ep.17 初任務(3)
不吉な文字列に顔をしかめつつ、青は鳥居をくぐり、石段を駆け上がる。
たどり着いたのは、人の手で土が均された境内らしき空間。
「……何だろう」
その中央に、黄褐色の楕円形の物体が転がっていた。
青は片手に苦無を握りながら、慎重に歩を進める。
物体の大きさは、大人の男がようやく抱えられるほど。米俵に近い。
もう一方の手に、小さな炎を灯し、さらに近づく。
——中央に、ひび割れ。
灯りを近づけると、それが何かの繊維でできていることに気づいた。
まるで、糸をより集めた繭のような——
「卵嚢……!?」
青は弾かれるように踵を返した。
石段の上から、村全体が見渡せる。
村を探索する隊長と中士二人。
その上方を取り囲む、無数の赤い眼、眼、眼——
「上です!」
叫ぶと同時に、青は苦無を投げ放った。
黒鋼の刃が、中士の頭上で光る赤い眼に突き刺さる。
白い煙が上がった。
『ギャアアアアアアア!』
老婆の悲鳴のような、耳をつんざく絶叫。
次の瞬間、中士の足元へ何かが落下した。
「いっ!?」
それは、犬ほどの大きさの、人面蜘蛛。
青の苦無が突き刺さった老婆の顔面は、断末魔の形相を浮かべたまま硬直している。
そこから伸びるのは、蜘蛛の体と無数の足。
「避けろ!」
隊長の声が響く。
三人が一斉に飛びのく。
直後、上空から、無数の蜘蛛が降り注いだ。
隊長たちは、間一髪で木の枝へ飛び移る。
上から見下ろす光景は、異様だった。
二十、三十はいるだろうか。
人面を背負った蜘蛛たちが、地を這うようにひしめき合っている。
「地神……針地獄!」
木の上から、隊長が術を唱えた。
——ざわり。
村中の木々が一斉にざわめく。
枝という枝が、蛇のように蠢き始めた。
隊長が右手を一振りすると、それを号令とするようにしなった枝々が、地を這う人面蜘蛛へ次々と突き刺さる。
老若男女の断末魔が連続する。
中には、地から突き出た根に貫かれ、串刺しとなる蜘蛛もいた。
「う……わ……」
石段の上からその光景を見ていた青は、覆面の下で奥歯を噛み締めた。
思わず耳を塞ぎかけるが、堪える。
「これだけの数の人面蜘蛛が、どこから……」
隊長が周囲を警戒しながら、木の上から飛び降りた。
青は石段を降りかけた位置から、声をかける。
「隊長」
「シユウ君、無事でしたか」
「石段を登ったところに、孵化した蜘蛛の卵嚢がありました」
卵嚢——それは、複数の卵を包む袋。
親蜘蛛が糸を紡ぎ、繭状にして守るものだ。
「隊長、嫌なことを思いついちまったんですが……」
中士の一人が顔色を青くしながら、串刺しとなった人面蜘蛛たちを見やった。
「まさか……あの蜘蛛の顔、この村の人たちなんじゃ……」
「喰った対象になり替わる妖魔もいると聞きますし……ありえますね」
隊長の表情には変化がない。
それでも、目の奥に苦い色が滲む。
「卵があるということは……」
青の低い呟きに、三人の上官が一斉に視線を向けた。
「……親蜘蛛は?」
「!」
いち早く察知したのは、隊長だった。
目の前に立つ中士二人へ、肩と背中で体当たりする。
直後、真下の土が突き破られ、巨大な鍵爪が薙ぎ払った。
血の飛沫が、中空に軌跡を描く。
「隊長!」
中士の一人が、背中から落ちかけた隊長の体を咄嗟に受け止める。
次の瞬間——巨大な鍵爪の足に続き、岩や土を弾き飛ばしながらそれが姿を現した。
巨大な蜘蛛。
だが、青がこれまでに見たことのある「巨大化した蜘蛛」ではない。
八つの目の代わりに——八つの人面が生えていた。
「炎神……」
もう一人の中士が、術を唱える。
「鬼火!」
放たれた火の玉が、人面蜘蛛に直撃した。
『イヤアアアァアア!』
甲高い女の悲鳴が響く。
炎に焼かれ、顔のひとつが崩れ落ちる。
だが蜘蛛は止まらない。
なおも巨大な鍵爪の足を振り上げる。
中士の一人が、倒れた隊長の体を肩に担ぎ、後方へ跳ぶ。
もう一人が素早く抜刀し、迫る鍵爪を弾き返すと同時に、刃を顔のひとつへ突き立てた。
今度は——
『ァ”ア”ア”ア”ア”ア”!』
赤子の泣き叫ぶ声。
貫かれた顔が、ゆっくりと萎れていく。
「クソ……!」
それでも蜘蛛は動きを止めない。
血の臭いを追うように、隊長を背負う中士の後を追っている。
「……もしかして……」
青は石段の上から身を躍らせ、隊長を抱えた中士の前に降り立った。
「伏せてください!」
「!」
刀を構えていた中士が即座に身を屈める。
同時に、青は両腕の革帯に差した針を引き抜き、素早く投擲した。
右手に三本、左手に三本。
