ep.29 ある日(3)
どれほどの時間が経過したのか。
三人が囲む作業台の上が、書き込まれた紙で埋め尽くされた頃。
「毒術師、シユウ殿はいらっしゃいますか」
円形書庫側から、声が響いた。
「毒術師、シユウ殿はいらっしゃいますか」
声の主は区間を移動しながら、シユウの名を呼んでいる。
「呼ばれてるわよ」
「何だろう……」
蟲之区の奥深くには式が届かないため、時おりこうして係官が直接、式の到着を知らせに来ることがある。この区のように長時間の滞在が前提となる施設では、珍しくない光景だった。
「すみません、僕はこれで」
「またな!」
「任務かしら? ご武運を~」
呼び出しを受けてまで届けられる知らせ――それは、すなわち急務であり、任務であることが多い。
要や庵の快い送り出しを受け、青は鞄を掴むと足早に工房を後にした。
外に出ると、周囲を見回す文官の姿があった。青は声をかけ、名乗る。すると、文官は一通の書状を手渡した。
「確かにお届けしました。ただちにご確認ください」
一礼して去っていく文官の背を見送りながら、青も軽く礼を返す。
円形書庫で読書や調べ物に没頭する者たちは、誰ひとりとして青の様子を気に留めることなく、手元の文字に集中していた。
この場で読んでも差し支えはなさそうだ――そう判断し、青は書状を開く。
そこに記されていたのは、ただ一言。
「!」
至急 長室へ来られたし
*
「シユウ佳師。君とは毎年のように会っている気がするね」
通された長室は、薄暗かった。
室内には、長と四人の技能職位管理官たちが並ぶ。
前回と同様、管理官たちのための椅子はなく、長もまた起立したまま、青を迎えた。
「室内は私たちだけだ。顔を見せても大丈夫だよ」
「……はい」
では、と青は額当てを外し、口元の覆面を顎の下へ下げる。
「毒術師、狼の位シユウ、参じました」
儀礼的な名乗りを告げ、五人へと深く頭を垂れた。
「君ももう十七か。また少し背が伸びたかな」
青の素顔を見つめながら、長はいつもの微笑を浮かべた。
「はあ……」
「前回と違って、何故呼ばれたのか分からない、という顔をしているね」
長の意図を掴めず、青は戸惑いの色を浮かべる。技能職位管理官たちは相変わらず無言のままだ。
「何かお叱りを受けるようなことでもしたのかと」
「心当たりがある?」
「……」
視線を泳がせ、返答に迷う青を見て、長はくつくつと笑いを零した。
「多少のやんちゃの心当たりくらいあった方が、元気があってよろしい」
長が片手を軽く挙げると、それに応じて技能職位管理官の一人が一歩前に踏み出した。
白い仮面をつけ、白い長衣の裾を引きずる姿。
「大月青、務め名シユウ」
長の声に合わせ、白き仮面は両手で三宝を掲げる。
盆に敷かれた白い絹布。その上に、銀色に輝く板が乗っていた。
「毒術師・虎の位に任ずる」
それは、虎の紋章が彫られた甲当て。
「――え」
口を開け、目を丸くする青をよそに、長は続けるべき言葉を口にした。
「加えて、大月青下士の中士昇格を許す」
「え?」
沈黙が落ちる。
「……」
「……」
「……ん!」
三宝を掲げたままの白き仮面が、呆然と立ち尽くす青にしびれを切らし、三宝の角でその腕を小突いた。
「いたっ」
仮面の向こうから微かな舌打ちが聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
「あ、し、失礼しました」
慌てて手甲の狼の銀板を外し、三宝に置く。そして、代わりに虎の銀板を手に取った。
「……虎……」
夢うつつのように、その意匠を見つめる。
「え、で、でも」
我に返り、長の瞳と虎の銀板を交互に見やる。
白き仮面の管理官は、静かに役目を終えると、また楚々と定位置へと戻っていった。
「早い、と思うか?」
青が狼の位を受けてから、一年半。
朱鷺と目標を定めてから、ちょうど一年。
目標としていた獅子の取得期限まで、あと三年。
「……いいえ」
時間はいくらあっても足りない。
青の黒曜の瞳に、一瞬、鋭い光がよぎる。
「この一年ほどにおける君の任務での評価を総合すると、いつまでもただの解呪係にしておくには勿体ない、と」
長は執務机上に並ぶ資料の束の一つを手に取り、静かに捲った。
「幾人かの高位者からも、推挙があってね」
「光栄です……」
少しずつ、これが現実であると実感が追いついてくる。血の気を失っていた青の頬に、次第に紅が灯り始めた。
「それで」
長の白い指が、机上の資料の一枚を手に取る。
「君を虎に昇格させたのには、理由がある」
「?」
虎の銀板に落としていた視線を上げると、一枚の書類が差し出される。
「ぜひ君に、経験を積んでもらいたい事がある」
青の手がそれを受け取るのを見届け、長は両眼を細めた。
資料の冒頭には、太字で記されている。
――「任務依頼書」。
「早速だが、挑戦してみてほしい」
「は、はい。承知しました」
式で呼び出され、任務管理局に出向いて文官と対面し、依頼書を受け取る――青がこれまでに経験した任務の受領は、常にその手順を踏んでいた。こうして長室で直接命を受けるのは、初めてのことだった。
戸惑いを覚えつつも、青は手元の依頼書を開く。
「拝見します」
一行ずつ視線を滑らせ、記された内容を読み進める。
「単独の……暗殺任務……」
そこには、青の単独行動による指令が記されていた。標的を「病死」に見せかけ、亡き者にせよ――つまりは、暗殺。
「確かに、初めてです」
完全単独行動も、そして暗殺も。
これまで請け負った任務は、最低でも四人、多くて十人規模の小隊による妖や賊の討伐が主だった。
単独行動での潜入、標的の排除となれば、今までの任務とは性質がまるで異なる。
詳細を確認しようと、青は任務書を裏返した。
だが、その視線が止まる。
「……」
そこに記されていたのは、暗殺対象の詳細。
ある男と、その家族。
――その中には、幼い子どもも含まれていた。




