊員たちが、異変に気づいて少しずつ集まり始める。部下たちを「下がってな」と制してから、猪牙は西の崖下へ向き直る。
「猪牙貫路の名のもとに命ず」
懐から式符を取り出し、唱えに応じて足元に猪型の式が現れた。
「行け」
『プギッ!』
猪はその場から駆け出すと崖から飛び立ち、森の上空、雲海の上を旋回し始める。
森のちょうど中央付近の宙空で徐行しかけた時だった。
音も無く。
雲海を突き破って飛び出した白く長く巨大な影が、靄ごと式を呑み込んだ。
「!?」
「あ」
プギィ~~ッ
雲海の荒野に哀れな鳴き声一つだけを残し、白く長く巨大な何かは宙返りして再び雲の下の森へと消えていった。
白い朝霧の海は再び静寂を取り戻す。
「な、何なんだ今のは……」
崖上から一部始終を見ていた隊員たちの間から、少しずつざわめきが発生する。
「白龍……いや、巨大な白蛇……?」
「妖って事か?」
猪牙とキョウが顔を見合わせる横で、
「いや……そんなはずは……」
青は低く、呟く。
「私が飛ばした式は、妖瘴を感知しませんでした」
「妖じゃねぇってことか?」
「妖でないのにあそこまで巨大な生き物が…? 豚が丸呑みされるほどの」
「豚じゃねぇわ」
崖縁から森を覗き見る三人の背中へ、
「神獣の血胤かもしれません」
新たな声がかかった。
振り返ると、
「檜前准士?」
隊で唯一の西方の出、獣血人の檜前准士。ざわつく隊員らの間を割って、三人の元へ歩み寄る。
「おお、そういえばお前さんは西から流れてきたって話だったな。羆なんだって?」
猪牙隊長の、悪気も遠慮の無い物言いに、だが檜前は気にした様子もなく、三人から一歩引いたところで足を止めた。
「神獣の血胤とは……?」
「俺のような獣血人と呼ばれる存在と定義は同じです。ただ流れる血が、獣ではなく「神獣」であり、神獣人とも呼ばれます」
「では、さきほどのは「人」である可能性もある……のですか」
青の問いに、檜前はわずかに言葉に迷って視線を一度逸らせた。
「人の形をしている、という意味では」
続く青の問いに檜前は、頷く。
白蛇は神の使い、もしくは神そのものとされる神獣だ。
ちなみに凪の守護神は水神で、その姿は白蛇であったとされている。地域や国によっては富をもたらす神とも言われている。
「ふむ」
猪牙隊長は目を瞑り、頭の上に組んだ手を置いた。
「あいつは俺達も喰らおうとしてくるかね」
「あの豚のように……」
「だから豚じゃねぇわ」
峡谷上士と猪牙上士のやりとりに、隊員らの間でどっと笑いが起きる。不穏に曇りつつあった隊内の空気が、和らいだ。
釣られて苦笑を零しそうであった檜前准士が、気を取り直す。
「神獣人であれば、本能的に排他的行動を取る事はないと思いますが…何とも」
「そうか。まあいつも通りにするだけだな」
こちらから敵対行動はとらず、極力避け、襲われれば逃げるか倒せばいい。
明朗に結論付けて、猪牙隊長は野営地へ大股で歩き出した。
「とっとと片付けて出発するぞー」
「承知!」
崖の方へ集まっていた隊員たちも、三々五々に散ってそれぞれの作業へと戻っていく。
「……では、失礼します」
檜前准士は最後に一度、西の森を振り返ってから、青とキョウへ一礼して野営地へ戻っていった。
「手荒い歓迎とならない事を、祈りたいですね」
残ったキョウも、西側の風景へ顔を向ける。
東側の森から差す暁が空気を温め、西の森に広がる雲海を徐々に溶かしていく。西方にそびえる連峰の稜線が、輪郭を取り戻しつつあった。
「言霊というものがありまして」
「やめてくださいよ」
どちらからともなく苦笑を向けあって、キョウと青も野営地へ踵を返した。