鋭く放たれた毒針が、残る六つの人面の眉間へ次々と突き立つ。
『ギャァアアアィヤア”ア”ア”!』
得も言われぬ断末魔が響く。
六つの顔が白煙を上げ、爛れ落ちた。
剣山のように尖った跗節を持つ鍵爪の足が戦慄くように震え、動きが止まる。
「やったか……?」
中士が安堵の声を漏らした、その瞬間——爛れた表皮が弾け飛び、巨大な老女の顔が浮かび上がった。
『ヨクモ……ヨクモ……食ロウテヤル!』
「え……!?」
「うわああ!」
質量のある泡が弾けるような音とともに、老婆の顔が牙を剥き、青たちへと迫る。
『食ロウテヤル”ゥ”ウ”ウ”ウ”!』
——蜘蛛は確かに、人の言葉を発した。
「地神、天劔!」
隊長の声。
唱えに応じて地が震えた。
次の瞬間。
老婆の顔を、真下から杭が貫通する。
杭はそのまま天へと突き上がり、衝撃で土や石が舞い散る。
緑の体液が天高く噴き出し、老女の悲鳴が響いた。
「隊長?!」
振り返ると、隊長は中士に支えられながらも、すでに体を起こしていた。
血に塗れた両手を重ね、地へと押し込む——。
「奈落!」
手の動きと、続く言霊に呼応し、杭が崩れる。
蜘蛛の足元が瓦解し、陥没。
その巨体は、闇の底へ吸い込まれるように落ちていった。
「今だ……炎神!」
前に立っていた中士が、すかさず穴の縁へと駆け寄る。
「豪火球!」
ありったけの気を込め、巨大な炎を顕現させた。
両手を頭上に振りかぶり、奈落へと投げ落とす。
その動きに呼応するように、天から墜ちる火球のごとく、炎が奈落の底へと降り注いだ。
燃え盛る業火が、もがく蜘蛛を包み込む。
「……すごい……」
青は、地獄の釜のような光景を、ただ唖然と見守るしかなかった。
炎の中で蠢いていた蜘蛛の脚は、やがて動きを止め——炎が引いた後には、炭と化した遺骸だけが残った。
「おい、毒術の!」
中士に呼ばれ、青は我に返った。
振り返ると、隊長が地に座り込んでいた。
上半身を中士に支えられ、肩当てと胸当てが裂け、脇腹まで深い裂傷が続いている。
「酷ぇ妖瘴が……」
中士の言葉通り、傷口を中心に隊長の上半身へ黒ずんだ痣が広がっていた。
「は……、は……、っ……」
苦しげな呼吸。
胸が、大きく上下している。
「妖瘴を喰らった上に、あんな大技を使ったもんだから……気がだいぶ削られてる」
「一色隊長、分かりますか?」
意識が朦朧としているのか、呼びかけにも応じない。
その姿は、かつて見た藍鬼の状態を彷彿とさせた。
「いま、解呪を——」
言いながら、青は腰の道具袋から符を取り出した。
解毒薬を封じた薬剤符。
符を隊長の傷口に当て、指先に意識を集中させる。
「解呪」
短い言葉とともに、青は符を患部に押し当てた。
紙片の文字列が淡く発光し、蒼く発火する。その炎を手のひらで包み込むように握り込んだ。
抵抗なく、炎は消失。
そっと手を開く。
黒い粉末が、手のひらにこびりついていた。
わずかに覆面をずらし、青は静かに息を吹きかける。
粉末は、空気に紛れるように掻き消えた。
*
隊長の傷の応急処置を終えた後、中士の一人が隊長を担ぎ、四人は数刻かけて黒ノ森を抜けた。
飛ばした式からの連絡を受け、医療班が転送陣を使い、陣守村で待機していた。
隊長を引き渡し、これで任務は完了。
「任務報告は俺らがしておく」
運ばれていく隊長を見送ってから、中士二人は青を振り返る。
「今日は悪かった。ガキみてぇなこと言って」
「え?」
青がぽかんとしていると、中士二人は「忘れてんじゃねぇよ」と笑った。
「お前がいなかったら、全滅してたかもしれん」
「助かった。今日一番の武功はお前だって、報告しとくからな」
「え、いえ、そんな! 皆さんの方こそ……」
目の前で目撃した上士と中士の術の連携。むしろ、惚れ惚れしたのは青の方だった。
覆面や額当てがなければ、どれほど自分が興奮で頬を紅潮させているかが分かるのに。
そう思うと、少しもどかしい。
「また任務で遇ったらヨロシクなー!」
先輩二人は手を振り、去っていった。
壊滅した二つの小村。
そこにはかつて、長らく妖に人身御供を捧げる風習があった。
村で見かけた氏神を祀る社は、かつて人身御供として命を奪われた村人たちの霊を鎮めるためのもの。
しかし。何のきっかけか、無念を遺した魂が怨嗟の権化となり、村を襲った。
中士からの報告を受けた法軍は後日、壊滅した村へ小隊を派遣。
蜘蛛の死骸の処理、社の整備、そして村人たちの弔いを行った。
青にとって、毒術師シユウとしての初めての単独任務。
黒ノ森の妖虫、人面蜘蛛討伐任務は、こうして成功に終わった。




